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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.42)

                   シオンに至る唯一の門




命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、全て偽りを好み、又行う者は都の外にいる。
                                                                【黙示録22章14~15節】


 「新しい言葉」は、聖霊様が与えて下さる「賜物」の一つです。私は、今まで聖霊様に導かれながら、各章を書き著してきましたが、いわゆる「賜物論」としての「異言」について、述べた訳ではありません。むしろ、この「新しい言葉」という霊的な言語は、父なる神が「本来の人」アダム(エバ)を創造した時から、人体の「五感」を正しく運用するために付与していた、霊的器官の一つではないだろうか?という仮定(推測)から書き著してきた次第です。


 その中で私は、この「新しい言葉」の最終目的とも言うべき、「神の奥義」を発見しました。つまり、父なる神の遠大なる「ご計画」として用意されている、この霊的言語の本来の目的は、「本来の人」がこの「霊の言葉」によって、より「完成された人(霊的な大人)」へと成長し、最終的には神との「親しい交わりによる、完全な一体化」に至ること、この一点にあります。


 しかしご存知のように、彼らは父なる神が計画しておられた最終段階、つまり「完成の式典」に入ることなく、サタンの用意した「古い言葉」を選択した結果、父なる神から戴いた「霊的特権」を失いました。ですから、私たちがこの「新しい言葉」をイメージする際、「エデンの園」で為されていた、「神」と「人」との正しい関係から、この霊的言語の持つ本来の「奥義」について、聖霊様から常に描写して戴く必要があります。


 つまり、「エデンの園」においてアダムとエバは、①本来何を為していたのか?、そして②何のために創造され、「エデンの園」に住むようにされたのか?又「本来の人」は、神の素晴らしい「霊的作品」として創造された訳ですが、父なる神の「ご計画」にしたがって、もっと素晴らしい「完成されたフォーム」が、彼らに対して用意される予定にあり、それが③最終的に如何なるフォーム(状態)に変革されていくのか?この三点について、常に聖霊様から「天的イメージ」を、与えられる必要があります。


「エデンの園」の奥義
 「新しさ」という概念は、「古い状態」があって初めて、その対立する概念として浮かび上がるものです。ご存知のように彼らが罪を犯す以前は、「エデンの園」の中に「古いもの」と「新しいもの」という、区分された概念は存在しませんでした。つまり、「言葉」そのものが「神の命」に満ち溢れ、力強い神の「永遠性」に支配されていたからです。そして、「言葉」が「生きもの」の如くに、常に「新鮮なもの」として生きていたからです。


 ところが彼らは、「霊」の只中に「サタンの言葉」を流し入れ、その「自己中心(エゴ)の言葉」に聞き従った結果、本来備わっていた神の「命の言葉」を失い、「善悪の木」の実を食したことにより、サタンの王国の「三次元の法則」に縛られた、「古い言葉」を使用せざるを得なくなりました。この「古い言葉」は、神の「命の言葉」と違って、「限定的な(有限の)言葉」です。しかし本来の「命の言葉」は、父なる神の意図する素晴らしい「天的な力」を、無限に使用することができるものです。


 私たちが、普段使用している「古い言葉」の言語体系に対して、父なる神は「御子イエス・キリストの、十字架による贖いの御業は、今も尚あなたの唇に、新しい変革の恵みとして用意されています!それは只一つの方法、つまり聖霊による火のバプテスマを通して、求める者に必ず与えられるものです!今、それを求めなさい!」と語りかけることで、新しい「言語革命」の時を信じて、「天的な力」を求める者全てに用意し、又実際に「新しい言葉」を付与して下さいます!


 これが「五旬節革命」に始まった、新しい「言葉の革命」の歴史です!聖霊を通して、神の「新しい言葉」を戴いた時から初めて、私たちが普段使用している言語が、実は「古いもの」であることを認識できるようになったのです。聖霊による「革命の炎」が、私たちの「舌」に点火されなければ、依然として「古き」も「新しき」も分らないまま、この世の「古い言葉」の束縛を余儀なくされていたでしょう。


 本来「新しい言葉」は、「人」が「エデンの園」において父なる神、御子イエス・キリスト、そして聖霊様との「親しい交わり」にあずかることで、互いの「意志(心)」を霊的に触れ合う(確認し合う、理解し合う)目的から、使用する言葉でした。そして、「園」の中央に生えている「命の木」は、イエス・キリストご自身の象徴であり、その木がもたらす「実」は、イエス・キリストとの「親しい交わり」から得られる、イエス・キリストの「御心(愛)」の「現れ」です。ですから、この「命の木」の実を食することが、神の「御心」を知る唯一の手段であることを、私たちは常に再確認する必要があるのです。聖霊様は、いつもアダムとエバに強く命じられました。「日々、園の中央に通いなさい!そして、命の木だけから沢山の実を取って食べなさい!」と。


 それに対してサタンは、「いや、そればかりでは駄目だ!この隣にある、善悪の木の実を見てご覧なさい!この木も、園の中央に植えられているでしょう。そしてこの実は、神の御心を別の角度から知る上で、重要な力を秘めたものなんだよ。神は、たった一つの方法(道)しか与えているのではなく、命の木の実が食べられなかった時のために、善悪の木を用意して下さり、こちらの実も食べられるよう備えて下さっている。だから、きっとそれを食べても構わないはずだ!あなた方は知らないだろうけど、私は神様のことを何でも知っているからね!何故なら、私こそ父なる神に仕えていた第一人者だから。さー、遠慮せずに食べなさい!」などと、神の「御心」に反逆したサタンが誘惑した結果、「最初の人」アダム(エバ)は見事に騙され、「善悪の木」の実を食したのです。


 私たちが霊的に「何」求め、そして霊的に「何」を食すのか?これは非常に重要な問いかけです。「本来の人」アダム(エバ)は、「命の木」の実だけを食しました。しかし、彼らは愚かにも「善悪の木」から、この世の「知恵の実」を取って食べた結果、彼らは「霊的な死」を体験し、神の御元に通じる「唯一の道」を失うなど、神の「御心」を知る「唯一の門(方法)」が閉じられたのです。即ち、神との「親しい交わり」に通じる「至聖所」の門が、「霊の眼」が死んだ(盲目になった)彼らには、当然の報いとして「見る」ことが不可能になり、逆に「肉的なもの」が生き始めたのです。今まで、「霊の眼」でストレートに互いを見ていたのに、「霊的な死」を体験した後は、「肉の眼」でしか相手を見れなくなる、つまり互いに裸であることに気付き、思わず「恥ずかしさ」を覚えて、自分を隠すようになりました。


 罪を犯す以前の彼らは、決して「恥ずかしさ」という概念を抱いたことはなく、神の御前には全てのことが「オープン」であり、有りのままの状態で御前に出ることが、彼らの「喜び」でした。何故なら、父なる神ご自身が「オープン」な方(存在)だったからです。それ故、彼らは互いの間に「隠す(秘められた)こと」が、全く必要ありませんでした。又、父なる神の「御心」が、常にオープンな(開かれている)状態にある故、彼らは「神の光(イエス・キリスト)」を豊かに受け、その「光」の中で父なる神の「御心」に触れることで、互いに隠すこともなく生き合うことができたのです。


 ところが、現実の私たちはどうでしょうか?「隠すこと」が沢山あります。つまり「オープン」的なものが少なくなっています。それ故「人」は、「オープン」なものを求めようとするのですが、文化的には「覆ったもの(隠したもの)」をもって、生活(衣食住)せざるを得ないのが現実です。そこで父なる神は、この「古い言葉」によって支配された人々に対して、「唯一の門」を閉ざしたまま放っておくことは為されずに、再びこの「唯一の門」を開き(オープンし)、「人」が通過できる「恵み」にあずかるよう、先ず一匹の貴い「子羊」を屠り、その屠った子羊の毛皮を裂かれました。そしてその毛皮から、彼らにフィットする「毛皮の衣服」を、わざわざご自分の手で作られ、彼らに直々着せられました(創世記3章21節)。


 ここに、父なる神の「美(愛)」が現れています!「あなた方は、裸のままでいることは良くない!私が如何にあなた方を愛しているか、その印を与えよう!」。父なる神の「愛の印」とは、子羊の贖いによる「聖なる衣」です。父なる神は、全てのものを創造される際に、「命の言葉」をもって産み出しました。しかし、この「聖なる衣」に関しては、直接その「御手」をもって子羊を屠り、丁寧に「衣服」として仕立てて下さったのです。


 「この時」の、父なる神の心境を想像して下さい!ご自分が創られた「美の作品」の一つである、可愛らしい「子羊」を屠ること、それは行為的には勿論のことですが、とても見るに耐えられないことです。何故なら、父なる神は「この時」まで一度も、「殺す」ことを為された方ではありませんでした。しかし、父なる神は「人」を愛する余り、彼らが再び「唯一の門」を通過できるよう、この貴い「子羊(イエス・キリスト)」を屠り、彼らのために「聖なる衣」を用意して下さいました。その理由は只一つ、彼らをご自分の「愛」の中に一体化するためです!父なる神にとって、彼らが一生の間「霊的な孤児」としてこの世を放浪し、最終的には「永遠の滅び(サタンの奴隷)」に至ってしまうことに、我慢ならなかったのです。何と父なる神は、その「聖なる衣」を仕立てたばかりでなく、直々御手をもって裸の彼らに、優しく着せて下さいました。


 余談になりますが、「子」を持つ「親」の立場にある者は、自分の「子」が何らかの悪しき行為をした場合、必ず「おしおき(例えば小さい頃の、お尻ペンペン)」などの体罰を与えます。しかし父なる神は、裸の彼らに戒めることはしたものの、何らかの「罰の印」を体に与えませんでした。それどころか、わざわざ「愛の衣」を着せて下さいました。そして恐らく、父なる神は次のように語ったことでしょう。「お前たち!私が(お前たちと)いつも一緒にいることを、決して忘れてはならないよ!お前たちは確かに罪を犯し、もはや私の心を知ることができなくなった。それ故に、この園を出て行かなければならないが、決して孤児ではないことを覚えておくがよい。この世に出て行き、この地を耕すことになるが、必要に応じて私の助けを、天から降り注ぐことにしよう!その証拠として、私の聖なる衣をお前たちに授けよう!」と。


 この「子羊の生贄」は、イエス・キリストの「十字架の救い」、即ち「贖いの雛型」です。父なる神は、イエス・キリストの貴い犠牲によって、それまで遮断されていたゲート(唯一の門)を、私たちが再び通過できるよう、「オープン」な状態にして下さいました。そうです!このゲートを通過できる唯一の道(方法)は、イエス・キリストの十字架から流れ出る、「贖い」の血潮を受けることです。


三つのキーワード
その1、「唯一の正門」
 イエス・キリストは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」(ヨハネ書14章6節)と、弟子たち(私たちも含めて)に教え諭されました。これが「唯一の道」です。かつて「エデンの園」において、「本来の人」が神の御心を「知る」方法は只一つ、「命の木」の実を食することでした。それに対しサタンは、神が示す「唯一の道」ではなく、「他にも二通り、三通りある!」などと騙すことで、様々な「世の知恵 (宗教、哲学、思想など)」を産み出しました。しかし父なる神は、「只一つの道しか用意していない!それはイエス・キリストを通してだけである!」と命じています。


 ところで「ゲート」とは、如何なるもの(イメージ)でしょうか?聖書に記述されている「ゲート」は、日本の伝統的家屋(屋敷)に見られる、立派な「門構え」の種類のものではありません。それはかつて、エルサレム城(城下町)の境界全体を守る「砦」でした。エルサレム城壁の「城門」は、東西南北に最低一つずつ堅固に建てられていました。ですから神の都「シオン」は、ある面でエルサレムと同じ「城(要塞都市)」であり、「ゲート」が街全体を守るための重要な「砦」です。そして入門する際には、必ず「通行許可証」が必要になります。この「砦」に駐屯する兵隊(軍隊)は例外ですが、一般市民が「ゲート」を通過する場合、この唯一の「正門」だけが通行を許可されたのです。


その2、洗い清める
 「門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者・・・・」(14節)に記述されているように、「唯一の正門」に入るには、ある「条件」が必要となります。その「条件」は、父なる神が各自に与えた「聖なる衣」を、常にクリーンな状態に洗い清めることです。この「聖なる衣」は、いわゆる「ガウン」のことではなく、「ローブ」を指しています。そしてこの「ローブ」は、単なる一般的な衣類のことではなく、一年に一度着ることがあるか分らないもの、つまり「礼服」を指します。


 この第二のキーワードの意味することは、私たちが父なる神の御元に行く時には、どこにでもある適当な「衣服」を着るのではなく、神ご自身が御手をもって直接仕立てられた、たった一つの礼服「聖なる衣」を着ることです。しかもこの礼服は、各自がクリーンな状態に保つよう、常に洗い清めることが委ねられています。サタンは、この「聖なる衣」を非常に忌み嫌います。そして恐らく、追放されたアダムとエバに対して、「そんな衣なんて脱ぎ捨てて、自分で真新しい衣を作ってみたらどうだい!」などと囁きかけたことでしょう。しかし、彼らはこの「聖なる衣」を、片時も自分の体から離しませんでした。何故ならこの「聖なる衣」が、自分の犯した罪の「贖いの印」であることを、十分に悟っていたからです。


 あなたにも今、この「聖なる衣」が用意されています。「贖いの子羊」主イエス・キリストの十字架の救いが、あなたに「聖なる焼印」として押される時、あなたはこの「聖なる衣」を受け取ることができます。あなたは、この「聖なる衣」を常に着ていますか?それを着ることだけを欲していますか?時々、「世の衣」を着ることを求めていませんか?三次元的なことに追われ、そして捕われる生活をしていないでしょうか?それが、あなたの「聖なる衣」を汚しているのです。あなたに用意される、この「貴い衣」を聖霊を通して、常にクリーンな状態に回復して戴かなければ、あなたは決して「唯一の正門」を通過して、永遠の都「シオン」に至ることはありません。


 「贖いの子羊」イエス・キリストの、「聖なる衣」を着る用意(準備)をしましょう!そして聖霊様によって、常に「クリーンな状態」に保って戴きましょう!私たちは時々サタンに騙され、この「聖なる衣」を次のように脱ぎ捨てようとするなど、悪しき習性があります。「いいえ、これはこのままで良いのです!私は別のものが欲しい!今起きている、最新のリバイバルの流れ(ファッション)を着たいのです!」と。しかし、私たちが忘れてならない、一番着せられるべきものは、「イエス・キリスト」ご自身です!あなたは「イエス・キリスト」を、着ることだけを欲していますか?ボアズに覆われたルツ(ルツ記3章)のように、イエス・キリストだけに「覆われる」ことを求めていますか?愛する方に、「覆われる」ことのみを求めた結果、彼女は「自分の救い(回復)」を、実際に掴んだのです。


その3、食す
 「命の木に対する権利を与えられ・・・・」(14節)とは、英語の直訳で「命の木の実を食べる権利」という、明確な内容で記述されています。この権利を持っている人だけが、「唯一の門」を通過できます。しかし、サタンは「命の木」の一種類だけでなく、二種類そして三種類などと、「別の木」の実を食べることを勧めるでしょう。そして、世の終わりには様々な「教え」が氾濫し、キリスト者を霊的に「誤った方向」に導いて行くでしょう。


 例えば、「世の人々が救われるなら、ある程度は世的なことに妥協しても構わない!」などの教えも、現実に出てきています。かつて太平洋戦争中の日本においても、教会の聖なる講壇に「日の丸」を掲げたり、天皇の写真を掲げたことがありました。これは決して、「過去」のことではありません!現実にイエス・キリスト以外のもの、つまり「世的なもの」を掲げようとしている教会が、アメリカだけでなく日本にも起こり始めています。


 私たちが掲げるべきものは只一つ、イエス・キリストの「十字架」だけです!「私たちの教会で素晴らしいことは、あの講壇から語られるメッセージであり、そしてメッセンジャーです!又、麗しい賛美の調べを奏でる、精練されたプロの聖歌隊です。そして一番素晴らしいものが、何千名もの会衆を収容できる、この大きな教会堂です。」などの「証し」の中に、既にサタンによって汚染された、この世と妥協した「霊的惑わし」があることを知って下さい。


 サタンは、常にこの世の「美」を現すため、「世的なもの」をキリスト者に食べさせようと、盛んに誘惑しています。忘れてならないことは、私たちが「食す」べきものは、「講壇」でも「先生のメッセージ」でもなく、又カリスマ的リーダーの「教え」や、「教会成長(リバイバル)論」でもありません!それは唯一の真の「命のパン」、イエス・キリストだけです!「教え」のみを優先させて、それが「教会」の中心事項になっているのであれば、既にサタンの「霊的惑わし」によって、「善悪の木」の実(知識)を食していることになります。これは、非常に厳しい聖霊様からの「勧告」です。


 イエス・キリストとの「親しい交わり」のみを食す、つまりイエス・キリストを追い求めることを、もっと激しく飢え渇いていくことが、真の霊的ハングリー精神です。聖霊派の「教え」の中に、とかく「しるし」と「わざ」のみを訴える、メッセージが多くあるのに対し、「イエス・キリストご自身」について、又「イエス・キリストの御名」、「イエス・キリストの御言葉」を大胆に掲げつつ、「命のパン」イエス・キリストだけを、霊的ハングリー精神をもって食するよう促すメッセージが、何故聖なる講壇から語られないのでしょうか?これは非常に、重大な「霊的危機」の一つです。


 「聖なる衣」を着せられた者は、決してこの「贖いのしるし」を忘れることがありません。それと同様に、「命の木」の実だけを食すことを追い求める者は、決して「世的なもの」を求めることはしません。何故なら、その人は「命の木」の実だけが与える、素晴らしい美味なる「霊的感動」を、片時も忘れることがないからです。ですから、私たちが求める(食す)べきものは只一つ、「命の木」の実だけです!そしてこの「命の木」から、私たちは決して離れることがあってはなりません!私たちは常に、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることは全て、繁栄をもたらす。」(詩篇1篇2~3節)の御言葉にあるように、「命の木」の元に留まり続けましょう。


「門」の外にいる者
犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、全て偽りを好み、又行う者は都の外にいる。」(15節)
 私たちは、聖なる都「シオン」にある、唯一の「正門」を通過して①入ることのできる者であるか、それとも②門の外にたたずむ者、そのどちらの側に立つことになるでしょうか?大切なことは、いつも「命の木」の実だけを食し、「聖なる衣」をクリーンな状態に保ち続けた者のみが、その唯一の「正門」を通過して、「シオンの街」に入ることができることです。


 ところで、「門」の外で歯ぎしりして泣き叫ぶ人々とは、如何なる人々のことを指すのでしょうか?このことは聖霊様からの警告として、私たちが再認識しておくべき重要メッセージです。このシオンに至る「門」を通過するということは、「私は、イエス様を信じていますから大丈夫です!必ずその門の内側に入ることができます!」などと告白できるほど、簡単なものではありません!つまり全てのキリスト者が、即入ることのできるものではないことを、改めて知って下さい。


 御国に入るキリスト者が多くいるのに対し、イエス・キリストを中心とする「聖なる交わり」の場、即ち「至聖所」に入ることのできる「真の花嫁」は、残念ながらほんの僅かです。殆どのキリスト者が、聖なる都「シオン」の門前でたたずむだけです。私たちが、霊的に勘違いしてならないことは、例えば「神の働き」のために大きく用いられ、大きなミニストリーを展開しているような器だけが、神との交わりの場「至聖所」に入ることができるのではありません!では具体的に、「門」の外側にたたずむ人々について、五種類に分類して紹介します。


魔術を行う者
 これは、霊媒師シモンのような信仰を持つ人々のことを指します。つまり、「しるし」と「わざ」のみを追い求めるキリスト者の姿です。たとえ聖霊の「賜物」を用いて、素晴らしい「しるし」と「わざ」を行い、多くの人々を「救い」に導いたとしても、主イエス・キリストは「あなたは、私の交わりにふさわしくありません!あなたは、私の聖なる衣を忘れている!あなたは、決して正装してここに来ようとしない。あなたが今着ている服は、自分のミニストリー、自分の業(業績)、自分の名誉ではないか!私が見たいのは、そのような人間的な服ではなく、あなたの真実の心である!」などと、厳しく非難されるだけです。


 イエス・キリストは、ある喩え話(マタイ書22章)の中で、「唯一の門」に入ることのできる、「霊的資格」に関する奥義を示されました。それは王(イエス・キリスト)から見て、「資格」を与えるにふさわしい者とは、婚礼に招かれた者が「礼服」を着ているか否か、その一点にあります。イエス・キリストも、預言的に語られました。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(マタイ書22章14節)


不道徳な者
 これは、人間的な「倫理」という価値基準から見て、「不道徳性」を持つ人々のことを指しているのではなく、父なる神の「御心」を基準とする、正しい「真理の道」に反する歩み、或いは離れた行為をする人々のことです。つまり、人の目に「善きこと」と思えることの中に、実は父なる神の「御心」から判断して、神が喜ばれない次元があるのです。父なる神が「喜ばれる者」とは、自分自身の全てを生きた「聖なる生贄」として捧げる、「真の礼拝者」のことです。


 それに対して、神が忌み嫌われる「不道徳」の次元に生きる者とは、例えばアナニヤとサッピラの如くに、神の前に「私は全てを捧げます!」と告白しながらも、自分自身を完全(有りのまま)に捧げようとしない人々です。勿論、私たちは自分の「肉の力」で、完全に「自分」を捧げることはできません。しかし、聖霊様が私たちに常に促されることは、「父なる神が至聖所の祭壇に用意している、贖いの子羊(イエス・キリスト)の御元に行きなさい!そしてその場にて、全てを明け渡しなさい!」というメッセージ(指令)です。


 聖霊様が語られるこの命令に、私たちが中々従順できない「肉の弱さ」がありませんか?その時に、父なる神は言われます。「あなたの霊のフィールド全てに渡って、私は100%完全に支配したいのだが、あなた自身が支配権を10%残しておきたい!などの思いがあるとしたら、それは私の目に不道徳である!全て(100%)を明け渡しなさい!」と。


人を殺す者
 え!キリスト者の中に、殺人を犯す者がいるのでしょうか?勿論、過去のイラク戦争(2003年3~4月)において、アメリカから派兵された人々の中に、多くのキリスト者がいたことでしょう。彼らも実際の行為としては、はっきり申し上げて「殺人」に相当します。しかし、ここでヨハネが記述している「人を殺す者」とは、そのような刑法上の「殺人」レベルを指しているのではありません。私たちが知るべき憂慮する事態は、現実のキリスト教界において、しかもキリストの花嫁エクレシアの中で、多くのキリスト者が「霊的な殺人」を平気で行い、又繰り返していることです。


 今から記すことは、とても教役者にとって耳の痛いものですが、「羊の飼い殺し」という現実(事実)があることです。教役者が自分の目的(教会成長)のために、一般信徒を「利用」はするけれど、その「利用価値」がなくなったり、仮に少しでも指導者に「反発(意見の主張も、そのようにとられてしまうもの)」したら、即切り捨てられる(訓戒される、公けの謝罪を強いられる、果ては除名処分される)こと、これが「殺人」でなくて何でしょうか!


 そのような指導者の理屈(主張)は、必ず次のようなものです。「彼らは、羊の衣を被った山羊的なキリスト者ですよ!それ故に、私どもの教会から平和的に独立して戴いただけです。決して、追い出した訳ではありませんよ!」又その人の霊的飢え渇きに、謙虚に耳を傾けることは決してなく、「あなたはカリスマの恵みを受け、特に異言を語るようになった。私の教会に混乱が起きると困るから、自分で進退のけじめを早々に付けてくれないか!」などと、教会から一方的に「破門」されること、このような愚かな「霊的殺人」が、今も尚「教会」の中で延々と繰り返されています。


 そして、私たちが一番忘れてならないことは、私たちが三次元の「古い言葉」に支配されている限り、平気で他人を「古い言葉」で傷つけるなど、言わば「殺し合い(裁き合い)文句」をもって、霊的に交戦していることです。このことに対して、「主よ、罪深い私の語る言葉を、どうぞ赦して下さい!それ故に、あなたが与えて下さる新しい言葉が必要です!私のこの古い言葉では、どうしても限界があります!他者を霊的に生かす、新しい霊の次元の言葉を与えて下さい!」などと、常に祈り求めていく人々は、次第に語る言葉が聖められていくでしょう。


 しかし日本のペンテコステ派において、かつて聖霊運動を推し進める人々の中に、「我らこそは、日本のリバイバルの先駆者であり、全ての霊的戦いにおいて先陣となる教団である!」などと、全国制覇(47都道府県全てに、枝教会をつくること)を目標として掲げ、実際に実行したカルト的集団が存在しました(今も存在したり、これからも登場してくるでしょう)。そのような過激主義的な、教会成長(リバイバル)運動を推し進める中で、必ず「羊泥棒」や「羊の飼い殺し」などの現象が見られますが、はっきり申し上げてこれは、聖霊様が悲しまれる事態の一つです。


偶像崇拝する者
 「偶像」を意味する英語は「idole」と言い、ギリシャ語の「イドラ」から派生した言葉です。神ご自身が忌み嫌うものは、全て「イドラ」に当たります。サタンが、私たちの人生において最初に確立した「イドラ」が、「エゴ(自我)」であることを知って下さい!このエゴという「イドラ」は、「自己(私)」中心で歩むようにすること、そして「私」を崇拝(尊敬)するように仕向けることです。人が「人」を尊敬し、最終的には全面的に「人(カリスマ的)」に信頼していくこと、或いは「人の業」か「賜物(しるしやわざ)」だけを頼みとすることは、全て「イドラ崇拝」をする者の特徴です。


 神が忌み嫌う最大の罪が、この「エゴ」というイドラであることを、私たちは再確認しましょう!そして私たちは、常に「至聖所」において自分の全てを、神に喜ばれる「生きた生贄」として捧げることが必要です。何故なら、全ての人の「霊」の中に、この「イドラ」が存在することを素直に認めて、この「エゴ」も「子羊の祭壇」の場に捧げ、聖霊の「炎」により完全に焼き尽くされる必要があるからです。


偽りごとを言う者
 これは、「言葉」ばかりでなく「行い」においても、「偽りごと」を好む人々のことです。私たちは他人に対して、平気で「あの人は、嘘つきだ!」などのレッテルを貼りますが、それは大抵「言葉」に関することだけです。しかし聖書は、明確に指摘します。「行い」の面に関しても、「偽りごと」があると。「主よ!主よ!」と言う者だけが、御国に入れる訳ではありません。又聖霊様は、私たちの霊的行動面に関して、「偽っているか否か」を厳しく問い質しています。つまり、私たちが霊的に「熱いのか、それとも冷たいのか、はっきりしなさい!」ということです。


 ある時には「熱く」なってみたり、又別の時には「冷たく」なる、そればかりか遂には「ぬるま湯」の中で、安逸をむさぼるキリスト者が増加していることを、聖霊様は危惧しています。聖霊様は、「あなたは自分自身の全てを、主に完全に捧げ尽くすのか?それとも自己中心で生きていくのか?はっきりしなさい!」と、今あなたに問い質しています。D・ウィルカーソンは明言します。「なまぬるい信仰を持っているということは、悪霊に憑かれているのと変らないほどに深刻な問題であることを忘れてはなりません。」(注)


 私たちは自分勝手に先走り、失敗した時だけ「主よ、やはりあなたが必要です!」などと、聖霊の「助け」を求める傾向にあります。しかしそうではありません!聖霊様は続いて言われます。「あなたが、自分の肉の力で何かを為そうとする、その手の業を完全にストップ(放棄)しなさい!私のミニストリー、私の計画、私の賜物(召し)、それらに固執することを全て放棄しなさい!あなたが為すべきことは、あなた自身が聖なる衣を着ているか否か、そしてその衣の状態が常にクリーンであるか、そのことだけを気に留めながら命の木の実を食すること、これを求めて行きなさい!」


 「道」は只一つ、そして「門」も只一つです!私たちが目指すべき聖なる都、霊的故郷「シオン」に至る道は只一つです。私たちがイエス・キリストの、聖なる「救いの衣」を着せられていることを謙虚に受け留めて、そのことを聖霊様との交わりの中で示される時、「主よ、私は何と汚れているでしょうか!どうぞ、主イエス様の十字架の血潮によって、更に聖い者と成して下さい。あなたが用意して下さる祭壇に、父なる神の喜ばれる聖なる生贄として、私自身の全てを捧げます。どうぞ聖めて下さい!あなたの聖なる炎によって、完全に焼き尽くして下さい!更に子羊イエス・キリストの、貴い贖いの衣を着せて下さい!これこそ全てに優る、最高の喜びの礼服ですから・・・・。そして、私は真の礼拝者として、あなたの祭服を着せられたいのです!何故なら、私は復活されたイエス・キリストの聖なる衣に覆われ、聖なる交わり(一体化)を欲するからです。どうぞあなたが住まわれる、至聖所の奥深くへと導いて下さい!もう門の外側(エデンの園の外)に生きることに、霊的に疲れ果てました。私は有りのまま(裸)で御前に参りました。外側にあるイチジク桑の葉ではなく、イエス・キリストの朽ちない(枯れることのない)聖なる衣を、どうぞ着せて下さい!」などと、霊的にへり下って祈り求めるようになります。「その時」父なる神は、「シオン」に至る「唯一の門」を喜んで開いて下さり、あなたを迎え入れて下さいます!


       注 D・ウィルカーソン(ハーザー2003・11月号)28項から引用

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