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バルナバ・ボイス(No.8)

イエス・キリストの13の問いかけ−その8


    『イエス・キリストとは何ものですか?』



イエスは、フィリポ・カイザリア地方に行った時、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか。」シモン・ペテロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ。私も言っておく。あなたはペテロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
                                                                                             【マタイ福音書16章13〜19節】


 イエス・キリストが弟子たちに尋ねられた、「あなた方は私を何者だと言うのか。」という問いかけは、私たちの普段の会話の中でも交わされる、「あなたは、どなた(どちらさん)ですか?」というニュアンスを含んだ「問い」です。


 イエス・キリストは何故、弟子たちに対してこのような問いかけを、あえて為されたのでしょうか?ところがイエス・キリストは、ご自分の身分(正体)を弟子たちに教えられた後、「・・・・ご自分がメシアであること誰にも話さないように」(20節)とも命じています。つまりイエス・キリストは、自分が「何者」であるのかを、弟子たちに明かしたにも関わらず、他者に対しては未だ証言してならないと、彼らに念を押している訳です。


 イエス・キリストが、この問いかけを弟子たちに投げかけられた時の状況(事情)を考察して戴ければ、その理由が浮上して来ることですが、実はこの出来事の後に始まる、イエス・キリストの「十字架」という受難が、いよいよ目前に迫っていたからです。イエス・キリストの兄貴分であった、洗礼者ヨハネが殉教したという、非常に危機迫り来る状況の中で、イエス・キリストはこの時、あえて弟子たちに対して身分を明かされたのです。


 当時のイスラエルの人々にとって、ローマ帝国による圧迫と苦役を強いられる悲惨な状況の中で、ヘブル民族再興と独立国家の樹立のために、彼らが期待した政治的「器(リーダー)」のイメージは、旧約時代のモーセやダビデ王など、強力なリーダーシップを発揮できる預言者でした。ですから、普段彼らが会話するその殆どの内容が、「来るべき方(メシア)は、一体どのようなお方だろう?何処に生まれ、いつ敵陣を蹴散らして、我らを救い出して下さるのか?」などの類でした。そして彼らは、この時代に登場した洗礼者ヨハネに、当然の如く大きな期待を寄せた訳です。しかし如何せん、洗礼者ヨハネはヘロデ王に捕らえられ、最後は死刑に処せられました。


 それ故イスラエルの人々は、あと一つの噂の人物「イエス・キリスト」に対して、様々な憶測と期待感を寄せながら、普段の会話の中で様々な噂を流布しました。そして至る所で「来るべき方は、イエス・キリストなのか?」、「イエス・キリストとは、一体何者なのか?」などの議論が、様々な形式で為されました。弟子たちの中でも、その種の議論が白熱化するのですが、いっこうに師イエス・キリストが、正式に(メシアとして)名乗りを上げないものですから、かつて熱心党員であった弟子の何人かは、「独立運動」の旗上げを今にも起こそうと欲するのですが、タイミングを見測れないジレンマがあったものと推測できます。


 恐らくイエス・キリストは、弟子たちのこの種の会話を聞く度に心痛められ、「一体彼らは、私のことをどのように思っているのだろうか!」と悩まれたことでしょう。そして遂にある時、聖霊様からGOサインを戴いた後、彼らに対して「今まで私に付き従って来ましたが、一体あなた方は、私のことをどう思っているのか?人々は私のことを、何者だと言っているのか?」と尋ねられました。そこで弟子たちは、巷に流布される「噂」の最有力情報を、イエス・キリストに幾つか示され、「洗礼者ヨハネの再来」、「預言者エリヤの生まれかわり」、「今までの預言者の中でも最高の預言者」などと、様々な仮の名称(身分)を申し並べました。


アイデンティティを問う
 「何者ですか?」という質問(問いかけ)は、私たちが普段交わす会話の中に、非常に多く見受けられるものです。例えば私たちの近辺に、いきなり出現(登場)したある人物が、人々が噂するような「神の使い(救い主)」であると、誰かから聞いたとしても、恐らく「あの人は一体何者なのだろう?」などと、素直にその噂を信じようとはしません。それ故、私たちはその人物の居る場所に出かけ、先ず容姿(スタイル)や風貌などを直接見て、次に顔と顔を付き合わせる距離にまで近づき、何らかの会話などを交わした後に、噂の真偽を確かめようと試みるものです。


 当時のイスラエルの人々も、そのように「イエス・キリスト」のことを調査するのですが、自分たちの思い描いていたイメージ、つまり「革命家」としての情報が何ら見出せませんでした。また弟子たちも、その殆どが未だにイエス・キリストの「身分」を、正しく認識できていませんでした。ですからイエス・キリストはこの時、遂に「では、あなた方は私のことを、何者だと思っているのか?一人一人答えておくれ!」と問い質したのです。すると弟子たちは、当時の人々が噂し合っていた類の「名称」を、次々と発表する中で、あの失敗だらけのペテロが、聖霊に促されるまま明確に証言しました。「あなたはメシア、生ける神の子です!」と。


 私たちが、ある人物に対して「あなたは何者ですか?」と尋ねる場合、それは先ず①その人の「名前」を尋ねることから始まり、次に②その人物の「身分」と「所属(家柄)」、そしてその人の持つ「性格」などの、いわゆる「アイデンティティ(存在証明)」を問う言葉になります。弟子たちを始めとして当時のイスラエルの人々は、確かに「イエス・キリスト」という名を、知識として知っていましたが、その御名の本当の「アイデンティティ」を、正しく理解する者は誰一人おらず、ましてやその「名」の真実の意味合いを調べた者は、あの盲人バルテマイとフェニキヤの名も無き婦人だけでした。ところがこの時、聖霊から「知識の言葉」を戴いたペテロが、イエス・キリストの「アイデンティティ」を明確に示したのです。


イエス―3つのID―
  例えばある人が、私たちに対して「イエス・キリストとは何者ですか?」と問い質した時、果して私たちはイエス・キリストの「アイデンティティ」を、ペテロの如くに明確に示すことが出来るでしょうか?私たちの側に①イエス・キリストの持っておられる「ご品性」、そして②自分とイエス・キリストとの「関り方」など、その麗しいID(アイデンティティ)を、明らかにする備えが為されていないのであれば、どういう事態が予想されるでしょうか?その人は確かに、あなたからの個人伝道を通して、イエス・キリストの「救い」の確実性を、聖書の御言葉から詳しく聞かされます。


 ところが、その人が「では、あなたとイエス・キリストとの関り方について、もっと詳しく教えて下さい!」、「あなたの生活の中にイエス・キリストは、実際どのように生きているのですか?」などと、逆に問い質された場合、「うーん私の場合、様々な問題が解決されましたし、ある人は不治の病からも癒されましたよ!」などと、イエス・キリストの為された「出来事」を、事細かく証言できたとしても、その人の求める「正しい答え」に至っているでしょうか?それは全て、この時にペテロが端的に語った「証言」の中に、「鍵」となる重要なIDがあります。


→第1のID「メシア」
  私たちはイエス・キリストの「御名」が、「救い」を意味する言葉であることを、常識的にも霊的にも知っています。確かに私たちが、「イェス様!」とその御名を呼ばわるだけで、自分ばかりでなく家族の中にまで、その素晴らしい「救い」の御業が新たにスタートし、更にイエス・キリストの十字架の貴い「血潮」を、私たちがへり下って戴く時に、神の「贖い」の御業が完成されていくのです!しかし人々は、あなたに具体的に問いかけます。「救い主という意味は分りました。では、その救い主イエス・キリストは、あなたの人生において、どのように関わってきたのですか?そして救い主は、今後更にあなたに対して、如何なる関わり方をもって、救いの御業を完成されるのでしょうか?」と。


 今日は、宗教不信の時代と言われています。何故なら殆どの宗教(組織・団体)が、ご利益的なものばかりを追求して、信者に布施(寄進、献金)などを要求して来るからです。「この世」の宗教の全ては、人間の持つ自己中心的な「倫理(教理)」に基づいて、「自己」の欲するものを駆り立てることに成功しています。このように、宗教不信に覆われた「この世」の人々の中にも、「真実の神」或いは「真理」を求めている人々は必ず存在します。そのような人々が一番に関心を払っていることは、例えばキリスト信者に対しては、「あなた自身と生活の中に、イエス・キリストが救い主(メシア)として、明確なものとして現れ出ているか否か?」ということです。


 確かに「この世」の人々は、先ずご利益的なものを求めて、生活上の「祝福」と肉体上の「健康」を、「宗教」に期待(祈願)します。しかしそれは、一時的な「信仰(信心)」です。そのような彼らに対して、あなたがイエス・キリストのことを、どんなに立派に宣べ伝えたところで、あなたの中にイエス・キリストという、「救い(メシア)」の持つ聖なる品性が見られないのであれば、「救い主?それは只の言葉だけでしょう!あなたが言うような永遠の救いの保証は、あなたの人生の中にどのように現されているのか、実際に証明出来ますか?」と、逆に皮肉交じりに突き返されるだけです。


 あなた自身が、「救い主(メシア)」との関わり方の中で、如何に麗しい永遠の愛を戴き、自らも「救い主」に対して「愛」を捧げた時に、イエス・キリストの「救い」の御業が揺ぎ無いものとして、つまり自らの言葉と態度(振るまい)、また生き方や仕事ぶりなどに、イエス・キリストの持つ「ご品性」が、豊かに自然に現されているか、このことに人々は関心の眼を向けてくるのです。「うん!この人は何かが違う。今まで見てきた様々な宗教信者と違って、素朴で麗しい品性がある。しかもそれは、何の飾り気の無い美しさである!この人と共に居るだけで、何か心暖まるものを感じる。」と、その人が感じ取り始めた時に、イエス・キリストの「救い」の御業が、確かなものとして現れ出ることになります。これが私たちと、「メシア」との関わり方の一例です。


→第2のID「生ける神」
 「この世」の宗教は、その殆どが「死んだもの」を、あたかも生きて働いているかのように教え諭し、ある「物体(物質)」を例えば、「仏」とか「ご神体」として拝むよう勧めています。「人」の中に生まれつき備わっている「信心」には、何と愚かなことに「死んだもの」を礼拝すれば、何らかの「ご利益(世的な救い)」があると錯覚してしまう訳です。しかし私たちの信じている「神」は、例えば「では、あなた方の信じる神は、生きているのですか?それとも死んでいるのですか?」と彼らから逆に問われた場合、「然り!私の信じる神は、生ける神です!」と即答できるものでなければなりません。


 神が生きているということは、仏像のように「人」が持ち運ばない限り、一ヶ所に置かれた不動(死んだ)状態ではなく、文字通りそれは「今、まさに働いて(動いて)おられる神!」であることです。そして信じる私たちの中に、必ず何らかの「変化(変革)」を起こし、ご自分を求める者に対して、御心に沿った必要なものを備えて下さる方、それが「生ける神」なのです。このことを、私たちが実際の信仰生活の中で、明確な真理として受け取っているのであれば、この「生ける神です!」という告白は必ず生きた言葉、即ち明確に実現する信仰宣言になります。


 私たちの語る言葉、聞く事柄(知らせ)、目にする出来事などそれら全てが、例えば「父なる神は、この不可能と思える状況(フィールド)の中に、必ず有(可能)なるものを用意して下さる!私たちの人生に負債(赤字)ではなく、余りある程の素晴らしい産物(黒字)を、既に用意し取っておいて下さる!」と告白し続けた、アブラハムの信仰の如くに、神の御霊(聖霊様)が生きて働き始める時に、それは必ず成就するのです。ですから、私たちの信じる「生ける神」は、如何なるフィールドにあっても、ご自身が生きて働かれる以上、必ず新しいことを起こし、新しい「救い」を始められ、新しい約束を保証して下さることを、私たちは次々と体験できます。又これからも宣言していく限り、人々はあなたの語る「生きた言葉」に、大いなる「救い」の希望を抱いて、あなたの元を訪ね「生ける神」を求めて来るでしょう。


→第3のID「神の御子」
 私たちの信じる「イエス・キリスト」は、この世の権力的階級にあずかる者、例えば「王族」、「貴族(特権階級)」、「議員ファミリー」などの称号とは、懸け離れた霊的次元にあることをご存知でしょうか?それは今日の皇太子以上に、近づき難い麗しの「君(主)」ではありますが、「渇いている者は来るがよい。」(ヨハネ黙示録22章17節)と、常に優しく呼びかけて下さり、「親しい交わり」の中へと誘って下さる、フレンドリーな「神の御子」です。


 御子イエス・キリストは「花婿」であると同時に、第三のIDの中には更に重要な意味、即ちたった一人の「神の皇太子」という、素晴らしい称号があります。このお方が、私たちの元に最接近して下さるだけで、私たちは聖なる「安息」の中に招き寄せられ、将来に対して何も心配事が無い人生が、新しい約束として保証されるのです。


 ですから、私たちの信じる神の御子イエス・キリストは、①あなたに明確な「救い」をもたらす神であり、②今も、そして永遠に生きて働かれる、③神の皇太子である!そして、このお方は遠い遠い存在ではなく、常にあなたの側近くに居て下さり、あなたを決して見離すことなく、むしろ妬むほどに愛して下さる、素晴らしい「花婿」です。私たちは、イエス・キリストを信じることによって、どんなに素晴らしい人生が確立されるのか、このことを必ず証明できる時が、聖霊を通して備えられるのです!


ペテロに対する「約束」
  「私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(19節)に記述されている「つなぐ」とは、英語で「prohibit」と言い、「禁じる」という意味です。それに対して「解かれる」とは、英語で「permit」と言い、「許可する」という意味で、ペテロに対して語られたこの二つの言葉が、相反する概念であることが分ります。


 あなたに与えている「天の国の鍵」は、「天国」と「地上」をつなぐものですが、それは開く場合と、閉める場合の、二通りの機能(働き)があります。ペテロに約束された、イエス・キリストの「命の言葉」の保証は、実は私たちに対しても同様に、必ず付与されることを信じて下さい!つまりペテロの如くに、私たちが「イエス・キリストは私の救い主、私の生ける神、私の信じる神の御子です!」と告白する時に、それは「天」と「地」の関係を、本来の「正しい在り方(秩序)」へと創り変える、重要な「鍵」となるのです!


 即ちあなたの「唇」「耳」「眼」などの五感、そして霊的な働きを司どる霊感を、聖霊様が明確にイエス・キリストの流される、十字架の貴い「血潮」によって再創造する時に、あなたの語る「言葉」、耳にする「事柄」、目に入れる「光景」、手に掴んだ「もの」、また実際に両足で歩いた「フィールド」、そして「霊」で受け留めた「神の言葉」が、聖霊の働きを通して「天」につながれていく過程で、それらが「天国」から流れ出る豊かな「命の水」として、「地上」に生きる人々を大いに解き放つ、重要な「鍵」となるのです!


 しかしその逆に、あなたが否定的観念に捕われ、イエス・キリストを口先で信じるだけで、ペテロの如くにイエス・キリストの御名を、大胆に宣言しようともしないのであれば、「天」と「地」はつながれることはありません!むしろ悪しきフィールドが、あなたの「霊」の中に蔓延し、あなたの人生をprohibit(束縛する)ことになります。ですから私たちは、イエス・キリストの貴い「御名」を告白し続けることで、あなたの語る信仰の言葉の中に、聖霊様が天上の「命」を新しく産み出していくことを、是非覚えて下さい!


 「この世」の人々が、いずれあなたに対して尋ね求める、その時が来ます。「イエス・キリストとは、一体何者ですか?」と。「その時」あなたは、明確に告白して下さい!「イエス・キリストは私の救い主、生ける真の神の御子です!そして、常に私の人生に救いを与え、生きた働きを為され、親しい交わりをもって、私のことを愛して下さる方です!だから私も、イエス・キリストを愛して止まないのです。私の人生は、このように麗しい人生へと変えられました。」と。あなたが使途ペテロの如くに、遂に堅固なるイエス・キリストを土台(基礎)とする、霊的エクレシアとなることを、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


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