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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Good-Shepherd(No.14)

                    マラ・ゲート




モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らは・・・・荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった。マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことが出来なかった。こういう訳で、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。民はモーセに向かって・・・・不平を言った。モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。その所で主は彼に掟と法とを与えられ、またその所で彼を試みて、言われた。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目に適う正しい事を行い、彼の命令に耳を傾け、全ての掟を守るならば、私がエジプト人に下した病をあなたには下さない。私はあなたを癒す主である。」
                                                【出エジプト記15章22~26節】


如何なる「水」を求めて生きるか?
 ご存じのように私たちの「人体」は、その物質的構成(組成分)として、「水」が殆どの割合を占めていますので、日々「水分」を摂取しなければ、生きてい行くことが出来ません。私たちは「水」を、生活用水として用いることもあれば、喉の「渇き」を癒すために、その都度摂取したりしています。しかし、仮に「水」が絶たれたりする場合、例えば日照りなどで「断水」になったりしますと、急に慌てふためく騒ぎとなります。


 中近東地域に住む人々にとって、実はこの「生活用水」の、安定的な供給(確保)は、日々生存していく上での「死活問題」です。ところがエジプトの場合は、大河(ナイル川)という、非常に恵まれた環境にありますから、エジプト人にとっては、「いつでも大量にある!」という、言わば「驕り」の如き、生活感の中で暮らしています。


 今回の記事に示される、主なる神の霊的ガイダンスは、私たちの信仰の「歩み」において、欠かすことの出来ない、重要な信仰上の「テスト」を教え示しています。この信仰の「テスト」は、私たちが如何なる次元の「水」を求めて生きているか?その試金石となります。即ち目に見える次元にある、エジプト的な「世の水」に頼って生きるのか、それとも目に見えざる、霊の次元から滾々と湧き出る、「命の水」のみを飲み続けて生きるのか、この二つの「生き方」を測るテストです。


「世の水」が絶たれる時
 そこで先ず、私たちが知るべき第一の奥義は、エジプト的な「世の水」が絶たれた時、私たちは果たして如何なる行動に移るのか?そして「世の水」が絶たれることには、実は神の偉大なる「理由」があり、私たちはそれを知る必要があるという点です。神がイスラエルの民を、エジプトから奇跡的に脱出させた後、神ご自身は彼らを、本来の「直ぐなる信仰者」として、ねんごろに聖別するべく、二つのステップを与えました。第一のステップは、「葦の海」の奇跡の体験後に、彼らが辿る「荒れ野」の体験です。


 覚えて戴きたい事実は、「葦の海」の奇跡体験から、僅か三日しか経っていないにも関わらず、彼らは「荒れ野」の三日間という、三次元的事実を見て、霊的に不安定に陥り、「エジプト(この世)」に立ち戻ろうとしたことです。つまり三日間の「荒れ野」を前進する中で、彼らの「霊」の中から、「葦の海」での奇跡の体験が薄れ始め、いつまで経ってもオアシスに至らぬ状況から、彼らは人間的な計算を試みました。「今なら、まだ間に合う。引き返すには十分な水が残っている。しかし、このまま当てのない行軍(前進行動)を続けていたら、それこそ(荒れ野で)野垂れ死にだ!」と。


 続いて第二のステップは、「マラの泉」における、彼らの信仰行動を試みることでした。その理由は、彼ら民族が長年の間、エジプトにおいて霊的に侵されて(毒されて)きた病気、即ち「霊的生活習慣病」を癒すべく、あえて「マラ」という名の治療を施すためでした。ここで注目すべき、神の驚くべき「治療法」が、三日の後に必ず現れ出る禁断症状として、「マラの泉」における彼らの反応を、先ずは正しく見る!という点です。


 エジプト(この世)がもたらす「霊的生活習慣病」には、二つの悪しき特徴があります。第一に、エジプトという「世の水」を飲み続ける結果、「霊」の健康が損なわれ、次第に「世の水が無ければ生きられない!」等と錯覚(麻痺)させる、言わば麻薬中毒症の如き、悲惨な状態(霊的中毒)に陥ります。本来であれば、私たちの「生命力」の源は、神が惜しみなく与えて下さる、霊の次元にある「命の水」を、常に飲み続けるべきところを、彼らはいつしか、エジプトの大河がたもらす、目に見える世的な「安定」に、次第に頼って生きた結果、彼らの「霊」が中毒状態に陥ったのです。


 第二の特徴は、飽くなき「貪欲」を必ず掻き立てます。つまり「今」の状態に飽き足らず、「更に(もっと)~が無ければ・・・・」などと、常に不安が先立つなど、「足る」を知らぬ状態(生き方)と言えます。ですから、第二の中毒に侵された人々は、決して「今」を感謝することは無く、絶えず「先」の安定化を求めるなど、「肉」の求める欲(願望)が、逆に自分自身を束縛して、常に駆り立てていると言えます。


 このように、主なる神が彼らの霊的「エジプト病」を癒すべく、あえて「世の水」を絶たれた!と解釈するのであれば、この「三日間」の取扱いの理由が、明確に見えてきます。その理由は、先ず①「中毒症状」に伴う霊的禁断症状が、何処の器官に現れ出て、次に②如何なる処置を施せば、その「病い」の根本治療につながるのか?を、モーセが正しく知るためでした。


「マラ・ゲート」という神のテスト
 「世の水」を絶つことで、実は主なる神が彼らイスラエルの全家を、古きエジプトの次元に優る、新しい神の祝福の次元へと切り開き、彼らをそこ(カナン)に導くための最初の治療(霊的回復)、それが今回の「マラ・ゲート」という、信仰のテストです!


 主なる神がモーセに対して、具体的に教え示した治療法、それが神の新しい「掟(command)」と「法(law)」でした。この二段階治療を用いる際、実は霊的な試薬として、「マラの泉」という注射を打つ必要がありました。彼らは、この「マラ」を見せられた時、それを「苦い(受け入れられない)!」と捉えました。「こんなもの到底受け入れられない。ここで干からびて殺すつもりか!」と。


 いきり立つ彼らを前にして、モーセは静かに祈り待ちます。すると主なる神は、「モーセよ、恐れてはならない。これはかねてより、私自らが計画し、彼らを癒すべくマラに導いたのだ。あなたは一本の木を切り、その幹(枝を除いたもの)を、この泉の中に放り投げなさい!」と、次の適切な治療処置へと導かれました。


 モーセは、今回主なる神が命じた、新しい「掟」と「法」を信じて受け取り、即「一本の木」を泉の中に投じました。すると驚愕する彼らを前にして、モーセは続いて不思議な行動を取ります。彼は膝を屈めて、マラの泉から水を抄(すく)って、一口飲んだ瞬間、大声で叫びました。「偉大なる神は、何と素晴らしい創造主であろうか!あなた方が飲めない!と言った、このマラの泉を、命の水の如き、上等な飲める「甘い水」へと、造り変えて下さった。さー信じる者は、直ちに受け取るがよい。惜しみなく神は与えて下さったから・・・・」と。


 私たちが、今回の信仰テスト(マラ・ゲート)を受ける(通過する)に当たり、実は受け取るべき「信仰の鍵」が必要となります。例えば、あなたが今歩んでる信仰の道に、彼らが遭遇した「マラ泉」の如き、「苦い(これは受け入れられない)!」状況に陥った場合、あなたは次に如何なる行動に移りますか?殆どの人は、現実(苦い!)と捉えて、「世の水」を再び求めようとします。


 ある面、そのような反応は、「霊」の中に依然として、「世の水」が中毒として残っているため、当然の結果として出て来ますので、この「マラ・ゲート」の信仰テストが、リトマス試験の如き「働き」を担っています。しかしモーセの信仰行動の如くに、私たちも自分の「霊の泉」の中に、「一本の木(イエス・キリスト)」を切って、その幹(十字架)を投げ込む時に、全ての「病い」が癒されるのです!これが神の「掟」と「法」に従う、唯一の信仰行動です。


 そうです!私たちが常に為すべき、優先すべき信仰行動は、たとえ「現実(マラの泉)」が苦きものであり、尚も困難が続くなど、ネガティブな状況にあったとしても、真実なる神は必ず、そこを「祝福の泉」へと造り変えて下さる!という、肯定的(ポジティブ)な「神の事実」として捉えて前進し続けるべく、常に贖い主イエス・キリストの、偉大なる「救い」の御業を告白すること、これが「信仰の鍵」となります。そしてこの信仰行動は、霊的次元にある「命の水」を、絶えず飲み続け、ひたすら探し続け、「命の泉」に行くことだけを、ナオミに進言し続けた、ルツの持つ「信仰」にも見られるものです。


 イエス・キリストの「十字架」の御業は、如何なる「事実」をも、ご自身の開かれた「復活」を通して、新しい神の「祝福」の次元へと再創造する、偉大なる「贖い(救い)」です!このイエス・キリストの「十字架」の、「贖い」の御業を信じる信仰が、私たちには与えられているのです。ならば、私たちがイエス・キリストの「十字架」を、モーセ同様に「信仰の鍵」として、「マラ・ゲート」を開ける時に、「マラ(苦いもの)」が「ナオミ(快いもの)」となるのです。


 「私はあなたを癒す主である。」と宣言される方は、「今の時」にも変わること無く、全ての「マラ」を癒されます。私たちが「一本の木」、即ち贖い主イエス・キリストの、貴い「十字架」の御業を、「霊の泉」の中に投じ続ける限り、私たちはエジプト的な「中毒症状」から回復し、遂には完全なる「癒し」を得るのです。


何と幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎる時も、そこを泉の沸くところとします。初めの雨もまたそこを祝福で覆います。彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現れます。
                                                   【詩篇84篇6~8節/新改訳】


 私たちの歩む前(先)に、たとえ「マラの泉」が迫って来たとしても、私たちは神の「祝福」の次元を切り開く、神の新しい「掟」と「法」が、「一本の木」を通して、既に用意されていることを、是非信じ続けて下さい!主なる神は「あなたを癒す主」です。この御言葉をもって、「マラ・ゲート」を大きく開けて前進する時に、私たちの「先」には、「涙の谷を過ぎる時も、そこを泉の沸くところ」へと回復し、常に永遠の「喜び」を与えて下さる方が、あなたを「大いなる民」として、霊的に癒し続け、新しく造り変えて下さいますように。


 どうか、あなたの信仰の上に、神の偉大なる御国の次元を切り開く、豊かな「信仰の賜物」が与え続けられ、イエス・キリストの「十字架」という、「信仰の鍵」をもって、多くの魂をエジプト的「病い」から癒す、神の「救急医療チーム」として召し出されて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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