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正しい生き方(No.34)

     見えざる神の「祝福」を求める




食べ飽きている者はパンのために雇われ、飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み、多くの子を持つ女は衰える。
                                           【Ⅰサムエル記2章5節】


「何」の為に生きる(働く)のか?
 「飽食の時代」と言われていた時代(1970~1990年代)が、非常に懐かしく思われる今日ですが、今の時代は逆に「飢餓の時代」と言えます。それは肉体的にも精神的にも、また霊的にも「飢餓」が蔓延する、そのような大変な時代に私たちは生きています。


 今回の記事から示されるポイント、それは私たちキリスト者が、如何なる信仰をもって生きるべきか?という点です。そこで、先ず第一の重要ポイントは、「あなたは何の為に働いているのか?」という霊的「問い」です。この質問に対する、「この世」の人々の一般的な返答としては、第一に「食べていく為」、第二に「明日の蓄えの為」、第三に「自分の出世や、自分の栄光の為」などと答える方が、殆どでは無いかと思われます。


 しかしこれらは全て、現実という「見える事実」に対する、何らかの「計画的判断」、例えば自分の計算も含むでしょう。自分の抱く、何らかの「計画的判断」から、未来(将来)に対して、何らかの行動をすることから生じる、三次元的「答え」です。勿論、私たちは次のことを知っています。真実に働く、つまり「使命感」を持って、真面目に働いてる人たちがいることを。彼らは、他者に対する「善意」をもって、仕事に生かしています。例えば医療従事者、社会福祉や教育従事者など。


 しかし殆どの人の場合、それは前述した如くに、①食べていく為、②明日の蓄えの為、③自分の出世(栄誉)の為という、三つの「思い(欲)」をもって、日々労働に明け暮れています。その殆どの理念は、やはり「自分の・・・・の為に!」という、意識(欲)がそのベースとなって、仕事しているではないでしょうか!


 では私たちキリスト者の場合、「何の為に働いているのか!」と問われた際に、覚えるべきポイントは、イエス・キリストの「舟上の垂訓」にある、「心の貧しい者」として、常に満ち足りることを知っている!という点です。何において満ち足りるのか、それは神の「命の言葉」を、先ず第一に求める生き方であり、神の「命の言葉」に、常に満ち足りた生活をすることです。それ故に私たちは、生きることに於いても、仕事をすることに於いても、それら全てが「神の国」と「神の義」の為にあるのです。


 イエス・キリストは「荒野」において、サタンの第一の誘惑に対して、明確に返答されました。「人はパンのみにて生きる(働く)に非ず、父なる神が与えて下さる、一つ一つの命のパンによって、生きることを求める。つまり命の糧を得る為、天上から与えられる命のパンを、常に求めて行くことが一番に重要である!」と。イエス・キリストの重要な「言い回し」、その中に神の見えざる、真実の「祝福」を求めるべく生きていく、また働いていくことが、実は問われているのではないでしょうか。


「現実」に頼る者の結末
 そこで重要となる第二のポイントは、現実という見える「事実」と、それとも見えざる「神の事実」、そのどちらによって、私たちは生きようとするのか、つまりどちらを選択して、生きる為の「拠り所」として働いて行くのか?このことが非常に重要となります。そういう意味で、ハンナの今回の表明は、私たちに対して一つの「命題」を提示しています。


 目に見える「現実」に頼る生き方の特徴として、それは前述した如くに①食べて行く為、②蓄えて行く為、③自分の将来の出世の為ですから、常に満ち足りることがありません。つまり「もしこれが無くなったら・・・・」などの不安と、先に対する「恐れ」の中で、五里霧中の如き「当てのない道」を歩くようなものです。ハンナはこの状態を、「食べ飽きている者はパンのために雇われ」と表現しています。また同じ意味として「子のない女は七人の子を産み」と付け加えています。彼女は「現実」に頼る人のことを、「食べ飽きている者」、「子のない女」と説明していますが、これは如何なる意味でしょうか?


 それは、今与えられいてる「恵み」に対して、決して満足すること無く、また感謝することも出来ない状態を意味します。彼らは、仮にこれが無くなった時に、先はどうなって行くのか?などと、今与えられている神の「恵み」を見るのではなく、明日これが無くなったら?という「不安」と「恐れ」の中に、いつも「霊」が縛られている為に、食べても満足しない、つまり食べ飽きているのです。また多くの子を授かったとしても、それに感謝できない訳です。ハンナのこの表現(言い回し)が、実に的を得ています。


「神の事実」に依り頼む信仰者
 それに対して、見えざる「神の事実」に依り頼む者は、即ち目には今見えなくとも、神の麗しい「祝福の法則」が、この「見えざる次元」に於いても、必ず存在している(用意されている)ことに期待します。「今、現実としては見えていませんが、神は必ず私に必要なものを、全て整え与えて下さいます。それは過去に於いても然り。今無くても、明日になれば必ず、神は何らかの恵みを与えて下さいます。」と。


 「ゼロ(零)」という意識は、恐らく「今の事実」を否定的に捉え、「無(何も無い)!」と判断することから生じます。しかし見えざる「神の事実」を見る者の場合、たとえ「今」がゼロの状態にあっても、それを「無」と捉えるのではなく、その中に神の麗しい無限の世界、つまりゼロを超えて余りある程の、素晴らしいプラス(益)、即ち神の永遠の「恵み」が必ず備えられている!と捉えます。


 例えば、過去からずっとマイナス状態が続き、「今もマイナスが続いてるから、将来に渡っても、そのマイナスは解消されることが無いだろう」と捉えること、これは「現実」という、見える事実に頼る生き方です。それ故に「現実」が悪い場合には、もっと更に将来が「ゼロ以下」、つまりマイナスになってしまうと判断し、そのマイナスを解消すべく、必死にプラスを増やすことに努力します。つまりいつまで経っても、食べ飽きた状態です。「満ち足りること」に、少しでも感謝することがないからです。


 また彼らは「多くの子」、つまり「多くの恵み」を与えられたとしても、その状態に決して満足しません。それは自分が作り出す「祝福」に到達していないからです。自分の為の祝福、自分の計画、自分の人生、自分の時間などに、心と霊が縛られている訳です。


 ところが、見えざる「神の事実」の中に、全てのことを感謝できる、信仰に満ち溢れた者のことを、ハンナは「飢えている者」と表現しました。この「飢えている者」とは、決して貧しい状態にある者を意味するのではなく、主なる神の「恵み」を、常に飢え渇いて求めることです。しかもそれは「今無いから」求めるのではなく、あろうが無かろうが、「神の次元」にある祝福を、常に飢え渇き求める者は、たとえ今の「現実」がゼロであっても、神の「恵み」に感謝できるのです。


 またハンナは「子のない女」という、別の表現を用いていますが、彼女(子の無い女)は、今の現実として子が無くとも、必ず後々には「七人の子を産み」、つまり「七人の子」を産むこと自体が、神の素晴らしい「祝福」にある!と捉える者を意味します。それは「七人」になったから、感謝できる信仰ではなく、「一人」産んだ時から、既に神の「祝福」に感謝する者です。しかし「多くの子を持つ女」の場合、彼女は「多く」の次元に、決して満ち足りることが無い為、更なる「多くの・・・・」という、見える現実ばかりを求めるので、結局は「現実」が少なくなると、途端に衰える(力が失せる)のです。


 ですから、ハンナが結論として表明している点は、私たちが何の為に働き、何の為に生きているのか?という命題に行き着きます。即ち、私たちは「現実」の為に働いている訳ではなく、それは見えざる「神の事実」の中に生かされ、そして「神の事実」を、より多くの「恵み」として受け継ぎ、それを多くの人々に、分かち与えることの出来る、素晴らしい神の「ご計画」の中に、信仰をもって委ねる「生き方」につながりす。


 神の真実の「祝福」が何処から来るのかを、常に知っている者は、たとえ「現実」がどうであれ、また今の事実がマイナスであれ、それをマイナスと捉えるのではなく、むしろ神の豊かな「祝福」の次元の中で、全てが相働きて「益(プラス)」となる!という、神の麗しい「永遠性」、つまり神の豊かな次元に生きることを、ひたすら飢え渇いて止みません。


 皆さん、如何でしょうか?私たちの生きる時代は、以前の「飽食の時代」が過ぎ去り、今は「飢餓の時代」となり、特に霊的な飢餓が進行し、そのことで苦しんでる人々が多く発生しています。本当の真実が分からないまま、「現実」の為に生きる糧を求めて、「奴隷」の如くに働かざるを得ない、大変苦しい経済状態にある人たちは、今後どうなって行くのでしょうか?私たちキリスト者はその事を、常に聖霊様を通して教え示されながら、「心の貧しい者」として、真実の「命の糧」を彼らに届けるべく、私たちは今生かされ、日々訓練されている!と、信仰をもって進んで参りましょう!


 そうすれば必ず、あなたは彼らに対して、「五千人」以上の飢える人々に、神の「祝福」として給食を用意した、イエス・キリストの信仰の如くに、偉大なる神の「大収穫(リバイバル)」の時に、真実の「命のパン」を分配できる者として、召し出されることになります。そうです!神の偉大なる仕事が、あなたに託されているのです!


 あなたは、何の為に生きて(働いて)いるのでしょうか?あなたは「神の国」と「神の義」の為に生かされ、その事(神の福音)を多くの人々に伝える、そのような重要な神の「働き」が、あなたにあるのです!そのことを、常に聖霊様を通して示して戴きながら、あなたが更に豊かな神の霊的ワーカーとして、素晴らしい「収穫」に召し出されて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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