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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神のご計画(No.12)

      神の「御目」にあなたは・・・・




もし人がその妻を出し、彼女が彼の元を去って、他の男のものとなれば・・・・その地は汚れてしまうではないか。主は言われる。・・・・「あなたは、我が父、私の若い日の夫」とお前が私に呼びかけるのは、今が初めてであろうか。「主はいつまでも憤り、限りなく怒り続けるだろうか」とお前は言いながら悪を重ねる。それでもお前は平気だ。
                                             【エレミヤ書3章1~5節】


「真実」を求めていますか?
 今回の神の「メッセージ」も、私たちは「聞く」こと、また「読む」ことに耐え難き内容です。しかし、主なる神の「忍耐」を想像する限り、それは「放蕩息子」のことを、毎日心配しながら待ち続ける、慈愛深い「父親」の御思いに、似通っているのではないでしょうか!ましてや今回の記事に示される、愛して止まない二人の娘に関して言えば、父親は心配で仕方が無い!といった感じです。


 二人の娘とは、北の「イスラエル」と、南の「ユダ」のことです。父親の「願い」としては、この二人の娘が真の「祝福(幸)」を得るべく、真実の花婿(御子)に嫁いで欲しく、ねんごろに躾けてきたにも関わらず、彼女たちの為すこと自体が、父親をハラハラさせる程の、愚行に走っている始末です。


 ところが今回の神の「メッセージ」には、実は父親の「愛」の促しが見え隠れします。しかもそれは「真実」を伴っています。私たちは「真実」という言葉を好みます。何故なら私たちの住む世界が、実は「偽り」に満ちていることを、私たちは知っているからです。この神の「真実」を求める渇きが、あなたの中にありますか?例えばある人は、「宝石」等の貴金属を愛して止みません。その中に「真実の光(輝き)」がある!と思っているからです。


 私たちが「真実」を追い求める時、その中に「永遠性」という概念も、同時に見出したいと思っていませんか?「嘘(偽り)」だらけの世界において、「真実」を生み出すものが、永遠の輝き、永遠の幸福、そして何よりも永遠に続く「言葉」です。「言葉」の真実とは、「言ったことは違えない!」ということです。この「永遠性」という概念をもって、今回の神の「メッセージ」を捉えますと、そこには「偽り」が全く存在しない程の、「御言葉」に伴う神の「真実」が存在しています。


 私たちは「罪」がある故に、神の言葉に対して「それを待ち切れない!」と捉え、不信仰に陥るのです。また「別の言葉」に惹かれたり、流されてしまう程の、霊的に「弱い」存在です。それと同時に、私たちは永遠の「聖さ」も、まるで「命の水」を慕うが如くに、渇き求めようとします。このように、私たちが神の「言葉」に渇く際には、その中に永遠の「真実」と、永遠の「聖さ」があることを、確実に信じる必要があります。


「聖さ」と「潔さ」
 今回の神の「メッセージ」には、ある重要なキーワードが述べられています。それは「聖さ」という概念ですが、私たちは今回の記事から、二つの重要な奥義を知る必要があります。第一に①あなたは、神の「真実」を受けるに価する者ですか?別の言葉で表現するなら、あなたは神の「ご計画」にとって、必要な「建材」であるか?という点です。「私は完全な建材として、今すぐにでも(神の宮に)組み込まれる、重要な建材(パーツ)ですから、どうぞ用いて下さい!」と、堂々と言い切れる「器」でしょうか?


 悪魔サタン及び汚れた悪霊たちは、私たちの「霊」に近付いて唆します。「あなたの何処に、麗しいと見える程の、良きパーツがありますか?いつも口からは、神の言葉ではなく、自己中心的な事だけを呟く、そんなつまらない存在でしょう!今のあなたを、神の建材として用いたとしたら、それこそ神の宮が倒れてしまう始末。あなたでは所詮、無理!無理!」と。


 ところが主なる神の場合は、「たとえあなたが、如何なる状態にあったとしても、自分の肉の目で見て、自分を判断してはなりません!私の御目から見た時に、あなたは有用(大事)な貴い器である!」と、見続けて下さる方です。この「神の事実」を、常に信仰で受け留めて下さい!


 第二の奥義は、②「汚れ」という概念に関して、私たちは正しく知る必要があるという点です。その地は汚れてしまう」(1節)と、「この地を汚した」(2節)にある「汚す」とは、英語で「defile」と言い、「元の整然とした状態に戻れない程に乱された(汚された)有様にすること」です。ところで日本語には、この「汚れ」を意味する、「不浄」という言葉があります。「浄」とは「きよらか」を意味しますので、「不浄」とは「きよらかで無い状態」を指しています。「不浄」に似た概念として、「不潔」という言葉がありますが、この言葉の中にある「潔」とは、「いさぎよさ」を意味します。


 この「潔(いさぎよさ)」の語源は、「いさ(とても)きよし(清い)」の合成語で、「清い状態が満ち満ちた様」を現わしています。即ち、「水」の状態に喩えるなら、全き「汚れ(不純物)」の無い、澄み切った状態のことです。補足ですが「浄(きよらか)」の語源は、「水と水がぶつかり合う様」を意味し、私たちが「清流」の自然水を求める場合、やはり「下流」の水よりも、水流の激しい「上流」の水を求めます。


 何故でしょうか?深い山脈の渓谷から、地下を通って「泉」として溢れ出る、その冷たい甘水には、無害な有機物(ミネラル)が多く含まれ、当然岩を侵食する程の「水力」がある為、水中酸素濃度が高くなります。その上流水を飲んだ瞬間、私たちは「新しい活力(水の命)」を戴き、何となく「生き返った!」気分になります。このように、「力」を込めて水を清めることを、「浄(きよらか)」と言います。


 主なる神ご自身が、イスラエルの民(私たち)に対して求める姿勢、それが「浄(きよらか)」と「潔(いさぎよさ)」という、二つの霊的な信仰状態です。ところで創造主に対する、私たちの「思い」や「意思」の働きは、本来は神が与えた「聖い(汚れ無き)賜物」です。同様に神ご自身が、私たちを見続ける「御目」の状態は、まさしく「浄(きよらか)」であり、「潔(いさぎよい)」ものです。神ご自身が「聖なる方」である限り、私たちも「聖く」あるべきです。そうです!真実の神がストレートに、私たちを愛して下さるのであれば、私たちもストレートに、純粋に(100%の思い)をもって、愛し仕える必要があるのです。


 しかし二人の娘(イスラエルとユダ)は、愚かにも主なる神の「御目」を忘れ去り、自分の「肉の眼」で「別のもの」を求めた結果、この地が汚れ始めたのです。そういう意味で私たちは、主なる神の「永遠の真実」と、全き汚れの無い「聖さ」をもって、この地を麗しい「神の園」へと耕し直す、素晴らしい「働き」を担っています。この「働き(務め)」は、今も尚継続しています。神は決して、諦める方ではありません。たとえ悪魔サタンが「666(偽救世主)」を登場させ、この地を完全に支配すべく、今盛んに働き始めたとしても、そんなことに神は構っていられません。神は純粋に信じ続ける、賢い乙女(真のエクレシア)を通して、「恐怖」におののく多くの人々を、霊的に刈り取ろうとしているからです。


神の「御目」にあなたは・・・・
 ヨハネ福音書4章7~15節には、イエス・キリストとサマリヤの一婦人の、不思議な「出会い」の記事が描かれていますが、彼女は私たちの霊的雛形です。彼女は、イエス・キリストが与える、未だ飲んでもいない「生ける水」を、純粋に信じて受け取りました。そして、持っていた壺を置いたままにして、自分の町に戻るや否や、町の住民に対して証言します。「本当に汚れの無い、永遠の命に至る真実の水を、私は遂に見出した!」と。


 どうして彼女が、イエス・キリストとの、不思議な「出会い」に導かれたのか?私たちの「知性」では、理解し難き次元にありますが、ただイエス・キリストの「働き」が、主なる神の麗しい「ご計画」を通して、この時に現れ出たのだ!と、私たちは信仰で受け留めるべきです。何故なら全ての事に、神の絶妙な「タイミング」があるからです。彼女自身はこの時、既に根尽き果てる状況にありました。「私が生きている意味は無い!何故、私は今までずっと、このような苦境を強いられるのか?真の礼拝(祈り)を捧げる場も無いではないか!」と。


 神の「御目」から見て、彼女は決して「汚れた女性」ではなく、むしろ「聖く、潔い信仰を持った、貴い神の花嫁」として、イエス・キリストによる「命の水」を与え、また真実の「礼拝」へと導いて下さったのです。この神の麗しい「視点(御目)」に立って、私たちは次の重要な信仰行動を、改めて実践して行く必要があります。それは神の視点から、常に「自分の姿」を見るという、霊的な意識付けを習慣化することです。


 私たちの普段の「思考」の働きは、その殆どが「自分の視点から、自分自身を見ようとする意識」、つまり肉なる「罪」の支配下にあります。この自分で「自分」を見ようとする意識は、神から見て全てが「汚れ」です。しかし信仰に立つ者は、「私自身がどうであれ、私の現実がどうであれ、真実の神の御目には、私は神から愛されている、大切な聖い娘(乙女)である!」という、聖なる神の「御思い」に留まります。何故「聖い乙女」と言えるのでしょうか?それは神が創造主として、私(あなた)を「聖い者」として、母の「胎」に命を宿す前から、神の「ご計画」の中に創造して下さっているからです。


 それに対してサタンは、常に「現実のあなた」を見せます。そして必ず、「現実」イコール「ネガティブ」と、あなたの「意識」に茨の種を蒔き散らします。その時に聖霊様は、すかさず「否!父の御目に、あなたは永遠に聖い、汚れの無い娘(乙女)ですよ。」と、私たちの「意識」を軌道修正されます。私たちは、ついつい「自分は一生懸命に~しているのに・・・・」などと、常に自意識から「自分」を見ようとするなど、霊的な悪習慣があります。


 ところで自分の目(或いは意識)で、「自分」を見る(判断する)ことを、「主観的」と言います。それに対して、他者(外側)からの視点で、「自分」を見る(判断する)ことを、「客観的」と言いますが、これを信仰面で把握するのであれば、「主なる神の御目に、自分はどう映っているのか?」という視点です。ですから、私たちの「思考」の中にある罪の「弱さ」を、今後はイエス・キリストの「御名」によって、ことごとく排除する信仰が必要です。自分で「自分」を判断しようとする、ネガティブ思考の全てに対して、力強く命じて下さい!「今の自分を見ようとする、自意識の全てよ、イエス・キリストの血潮によって命じる。直ちに出て行け!私は、主なる神の御目に、高価で麗しい宝石の如き者である!」と。


 故に私たちは、絶えず聖霊様に「助け」を求めましょう!そうすれば、聖霊様は「命の水を飲む、あなたは既に聖い者である。故に、更に聖いものを求めて、日々前進して行きなさい!」と、力強い励ましをもって導いて下さいます。とかく私たちは、この主観的に「自分」を見ようとする、「罪の思考」の虜(奴隷)」に陥りますが、果たして真実の神が自分の状態を、如何様に見ておられるのか!この神の視点に立つべきです。私たちは、自分の目で見た「自分」に対して、「汚れている!」というレッテルを、いとも簡単に貼りますが、神の「御目」から見た時に、「あなた」を選び召し出す、その「ご計画」の目的は、新しい「天」と「地」へと回復するための、「重要な器」として、あなたを更に練り聖めるためです。


 そうです!あなたは神の「ご計画」の、最終的な「完成の時」に向けて、今生かされている「重要な存在」です。私たちは、神の「ご計画」の中にある、麗しい「永遠の真実」と、全き汚れの無い「命の水」を、豊かに受け継ぐ者として、主なる神は「真実の愛」をもって、私たちを確実に守り導いて下さいます。そういう意味で、私たちは「自分」のことを、肯定的な信仰をもって捉えましょう!その際に、果たして自分の中に「潔くないものがないだろうか?」、また「聖くない状態はないだろうか?」など、聖霊様から信仰を点検して戴きながら、神の前に遜って日々前進して行く必要があります。


 私たちは「激流」の如き、大変な時代を生きていますが、ある面私たちの信仰の、霊的「真価」が試されている時です。あなたが「真鍮(しんちゅう)」の如き、「暗闇」に光を投じる「神の器」として。そうです!あなたは幼き「乙女」から、ジャンヌ・ダルクの如き、聖なる「神の戦士」へと、聖霊様が直々に訓練しているのです。あなたは、神の霊的「大収穫」の時に向けて整えられた、「有用な器」である!この神の「御目」を、常に意識しましょう!


 また「自分」を悲観的に、或いはネガティブに捉えようとする、サタンの「誘惑」の全てを、イエス・キリストの「血潮」で、ことごとく排除して参りましょう。あなたがイエス・キリストの、純粋かつ賢い「乙女」として、更に大胆に召し出されて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2021年4月11日のメッセ-ジ)


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