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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Good-Shepherd(No.12)

             マーシャー・ゲート




しかし、もはや隠し切れなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。
王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中から私が引き上げた(マーシャー)のですから。」

                                             【出エジプト記2章3節,10節】


理由無き「憎悪」
 今回から、神と人との間に交わした「契約」を、信仰という霊的ゲートを、たとえ如何なる状況下にあっても大胆に開き、その先にある神の見えざる領域に、勇気をもって踏み出した信仰者にフォーカスし、その信仰行動から学ぶべき奥義を、聖霊様から教え示して戴きますが、今回はあの有名なイスラエルの大指導者、モーセの母親であるヨゲベドの信仰行動から、霊的に学んで参りましょう。


 今回の記事から示される第一の奥義は、イスラエル民族の拡大に伴う、「この世」から生じる妬みと、様々な攻撃(迫害)に関して、それらの源点は如何なるものであるのか?という点です。イスラエル民族の拡大とは、神の「祝福」が満ち溢れる、その豊かな「広がり」のことです。


 ヨハネ福音書15章18~25節には、イエス・キリストご自身が、「この世」から理由無き「憎しみ」を、常に受けていたことが記されています。「理由無き」という表現は、三次元的な考察からは、その正当な原因(根拠)を、決して見つけることが出来ないことを意味しています。しかし、霊的次元から洞察するのであれば、そこには明確な神の「理由」があります。


 イスラエル民族も、私たちキリスト者も然り。私たちが、「この世」から憎しみ(妬み)を受ける、神から見た「正しい理由」とは、イエス・キリストの「贖い」を通して、私たちが必ず「完成された民」へと造りかえられ、神の偉大なる「霊的遺産(天の祝福)」を受け継ぐからです。即ち、イエス・キリストを長子とする、神の麗しい「家族(エクレシア)」が、やがて天にて相まみえ、新しい「天」と「地」を相続するという、素晴らしい特権を得るからこそ、悪魔サタンは、この神の「計画」を破壊したく、今の霊的イスラエル人(キリスト者)に対して、様々に「妬み」と「憎しみ」をあおって、盛んに攻撃して来る訳です。


 さて今回の信仰者、ヨゲベドの信仰行動を紐解く上で、重要なキーワードがあります。それは、普通の母親として常識的に考えたら、絶対そのような行動を採らない動作、つまり「水」の領域に、我が子(赤子)を置いた(浮かべた)こと、即ち「水(Water)」という言葉です。


 前回(No.13)も記述したことですが、イスラエル民族はどの時代(歴史)、どの場所(国家)においても、「枯渇することの無い水」の如き群れでした。そのことが故に、彼らは妬まれる訳です。宰相となったヨセフによる、先見的政策の結果、イスラエルの民はゴシェンの地で、拡大勢力となりました。最初はファラオの庇護の下、繁栄を横臥できた訳ですが、次第にエジプトの民の「妬み」と、彼らの拡大に伴う民族的「恐れ」から、遂には「奴隷」と同様の重労働を強いられる、悪しき冷遇政策を被ることになります。


 そしてモーセが誕生する頃には、イスラエル民族の人口抑制政策として、生まれる男子は全員殺処分される程の、大迫害時代が到来した訳です。そんな悪しき時代の中にあっても、彼らは決して「枯渇することの無い水」として、必死に耐えながら生存していました。そうです!彼らは、たとえ現状が「荒野(砂漠)」の如きものであっても、「共に集まり、共に神の言葉に従う」ことを、生きる指針として尊び、まさしく砂漠から湧き出る、「命の水」として流れ続けたのです。


マーシャー・ゲート
 さて、今回の記事に記された「マーシャー」とは、ヘブライ語ではなく、エジプト国語の言葉です。しかも王女という支配階級の身分の者が、あえて命名した「モーセ」の原語となるもので、「私自らが水から引き上げた!」という意味です。と言うことは、モーセ自身も何となく、自分の人生において、「水」という単語が様々に関わって来ることを、後々の体験から感じ取っていたのではないでしょうか!


 ヨゲベドが「水」の中に、我が子モーセを置き、それを王女が「水」の中から引き上げた、この二人の女性の一連の「行動」の中に、主なる神の偉大なる「救い(贖い)」が見出されます。つまりヨゲベドが開いた、信仰のゲートが如何なるものであり、開くために使用した霊的鍵は、如何なるものであったのか?これが今回の記事に示される、二番目の奥義となりますが、私たちがこの二番目の奥義を、二人の女性同様に、信仰をもって大胆に行動する時に、私たちの信仰の「歩み」の前にあるものは、決して「恐れ」や「不安」等ではなく、神の偉大なる「祝福」の領域にある、完全なる「贖い」である!ことを、益々体験することが出来ます。


 覚えて戴きたいことは、ヨゲベドの信仰行動は、常識的に見るのであれば、「幼児虐待」とも間違えられる、常軌を逸した「異常(狂気の)行動」です。たとえナイル河畔の水流が、大河の下流ということで、ゆったりとした流れであったとしても、水のフィールド全体が、赤子の「生命」にとっては、危険極まりない「死の領域」になります。ですから「ナイルの水」、これは霊的に「死のフィールド」を意味します。


 この「死のフィールド」に、我が子(モーセ)の命を託すこと、これは幼年サムエルを神殿に奉じた、母ハンナの並々ならぬ信仰行動、そして信仰の父と呼ばれた、アブラハムが唯一の一人息子イサクを、神に対する「全焼の生贄」として、祭壇上に置いた(捧げた)行動と同じものです。


 ヨゲベドは、「もはや(我が家の隠し部屋に)隠し切れなくなった!」という、三次元的事実に対して、如何なる「次の隠し場所」を求めたのか?これが彼女の行動を、正しく見るポイントとなります。「家に置いて隠し続けても、いずれは泣き声等で見つかる。ならば、どこに隠せば見つからずに済むのか?」という、彼女の必死の探求に対して、天からの神の「知恵」を、聖霊様が授けることになります。それが「あなたは先ず、防水加工したパピルスの籠を用意し、その中に我が子を寝かせ、ナイルの葦が茂る水のフィールドに、その籠を置きなさい!」と。


 聖霊様の「促し」に従って、ヨゲベドの取った信仰行動は、霊的に見れば「無限なる神の永遠の守りの中にこそ、真の隠れ家がある故に、その中に我が子の命を置けば、必ず次の新しい命(人生)が、我が子にもたらされる!」という、素晴らしい信仰行動です。今回、彼女が聖霊様から受け取った「第一のもの」とは、人の「知恵」に優る、神の偉大なる「知恵」です。これは三次元的には、確かに見えざるものですが、彼女は明確に「霊の眼」をもって、大胆に神の「知恵」を用いた結果、本人は「その時」には分からずとも、後々自分の取った行動が、如何に次の「新しい次元」を切り開いたのか、それを「神の事実」として知ることになります。


 続いて彼女が、聖霊様から受け取った「第二のもの」、それが信仰の鍵です!「鍵」は何の為にあるのでしょうか?常識的には防犯上、閉めるための必須道具です。しかし信仰の鍵の場合は、目に見える領域ではなく、見えざる「神の領域」へと、大胆に切り開いて、踏み出して行く為に用いるものです。そして彼女が開いた霊的ゲート、それが「マーシャー・ゲート」です。彼女は、我が子をナイル河畔に置いた時、果たして誰が水の中から、我が子を救い出すか、つまり「先」が見えなかったにも関わらず、神が命じられた「水のフィールド」の中に、神の偉大なる「ご計画」があることを信じて、信仰の鍵を開けた(水の中に置いた)こと、これが「マーシャー・ゲート」の奥義です。


 ある面で、彼女が「水」という死の領域に、我が子を委ねて(捧げ尽くして)、後のことは神の「贖い(救いの領域)」に託す、つまり「我が子は必ず復活する!」と信じた、アブラハムの信仰と同様のものです。故に彼女は、全能の神の「御翼の陰」に、全てを委ねることが出来たのです。さー、開かれた神の「マーシャー・ゲート」は、この後、如何なる神の次元を、更に開くことになるのでしょうか?


 それはエジプトの王女が、「水浴び」をしていた時に起こります。王女の付き人である女官が、たまたまナイル河畔の、静かな水の流れの音の中に、不思議な生物の「泣き声」があるのを聞き、不審に思って王女に報告しました。すると王女自らが、そっと葦の茂みの中へと、用心しながら進み行くと、まるで王女が来るのを待っていたかのように、籠舟が浮かんでおり、どうやら不思議な「泣き声」は、この中から聞こえて来ることを確信し、王女はそれを抱きかかえました。これが「マーシャー・ゲート」によって開かれた、第一の奇跡です。


 その後、王女は彼女に命じて、全ての他の女官たちを、その場から退場させました。そして、彼女に注意深く語りました。「そっと開けなさい!」と。すると彼女は、王女の目に入るよう、静かにそっと籠の蓋を開きました。開かれた籠の中には、王女の今までの「人生」を、根底から覆す程の光景が、王女の目の瞳の中へと入り、それは彼女の魂の領域にまで、何の抵抗もなく流れることになります。


 余りにも神々しく、今までに見たことの無い、赤子の無垢な「笑顔」を見て、彼女は思わず「笑み」をこぼします。それを見ていた女官は、王女に進言します。「王女様、この子はヘブライ人の産んだ子です。産着を見たら分かります。如何しましょうか?」と。「その時」聖霊様が、王女の霊の扉をノックして、次のように彼女の知性に働きかけました。「このまま放っておいても、いずれ死んでいたはず。(ヘブライ人に)捨てられたものなら、いっそのこと自分が、この子の命を助けるべきね。私には一生望んでも得られぬ、天からの授かりものかも知れない!」と。


 そして女官の耳元に、小さな声で語りました。「この件は、一切他言してはなりません!そなたの命に懸けて、今から命じることを誓いなさい!この子は、私自らが水のから助け出した子、つまり私の子モーセとして養育します。急いでヘブライ人の乳母を探して、ここに連れて来なさい。」と。これが「マーシャー・ゲート」によって開かれた、第二の奇跡につながります。即ちヨゲベドの用いた信仰の鍵が、王女の一連の「動き」へとつながり、最終的には王女の大胆な「決断」により、それは一種の「信仰」とも言うべき、「神のフィールド」を展開することになります。そうです!新しい「神の人」、モーセの人生がスタートします。


あなたの信仰が「神の祝福」を開く!
ユダの家よ、イスラエルの家よ。あなた達は、かつては諸国の間で呪いとなったが、今や私が救い出すので、あなた達は祝福となる。恐れてはならない。勇気を出すがよい。
                                              【ゼカリヤ書8章13節】


 私たちは「死の領域」や「不可能な領域」、そして「ネガティブな領域」に追い込まれた時、大抵の場合「恐れ」を抱きます。「もうこれ以上進めない!」、「もはや隠し切れない」などと。しかしヨゲベドにしても、エジプト王女にしても、彼女たちは神の見えざる御手が、全てを支配し、神の麗しい次元の中に、信仰をもって突き進む時に、神が不思議なる方法をもって、全ての事を相働かせて、必ず「益(神の祝福)」として下さることを、信仰の鍵で切り開いたのです。


 私たちはナイルの「大河」を見て恐れるのではなく、そこに神の見えざる「祝福の領域」が、必ず存在することを見出すこと、これが「マーシャー・ゲート」を開く信仰の鍵です。さー、あなたはこの信仰の鍵を、如何なる時に、如何なる場合に用いますか?私たちが、人間的なもの見ようとする、「肉の眼」を閉じさえすれば、見えざる「神の領域」にある、偉大なる天の資産(祝福)が、霊の眼を通して見えて来るのです!そしてあなたが、神に全く信頼することで、神の次元が必ず開かれて行くのです!


 「マーシャー・ゲート」が私たちに用意される理由は、私たちが信仰の鍵を戴き、天から来る神の「知恵」に導かれがら、大胆に信仰をもって行動して行く時に、「死の領域」にしか見えない、あなたが被る霊的ナイルの中にも、神が偉大なる御業を次々と起こし、聖霊様が用意する、「命の水(Living-Water)」の次元へと、必ず導いて下さることにあります。これを是非信じ続け前進して下さい!


 私たちの歩む先に、如何なる事が起ころうとも、その先にある「マーシャー・ゲート」を、私たちが信仰の鍵をもって、大胆に開いて踏み出すだけで、偉大なる神の「祝福の領域」が、更に拡大して行きます。その過程で起きる、世からの「妬み」と「憎悪」を、私たちは恐れる必要がありません!何故なら、私たちの主イエス・キリストが、既に「世」に打ち勝たれた、唯一の「救い主」であり、私たちキリスト者が「贖われた民である!」という、確かな証拠となるからです。


 どうぞあなたが、神の豊かな「知恵」を戴きながら、「マーシャー・ゲート」を、大胆に開くことが出来ますように。そして「信仰の鍵」を益々用いて、多くの人々を「神の領域」へと導く、信仰の勇者でありますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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