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バルナバ・ボイス(No.7)

イエス・キリストの13の問いかけ−その7


         『あなたは何を望んでいますか?』



  私たちの患う「病い」の中には、物理的・精神的な病気が数多くありますが、「人」にとって最大の「病い」とは、実は霊的な「病い」であることを、私たちは先ず知るべきです。又私たちが、聖霊様を通して本来確立すべき、神との麗しい「関係(交わり)」を持つために、一体どう変革されるべきなのか?この点について、聖書から学んで参りましょう。


イエスはエルサレムに上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、私たちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」その時、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスの所に来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか?」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになる時、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃって下さい。」イエスはお答えになった。「あなた方は、自分が何を願っているのか、分っていない。この私が飲もうとしている杯を飲むことができるか?」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなた方は私の杯を飲むことになる。しかし、私の右と左に誰が座るかは、私の決めることではない。それは、私の父によって定められた人々に許されるのだ。」他の十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなた方も知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなた方の間では、そうであってはならない。あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
                                                                                   【マタイ福音書20章17〜28節】


「支配の法則」の関係
 ご存知のように、私たちの人間関係というものは、非常に単純な法則によって、互いに支配し合って成立しています。「人」が一人で存在する時には、当然「争い」などは起こりません。しかし二人以上になりますと、互いに仲良くし合う時もあれば、逆に反発し合う時もあるなど、非常にその関係の成り立ちが複雑化します。例えば三人の人間関係においては、①「1対1対1」、②「2対1」という二種類の関係の中で、ある時は全員一致し合う関係を築くことも出来ますが、殆どの場合①のパターンの中で多数派工作をしたり、或いは逆に一人の強力な器が、他の二人を支配することも可能です。


 このように、私たち「人」の関係の法則は、弱肉強食の法則で生きる動物から見て、何と愚かな(滑稽な)ものに写ることでしょう。実は私たちの持つべき、本来の在るべき人間関係は、第一に「私」と神との正しい関係にあずかり、そして第二に「私」と「他者(隣人)」との関係を、聖霊様を通して構築することが何よりも肝心です。ですから、第一の神との「正しい関係」を何よりも優先すべく、「エデンの園」で為されていた、「本来の人」と「神」との関係イメージを、私たちは常に聖霊様を通して示して戴く必要があるのです。神の国における「関係(交わり)」は、「この世」のレベルのものではないことを、私たちは当然「頭(三次元的判断)」の中で知っています。しかし「頭」で分っていても、現実的には何となく、殆どの人間関係において、ぎこちなさを感じています。


人の「望み」の本質
 この時のイエス・キリストの心境は、いよいよ十字架の「死」を目前にして、非常に「緊張感」と「恐れ」の中にあったものと思われます。そして、愛する弟子たちに対して、最後のギリギリまで「神の国」の福音を、丹念に教え説いているにも関わらず、彼らの母の中から「王座にお着きになる時、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃって下さい。」(21節)という、愚かな発言が為されたのです。


 マルコの著述(マルコ福音書10章参照)によれば、母ばかりか二人息子のヤコブとヨハネも、イエス・キリストに対して同様の発言をしています。つまり師イエス・キリストから見て、母子共々に愚かな「願い事」を申し出たのです。弟子たちの殆どが、イエス・キリストの語る、「神の国」の福音の真髄を理解しようともせず、むしろこの時は師がエルサレムに入城するということで、彼らのビジョン(野心)の達成が、いよいよ目前に迫っているものと錯覚していました。ペテロを筆頭に「我こそはイエス・キリストに次ぐ、第二の行政官(首相みたいなリーダー)である!」と自覚していましたが、公言することだけは控えていました。


 しかしこの時は、遂にヤコブとヨハネそして母親が、イエス・キリストの問いかけに、口火を切って懇願したのです。「実は兼ねがね、息子たちと相談していたことですが、イエス様がいよいよ、栄光の王座にお着きになる時、あなた様の右と左に座ることになる者は、弟子たちの中では私の息子ですよね?」と。この母親の訴えを聞いてイエス・キリストは、非常にため息をつかれたことでしょうが、気を取り直してから「あなた方は、自分が何を願っているのか、分っていない。この私が飲もうとしている杯を飲むことができるか?」と、逆に問い質されました。すると二人の息子は「先生!出来ますとも。私たちは、いつも飲んでいるではありませんか!」と、見当違いの返事をしたのです。


 「人」という生物は、常に頭(三次元的思考)の中で、「支配の法則」が束縛しています。そして「人」は、少人数単位(2〜3人)の集団の中にあっては、平和的な関係を築くことが多少なりに出来るのですが、この時点の弟子たちの総数は、推定五百人以上という、一つの巨大な組織集団になっていましたから、イエス・キリストの愛弟子である12人にとって、この巨大集団の中での「エリート(特権的地位)意識」は、どれ程のものであったことでしょう!そんな彼らの愚かな自意識に対して、イエス・キリストは非常に気落ちされることが度々ありましたが、この時も「神の国」の福音を、改めて彼らに教え説きました。


 私たちは、「何」のために召されているのでしょうか?又「何」を望みとして、生きて行くべきでしょうか?私たちの「霊」を蝕むものとは、一体「何」であるのか?これらのことについて私たちは、聖霊様を通して教えて戴かなければ、「聖霊のバプテスマ」を授かったキリスト者と言えども、三次元的思考から生じる、「支配の法則」に依然として縛られ、例えば集団の中で「自分は果してこのグループの中で、どれ位優れているのだろうか?」などと愚かな考えに立ち、「他者」を支配する可能性があります。しかし聖霊様は私たちに対して、「基本(原点)」に立ち返るよう促しています。その「基本(原点)」とは、罪を犯す以前のアダム(エバ)が、如何なる「関係」の中で神と交わり、そして夫婦として成立していたのか?ということです。


神の定めた「正しい関係」
 三位一体という聖なる関係の中にある、父なる神+御子イエス・キリスト+聖霊のイメージ(ヨハネ福音書14章参照)と同様に、実は「本来の人」であるアダムとエバも、一個対一個という個別の関係ではなかったことを、先ず覚えて下さい。又神の「霊」が、彼らを生かしていたという事実は、神の「霊」即ち聖霊様の中に、「本来の人」は覆われて生きていたこと示しています。例えば生まれたばかりの赤子が、暖かな母親の胸元を離れて、「私は私よ!だから私にも、ママ(パパ)のものを頂戴!」とは決して言いません。「赤子」は本能的に、「母親の暖かく、優しい愛の御腕に抱かれ、そして包まれて(覆われて)生きたい!」と願います。それ故、少しでも母親が離れますと、不安になって泣きわめく次第です。ところが、再び母親が赤子を抱き上げ、胸元に優しく包んであげますと、急に泣き止めて安心するのです。


 父なる神と私たち「人」の、本来為されるべき「正しい関係」は、まさしく「母親」と「赤子」の関り方に似通っています。父なる神の「愛」の臨在、そして神との麗しい霊的「関係(交わり)」から、「人」が少しでも離れるとしたら、私たちは霊的に正しく生きることが不可能になります!「本来の人」は、神の「霊(聖霊)」の中で生きることのみを、欲していた存在だったのですが、悪魔サタンの誘惑によって、「罪」を犯した彼らの「霊」の中に、霊的「病い」の根本原因となる、悪しき「罪」の種が蒔かれた結果、アダムは愚かにも「女が・・・・したので」とか、逆にエバは「蛇が〜したので」などと、自分の罪を他者に責任転嫁することで、互いを「個別」のものと認識する、つまり相互に分離した関係になったのです(創世記3章参照)。


 「人」が、聖なる「一体関係」の中にある時のイメージは、「私(自分)+あなた(他者)+・・・・=一体」、つまり「0+0+0+・・・・=1」という、数式(三次元の演算法則には存在しないもの)が成立していました。この時のアダムは、エバを個別のものとは見なさず、「私の骨の骨、私の肉の肉」(創世記3章23節)と呼ぶことで、夫婦としての聖なる一体関係が成立していたのです。ところが、罪を犯した時点で「人」は、「1+1+1+・・・・=複数(個と個の集合体)」という、単純数式に成り下がりました。その結果「人」は、「個対個」という分離関係の中で、他者を何らかの形で支配するという、サタンの仕掛ける「罠(支配の法則)」に陥り、未だもって「互いに仕え合う」関係とは懸け離れた、複雑な人間関係の中で苦しんでいる訳です。ですからヤコブとヨハネ、そしてその母親が願い出た一つの「望み」は、全ての人々が多少なりに持つものです。


生きる「本質」
 このような愚かな私たちに対して、イエス・キリストは「あなたは何を望んでいますか?」と、聖霊を通して問いかけておられます。イエス・キリストが弟子たちに対して、問いかけられたこの言葉は、実はイエス・キリストが常に私たちに対しても、その生きる「本質」を問い質している、重要な問いかけでもあります。イエス・キリストにとって生きる「本質」、つまり生きる「望み」は、父なる神の「杯(望み)」を全て飲み干すことでした。御子イエス・キリストにとって、父の「杯(御心)」を飲むことは、最大の喜びでありましたが、最後の「杯」である「十字架の贖い」は、彼にとって非常につらいものでした。


 二人の弟子ヤコブとヨハネは、イエス・キリストの問いかけの真意を全く理解出来ませんでしたから、「できます」と即答しましたが、父なる神の「杯」を飲み干すこの出来る人間は、御子イエス・キリスト以外に誰もいません!しかしイエス・キリストは「あなた方が本当に望むべきことは、本来の神の国の麗しい関係が、再びあなた方の中に創造されることである!その為にも、今から私は父の杯を飲み干す(完成する)べく、十字架上に行く決意である!それ故あなた方は、私が十字架の死に至るまで忠実に神に仕えた、その生き様を見て、私に付いて従って来なさい!今のあなた方に、それは無理かもしれない。しかし必ず、あなた方の上に聖霊が臨まれる時、皆に仕える者になり、・・・・皆の僕になる(26〜27節)こと、このことをあなた方は、いずれ知るようになるでしょう。」と弟子たちを励まされました。


 私たちには各自、様々な「願い(望み)」があります。しかし、私たちの最大の「望み」は、父なる神の「御心」とイエス・キリストの「愛」を、弟子たちと同じように「恵み」として戴き、父なる神が御子イエス・キリストを、人の下に仕える者として「この世」に遣わされたの同様に、私たちも人々の間にあって生きる中で、互いに仕え合うことです!


「仕える(servant)」という行為は、非常に理解しにくい概念で、私たちには為し難い行為です。原語では、「奴隷」の如き行為を意味します。しかし私たちが、助け主「聖霊様」を求めて祈る時に、「支配の法則」に束縛された、私たちの霊的「病い」が少しずつ癒され、たとえイエス・キリストと同様に、他者から悪口雑言・中傷・そしり等を言われることがあっても、互いに「足」を洗うべく「この世」に遣わされる、聖なる器へと変革されることを、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


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