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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Good-Shepherd(No.9)

                                潔い花嫁




・・・・次の朝、皆が起きた時、僕が、「主人のところへ帰らせて下さい・・・・私を、お引き止めにならないで下さい。この旅の目的を叶えさせて下さったのは主なのですから。・・・・主人のところへ参ります。」「娘を呼んで、その口から聞いてみましょう」と彼らは言い、リベカを呼んで、「お前はこの人と一緒に行きますか」と尋ねた。「はい、参ります」と彼女は答えた。・・・・リベカは、侍女たちと共に立ち上がり、ラクダに乗り、その人の後ろに従った。僕はリベカを連れて行った。・・・・
                                                                         【創世記24章54~67節】


天的品性という「潔さ」
 たった一人の御曹司である、アブラハムの子イサクに相応しい花嫁リベカと、遣わされたアブラハムの僕との「出会い」も、実は一回限りのものであり、僕の発した一度限りの「お願い」(24章17節)により、ピッタリと組み合わされた、神の不思議な「ご計画」が見えてきます。


 そうです!主なる神の為す「方法(摂理)」は、常に単純明快です!今回の記事で覚えて戴きたい奥義は、信仰に基づく「潔さ」です。「潔い」とは「すがすがしい」、また「後腐れの無い」など、ある面「ストレ-ト」に近い意味を持つ行動(姿勢)のことです。そしてこの「潔い」とは、奥深い意味として、一度決断したことに対して、決して「後戻り」の無い、確固たる信念(信仰)に基づく行動につながるものです。


 イサクに嫁ぐことになるリベカの「品性」、特に彼女だけが持つ豊かな天的品性は、私たちが知るべきものであり、キリストの「花嫁」が持つべきものです。ご存知のようにキリストの「花嫁」とは、「この世」に嫁ぐのではなく、神の栄光ある偉大な「王の王」、御子イエス・キリストに、命の全てを捧げる「真の花嫁」のことです!


 ではリベカの持つ天的品性は、どういう点に見出されるのでしょうか?はっきり申し上げて、今回の記事に見られる彼女の行動は、男優り的なもの(女傑)が見受けられます。具体的には、先ず①彼女は常に「旅人」に興味があり、その人が何をしに来たのか、そして何処に行くのか等に気を配り、積極的にもてなすことが出来た、即ち如何なる人に対しても、自分より優った者として仕える事が出来る点です。


 本来であるならば、彼女はうら若き乙女ですから、文化的に殿方たちと会話をすることは、恥ずべき行為ととられます。しかし彼女の場合は、そんなことはお構いなしに、②機転を利かせて素早く行動します。つまり彼女には、「もてなす(ホスピタリティ)」という、第二の天的品性を備えていました


 この彼女の行為に驚愕した、アブラハムの僕は「あなたは、一体どこの何様ですか?」と、慌てて尋ねます。すると彼女は、躊躇なく「私は○○族の者で兄はラバンと申し、その妹のリベカでございます!」と、明確に返答しました。そこで、水を飲ませてくれた御礼にと、僕は彼女に自分の身分を述べて、金の装飾品を差し上げます。


 すると彼女は、僕の元を去るや否や帰宅して、家族の者に一切の事情を報告しました。家族の者は、リベカ同様に驚嘆しながら、僕の一行を招き寄せた後、ようやく僕は主人アブラハムの「伝言」を、家族の長に報告しました。その間リベカには、何の詳細(相談)も伝えませんでした。


 翌朝になって、僕が「私は今から、主人の元に帰りますので、お嬢さんを、連れて行っても宜しいですか?」と、家族に対して唐突に言うもんですから、「いやいや、ちょっと待って下さい。少しばかり(別れの暇の)猶予を下さい!」と、家族の側では引き延ばそうとします。しかし僕は「皆様方!今回の御引合わせは、主なる神の御心により実現しました。それ故、早速の事ではありますが、是非お連れしたいのです。」と真剣に懇願したので、遂に家族は承諾しました。


 さて、何も知らぬリベカを呼び寄せて、兄ラバンが「私の可愛い妹よ、今から言うことを真剣に聞いておくれ!」と、事の一部始終を明かしました。すると彼女は「お兄さん、分かりました。では早速私は身支度を整えますので、アブラハム様の僕の方に、少々の時間お待ち下さるよう、お願いして下さいませ!」と、何の躊躇も無く了承したので、逆に家族の者が唖然とする始末。


 リベカの天的品性の中で、最大(極上)のものが、この③躊躇なき「潔さ」です。特に彼女の場合は、潔い「決断力」にあります。大抵の人は、緊急事態に直面して、何らかの決断しようとする際に、必ず「躊躇」します。様々な事を詮索したり、何らかの「計算(駆け引き)」等を考えるからです。


 しかし彼女の持っている「洞察力(咄嗟の知恵)」や、並外れた行動力の原点にあるものは、「主なる神が道を開かれた場合、自分がそれに従っている限り、必ず後々の心配等を超える次元で、神ご自身が何とかして下さる!」という、潔い信仰から生じるものです。


神の道を開く「信仰の鍵」
 そうです!リベカには、神が示して開いて下さる「唯一の道」に対して、①素直に聞き従い、②その道を開いて進むという「霊的な鍵」、即ち天的「潔さ」がありました。ある面で、世間の人から見れば、彼女の性格や行動は、「変人(おかしな人)」と映ります。


 このように、未だ見てもいない「花婿」に嫁ぐべく、素早く行動した彼女の「潔さ」の中にある、最高の品性は「一度決断したことは、絶対に変えずに、自分の心(願い)ではなく、神の御心(唯一の道)にのみ、全幅の信頼をもって聞き従う!」という、確固たる(不動の)信仰です!


 私たちは「将来(先の人生)」に関して、殆ど掴み所の無い、混沌とした(不安定な)時代に生きています。しかし私たちキリスト者が、この世の人々とは違う次元に生きている!こと、この事実を決して忘れないで下さい!即ち私たちは常に神の「命の言葉」を知り、その「命の糧」によって生きている!という点です。


 神の「命の言葉」は、決して偽ることなく、私たちを「祝福」から更なる「祝福」へと導き、永遠に続く神との「親しい交わり」の中に、常に守り導く!という、確固たる信仰の原動力です。そういう意味で、私たちが信仰の原点とするもの、それはリベカの持つ信仰と同様のものです。


 再度繰り返しますが、私たちキリスト者は、霊的にイエス・キリストの「花嫁」です。リベカの如くに、「一度掴んだ(神が選んだ)花婿を、生涯かけて放さない(付き従って行く)!」という、潔い信仰をもって前進しましょう!


 私たちは今は、花婿イエス・キリストと、直接「顔」と「顔」をもって、見ることの出来ない「不自由」の中に生きています。しかし、真の花婿なるイエス・キリストは、私たちに常に御顔を向けて下さり、再臨の時に向けて、霊的婚礼の場(時)を用意して下さっています。


 それ故、私たち花嫁の側でも、リベカの如くに絶えず、この潔い「信仰の鍵」を使って、信仰の大道を切り開いて行きましょう!この鍵を使わない限り、キリストの花嫁としての品性が働きません。


 あなたが、「人」や「この世」を気にするのでは無く、リベカの如くにストレ-トに、主なる神に従うことの出来る信仰により、大胆に見えざる領域にも突き進む、真の花嫁に仕立てられますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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