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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

バルナバ・ボイス(No.21)

イエス・キリストのEyes⑧


                      少女よ、起きなさい!



会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足元にひれ伏して、しきりに願った。「私の幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやって下さい。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群集も、イエスに従い、押し迫って来た。・・・・イエスがまだ話しておられる時に、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」・・・・一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣き喚いて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「何故、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム(少女よ、私はあなたに言う。起きなさい)」と言われた。
                                                                                               【マルコ福音書5章21〜43節】


ヤイロに対するイエスの「目線」
 イエス・キリストはこのストーリーの中で、三種類の「人々(或いは個人)」に対して、ご自身の目線を投げかけています。先ず第一の目線は、会堂管理者ヤイロに対してです。ご存知のように会堂管理者という立場は、ある程度の「権威」を持った人物が就く職業です。ですから当然、ヤイロはイエス・キリストに対して、権威的に振舞えばよかったのですが、彼は自分の権威的立場を忘れるかのように、イエス・キリストの御元に跪き(身を低くして)、彼の「裾」を掴みながら必死に懇願したのです。


 この時のヤイロの「懇願」は、決して「どうか・・・・して下さい!」などと、相手の「行為」を要求するものではなく、「どうか、おいでになって手を置いてやって下さい。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(23節)という、言わば信仰告白(宣言)の言動です。つまりイエス・キリストが、自分の娘の元に来て下さり、その御手をもって触れて下さる限り、必ず娘は不治の病から癒され、完全に快復する!という、ヤイロのイエス・キリストに対する信仰を、真剣に訴え出た言葉でした。


 このヤイロの「信仰表明」に対して、実はイエス・キリストは、その時「何」も応答していません。その理由は、この後に登場する第二、第三の人々に対して、この時のヤイロの「信仰表明」の中にある、重要な「奥義(教え)」を示すべく、その時は黙っておられたのです。イエス・キリストは、ただ一言「分かりました。それではご一緒しましょう!」と丁寧に語られ、ヤイロの「家」に出向きました。


 ところが道中、「長血を患う婦人の癒し(バルナバ・ボイスNo.3参照)」の出来事に、ヤイロは立ち会うことになったのです。聖書には、この突然のハプニングの所要時間が、一体どの位のものであったのか、何も記述されていないのですが、恐らくヤイロの一行が、数時間も足止めを食らったことが推測できます。そうこうする内に、ヤイロの家から召使が駆け付けて来て、ある「悲しい知らせ」を告げました。「あー、ご主人様!お嬢様は亡くなりました。もう駄目です!」と。この時、大抵の「父親」でしたら、可愛い娘を失ったことに気が動転して、取り乱しながら慟哭することでしょう。


 しかしこの時のヤイロは、泣き叫ぶなどの「行為」を取ったとは、聖書には記述されていません。恐らく、余りのショックに立ち尽くしたまま、何も出来なかったのではないでしょうか!彼の「思い」の中では、「一体、どうしたらよいのだろう?どうにもならない、死の状態ではないか!・・・・しかし、イェス様が来て下さっているから・・・・?」などと、様々に葛藤していたはずです。


イエスの第二の「目線」
 イエス・キリストは、この一連の出来事を静かに見守りながら、遂にヤイロの自宅に到着しました。すると「人々が大声で泣き喚いて騒いでいるのを」(38節)、イエス・キリストは目撃したのです。これが、イエス・キリストの第二の「目線」の対象者、つまり「泣き騒ぐ人々」でした。実はイスラエルの「葬式」には、葬式に参加する遺族の悲しみを代わりに引き受け、慰める意味もあるのでしょうが、演技として「泣く」ことを仕事とする人々が参列します。彼らの「泣き方」は、ある種のパターンがあるので、当然パフォーマンス的なものとして聞こえてくる訳ですが、この時にはそのような、彼らの「泣き方」とは全く別のもの、つまり「泣き騒いで、常軌を逸する程の、何かおかしい騒ぎ」が起きているのを、イエス・キリストは見て取ったのです。


 即ち、葬式に参列するあるグループの中に、「悲しみ」の表情ではなく、「何か別のものがある!」と、イエス・キリストは霊的にキャッチしました。それは「ははーん、イエスはやって来たが、結局何も出来なかったではないか!ヤイロの家にも、遂に不幸が訪れたぞー!」などの、冷めた「視線」に秘められたものです。このような「視線」は、霊的な「あざけり」と言います。「裁き」が、具体的な「行為」の現れであるのに対し、この時のような霊的あざけりは、中々「表(言葉や態度)」に出ないものですが、確実に「信仰」を破壊する程の、悪しき「力」をもって、常に私たちをイエス・キリストという、「正しい道」から引きずり下ろします。


 そのような人々の「あざけり」の視線を無視しながら、イエス・キリストは死んだと思われる、ヤイロの娘の部屋に入るのですが、部屋の中には更に「不信仰」と、「裁き」に満ちた人々の視線にさらされます。イエス・キリストは、すかさず「子供は死んだのではない。眠っているのだ。」(39節)と、父なる神の「命の言葉」を、落ち着きながら発しました。するとイエス・キリストに批判的な人々が、「お前は、何と馬鹿で失礼なことを言っているのか!私たちは先ほど、医者の立会いの元に、死亡を確認したばかりだぞ!その言葉を撤回せよ。」と、逆上した言葉を浴びせました。


 しかしイエス・キリストは、彼らの「裁き」を無為するかのように、「この場から出て行きなさい!」と言い放ち、部屋に居た主な批判者たちを退出させました。そして部屋に残ったのは、イエス・キリスト以外にヤイロとその妻、そしてイエス・キリストの十二弟子の内、ヤコブとペテロとヨハネという、僅か5名でした。イエス・キリストは静かに祈りつつ、「その時」を待ち望みました。つまり父なる神が、「命の言葉」を成就する「御心の時」です。すると聖霊様が、イエス・キリストの「霊」に語りかけ、父なる神の「Goサイン」を知らせました。


イエスの第三の「目線」
 イエス・キリストは、死んだと思われるヤイロの娘の元に近寄り、娘の顔にご自分の「顔」を近づけ、ご自分の「目線」をしっかりと、娘の閉じた「まぶた(開かれる前の状態)」に見据え、「命の言葉」を発せられました。「タリタ、クム」と。イエス・キリストが、第三の「目線」を投げかけてた人物、それは死んだように思われる、ヤイロの娘に対してです。ここが、今回のストーリーの最重要ポイント(奥義)です。私たちは、「人」に対して視線を投げかける時、当然それは「生きた人」に対してのみです。「死者」に対して、わざわざ「視線」を投げかけるようなことは、葬式の行事の時においても、ほんの一瞬です。しかも「死に顔」を、悲しみの視線で見るだけです。まるで、未だ生きているかのように、「死者」の顔をじっと見つめる者は、喪主か遺族の一部だけでしょう。


 この時、イエス・キリストが死者に対して語った、「タリタ、クム」というアラム語は、直訳すると「少女よ、私はあなたに直接命じる。寝ている状態から、今すぐに立ち上がりなさい!」という意味の言葉です。世的な聖書学者は、この時のイエス・キリストの「奇跡話」を、現代医学に照らし合わせながら、少女の病死を「仮死状態」と把握し、実際に少女が復活したのではなく、「仮死(或いは植物人間状態)」からの、奇跡的回復と認識(説明)しています。しかし覚えて下さい!たとえ「仮死」だとしても、ずっと寝たきり状態にあった少女が、突然目覚めたところで、リハビリ無くして立ち上がることは、とても考えにくい話です。


 父なる神の完全なる「癒し」が、少女に「この時」起きた訳ですが、イエス・キリストは少女が、決して死んだ状態にないことを、父なる神の「御心」を通してご存知でした。つまりヤイロを含めて、「少女」の回復を純粋に願う人々に対して、父なる神が偉大な方であり、少女の「命」を生き長らえさせることの出来る、真の「癒し主」であることを、イエス・キリストの語られた、たった一言の「ご命令」、つまり「タリタ、クム」によって証明されたのです。


 覚えて戴きたいことは、「少女よ、起きなさい!」という、この父なる神の「ご命令」は、決して過去の「出来事(奇跡)」だけのものではありません!イエス・キリストは、私たちが現実の世界で被る、様々な脱出不可能と思われる「事態」や、回復見込みの無い、長きに渡る「伏した状態」の中にあっても、父なる神によって「御心の時」を開いて下さり、私たちを必ず「命の再生」の方向に導いて下さる方です。


 ご存知のように、私たちの「霊」は様々な人間関係の中で、いとも簡単に精神的に傷つけられ、遂には倒れてしまう時があります。しかしイエス・キリストは、如何なる状態の中にある「霊」に対しても、「起き上がりなさい!」と、力強く命じられているのです。つまり、私たちがヤイロの娘と同様に、この時に語られたイエス・キリストの「命の言葉」を、素直に受け留め従う時に、私たちの血肉の「力」ではなく、父なる神の「命の再生」の御力によって、私たちは新たに立ち上がることが出来るのです!


勇気の要る「一言」
 ところで、ヤイロの霊的姿勢について触れますが、彼は「問題」が起きたから、イエス・キリストの御元に来た分けではりません。以前より彼の「霊」の中には、父なる神の「御心」を素直に求める、へり下った姿勢がありました。「問題」が起きた時に初めて、神の「救い」を求めるのではなく、「問題」の有無に関わらず、常に父なる神の「権威」の下に、身を低くして願い求める、それがヤイロの信仰姿勢でした。それ故彼にとって、今まで全く面識の無い、イエス・キリストに相対した時にも、即座に身をかがめることが出来ました。


 私たちは時折、自分の「立場」や「プライド」を守るために、自分の「権威」を主張することがあります。しかしヤイロの如くに、自分の「権威」よりも、神の「権威」の下にへり下り、勇気を持ってイエス・キリストの御前に身をかがめる、これが「命の回復(奇跡)」につながるのです。例えば子供が「世」の中において、自立して生きて行くことが出来るために、当然「親」として為すべきことは、「権威」ばかり振りかざすのではなく、子供の立場に身をかがめて共に座すこと、これが親の「務め(勇気)」です!


 しかし「権威」ばかりに気を取られて、「親」として一番肝心かなめのこと、つまり真剣かつ勇気の要る「関わり」をせずに、ただ甘やかして(放棄して)育てていくのであれば、それは子供にとって「好意的な虐待」につながるのです。「子供」を叱ることは、はっきり申し上げて、自分の気分を害する行為です。だからと言って、無責任に甘やかし放棄しておきますと、それは一時的には「子供」から嫌われずに済むことです。


 しかし覚えて下さい!子供を「可愛がること」と、子供として「しっかり育て、しつけること」は、全く違う行為です。真剣に「子供」を愛して守り、その子の「将来」を考えているのであれば、時には嫌われ憎まれたとしても、「その時」に伝え(教え)なければならない、大事な「言葉」があるのです。それをイエス・キリストは、ヤイロのへり下った信仰を見てから、一言命じられたのです。「少女は死んでいるのではない。ただ眠っているだけだ!」と。


 父なる神は、今まさにあなたの「霊」に対して、聖霊を通して語りかけています。「あなたは、今どのような状態にありますか?そのままの状態にあり続けることを、私は良しとは見なさない!だからあなたに命じる。今、起き上がりなさい!」と。父なる神は、あなたが「伏した状態」にあるのではなく、必ず起き上がって「神の子供」となり、自立して父なる神を「見上げる者」になることを、強く欲しておられます。主なる神が語られる「命の言葉」は、必ずその通りに成就します!それ故にあなたの「人生」は、既に神の「御心」の中で、完成を目指して前進していることを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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