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神のご計画(No.7)

                 三つの罪状告発




ヤコブの家よ、イスラエルの家の全ての部族よ、主の言葉を聞け。主はこう言われる。お前たちの先祖は・・・・尋ねもしなかった。「主は何処におられるのか・・・・人の住まない地に導かれた方は」と。・・・・祭司たちも尋ねなかった。「主は何処におられるのか」と。律法を教える人たちは私を理解せず、指導者たちは私に背き、預言者たちはバアルによって預言し、助けにならぬものの後を追った。それ故、私はお前たちを告発し、また、お前たちの子孫と争うと主は言われる。
                                                エレミヤ書2章4~9節】


神が告発する「罪」の次元
 先ず、今回の御言葉に示されているように、私たちは三つの「罪」を犯す、その可能性があることを覚えて下さい。つまり今回の事例が、イスラエルだけが犯した「罪」である!とは、決して言い切れない次元にあるという点です。そういう意味で、私たちは今回の神の御言葉を、父親からの「暖かい訓戒(警告)」の如くに、謙虚に受け留める必要があります。そうです!父親の「戒め」を、決して聞き逃すまい!という、真摯な態度で受け留める、それが「神の子」である、私たちの直ぐなる信仰姿勢です。


 「私はお前たちを告発し」(9節)の「告発する」とは、「罪(犯罪)」を訴え出る際の、裁判手続きに関する、一つのプロセスを現わします。また同節の「争う」という言葉は、決して「喧嘩」や「闘争」などの、暴力行為を意味するのではなく、これも裁判上の「申し立て」を行う言葉です。と言うことは、主なる神が「裁判長」として、私たちの「罪」に関して、裁判手続きを行う場合には、次のような言葉の「やり取り」を、毎日繰り返し行っていると言えます。


 サタン(検察側)は、私たちの「罪」に対して、毎回毎回訴え出ます。「この者は、一切の情状酌量無き、極悪非道の犯罪者に付き、死刑(地獄刑)を求刑する!」と。すると裁判長は、毎度ながら「ちょっと待て!未だ最終段階(判決)に至っていない。弁護側の申し立てを聞いてから、再度審議し直すことにする。」と答え、検察側の求刑を何度も保留します。このように、主なる神(裁判長)の手続きには、忍耐をもって「罪」に対処するなど、暖かい「愛」がある訳ですが、それと同時に父親の如き、真実の「厳しさ」があることも、私たちは知る必要があります。


 ところで日本のマスコミにおいては、決して発表されないセンセーショナルな「情報」を紹介しますが、実は「今の時(現在も進行中)」、世界的規模で「重大犯罪」の摘発と、犯罪組織の壊滅作戦(犠牲者の救出作戦も並行)が展開中です。その「重大犯罪」とは、児童の「人身売買(虐待による殺戮も含む)」です。(※下記参照)


 このような極悪非道の「罪」の場合、裁判手続きを踏まなくとも、関係者全員は即「死刑だー!」と、私たちは捉えることが出来ますが、今回主なる神が示している「罪」の次元は、上記のような「明らかな(目に見える)罪」ではなく、私たちの「霊」そのものを汚す、目に見えざる次元にある「罪」です。


 エレミヤは強く勧告しました。「神に従うイスラエルの全ての民よ、聞きなさい!主なる神は、あなた方の霊の中に巣くう、三つの罪状を告発している。」と。しかし彼らは、残念ながらその三つの罪を、自分事として受け留めようしませんでした。覚えて戴きたいことは、先人たちの「罪」が、決して他人事としてあるのではなく、それを自分事として受け留める、即ち自分の「霊」の中にも、必ず存在する!という点です。


 例えば、どの業界においても、ヒューマン・エラーを防止すべく、ある対策が講じられています。その際の基本的考え方が「事故を他人事と捉えず、自分事として謙虚に受け留める」ことです。物事を自分事として捉える限り、それには責任が伴うので、必ず事故等を防止すべく、一回だけのチェックでなく、更なる「確認(ダブルチェック)」行動につながります。


 同様に、如何なる「罪」と言えども、それを自分事として捉えなければ、いずれは身を亡ぼす程の、霊的に危険な次元にあることを、私たちは「危機意識」をもって、謙虚に受け留める必要があります。そういう意味で、主なる神が偉大なる「ご計画」を開始するに当たり、神ご自身が忌み嫌う「罪」の中身(性質)を、私たちは正しく知り(示され)、改めて「霊」の中にある、様々な「罪」の汚れを、イエス・キリストの貴い「血潮」をもって、常に洗い聖めて戴くことが大切です。


三つの「罪」
 では今回の御言葉から、主なる神が強く示している、三つの「罪」とは、如何なるものでしょうか?第一の罪は、ホセアの妻ゴメルの如くに、本来の素晴らしい「立ち位置」、つまり真実の神との「交わり」、即ち純粋な「愛の関係」から次第に離れ、自分の肉の立ち位置に立つなど、神に対して真剣に向き合わなかったことです。「尋ねもしなかった」(6節)とは、直訳すると「全くかまう(care)ことが無かった」という意味です。


 つまり主なる神(霊的な夫としての立ち位置)は、常にイスラエル(霊的な妻としての立ち位置)に対して、真摯かつ「熱情の愛」をもって、かまって(親しく関わって)いるにも関わらず、イスラエルが全くかまうことが無ければ、それは告発すべき第一の「罪」となる訳です。


 第一の「罪」があるにも関わらず、主なる神は7節に記されているように、彼らを約束のカナンの地へと導き、そこに安心して住むことが出来るよう、様々に関わり続けて下さいました。ところが彼らはカナンにおいても、「虚しいもの」の後を追い求めました。実は彼らの中で、本来は民を霊的に正しい方向へと導く、重要な任を司る立場の「祭司」が、第二の「罪」を犯すことになります。具体的には「常に神ご自身を探し求めなかった」ことです。


 第二の「罪」の本質は、一時的に「求める」ことに満足し、決して「常に」信仰を働かせて、神を激しく探し求めるという、基本的「立ち位置」から、彼らは離れたこと、これはサタンが「最初の人」である、アダム(エバ)を誘惑した際の、霊的失敗(原罪)から続く、悪しき力の結果です!私たちに対して、常に「インマヌエルなる神」として働かれる方は、私たちの側も「常に探し求める」よう、実は待っていて下さるのです。ですから、私たちの「霊」の飢え渇きの中に、この「常に」という強い「意思(聖なる思い)」が無かったら、それこそ第二の「罪」の次元に陥っていると言えます。


 第三の「罪」は、「私を理解せず」(8節)という言葉にあるように、それは神ご自身を、更に「知る」ことをしなかったことです。神が無限なる方、つまり永遠の次元から、私たちのことを絶えず知る(理解する)べく、様々に取扱って下さるにも関わらず、私たちの側が「神は所詮、こんなレベル(次元)の神に過ぎない!」などと、思い上って(人間的に理解して)いるのであれば、それはサタンの持つ「悪しき次元」の本質、即ち「霊的傲慢」という最大の罪につながります。


 神が示す「知る」とは、単なる「知恵」や「知識(情報)」として、相手を理解することではなく、それは絶えることの無き、人格的「交わり」から生じる崇高な関係、例えば「もっとそば近くにて、あなたから更に良き言葉を戴きたい!また色々と尋ねたい!場合によっては、私の願いを訴え出たい!」などと、熱心に耳を傾けた、妹マリヤの如き純粋な信仰行動です。


 例えば、私たちの信仰行動に関して、何気なく習慣的に捧げる、主日(日曜日)礼拝という行為において、上記の如き三つの「罪」に陥る、霊的な罠が仕掛けられていることを、私たちもイスラエルの民と同様に、真剣に受け留める必要があります。即ち姉マルタの如くに、単なる「儀式(イベント)」や、人(信者)に見せる「見世物(パフォーマンス)」になっていないか?という点です。


 私たちが神ご自身を、大切な人生の伴侶の如くに、①いつも真剣に向き合い(かまい)、②常に交わりを求め続け、今以上に③更に知ろうとする熱情の思いが、私たちの「霊」の中に無いのであれば、たとえ「背信行為」に至っていなくても、それは神に対する「罪」である!こと、これを是非覚えておいて下さい。


 聖霊様は常に、あなたの「霊」に対して問い質し、霊的な告発をもって警告します。「あなたは絶えず、イエス・キリストに対して、霊的に激しく関わったり、御心を気にかけたり、御心に適うことを探し求めていますか?また生涯の限りを尽くして、永遠の花婿を更に知ることを、何にも増して強く願っていますか?」と。すると私たちの殆どが、次のように答えます。「あ!聖霊様、御免なさい。あなたが言われる通り、未々中途半端な者でした。」と。


 そういう意味で、「聖書」が正しく示すように、果たして自分の「信仰行動」が、神に対して真摯に向き合っているのか、それとも自分の「判断」や、自分の「肉の声」を基準にして、人間的行動を採っていないかなど、私たちは常に聖霊様に伺うことが、非常に重要となります。いつも「伺う(聞く)」ことが、霊的柔軟さを培う第一歩です。逆に「いちいち聞かなくても(自分は)大丈夫!」と思う、これが霊的傲慢の始まりです。


 今後の世界情勢は、「偽り」と「欺瞞」に満ちた、反キリスト勢力の「情報(霊的フェイクの教え)」が、次々と人々の「霊」を蝕み、「暗闇」の支配権を拡大して行くことでしょう。しかし私たちキリスト者は、「聖書」が示す神の言葉に堅く立ち続け、聖霊様との「親しき交わり」から得られる、確実な霊的ガイダンス(導きと守り)に、常に従って参りましょう!そうすれば終末の「携挙の時」に、全能の神が住まわれる、偉大なる御国の一員として、私たちは瞬時に引き上げられ、真の花婿なる方、イエス・キリストに相まみえるのです。


 そうです!いよいよ主なる神が、あなたを「真の花嫁」として聖別し、暗闇の支配下にある人々を奪還する、最後の収穫の働き人として、遂に召し出して行く時が、まさに目前に迫っています。どうぞサタンの罠に陥ることなく、妹マリヤの如くに、あなたが益々イエス・キリストを、激しく追い求めることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2021年2月21日のメッセ-ジ)



☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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