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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

正しい生き方(No.15)

                             時を裁く弱さ




二人は旅を続け、遂にベツレヘムに着いた。ベツレヘムに着いてみると、町中が二人のことでどよめき、女たちが「ナオミさんではありませんか」と声をかけてくると、ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んで下さい。・・・・」・・・・二人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まる頃であった。
                                                                             【ルツ記1章19~22節】


「時」に対する私たちの弱さ
 私たちは「時」というものを、「これには如何なる意味があるのだろう?」などと、様々に判断し(決め付け)ようとする、人間的「弱さ」があります。しかし覚えて下さい!人の判断する「時」の次元を、遥かに優る「神の時」の次元が、実は私たちを常に守り、かつ導いているのです!


 主なる神は、私たちの「時」に対する、様々な「弱さ」をご存知の上で、前もって神の「ご計画」のみを優先すべく、私たちを「正しい方向」へと取扱って下さいます。即ち、神による「取扱いの時」があることを、私たちは謙虚に受け留めましょう。


 この「取扱いの時」は、はっきり申し上げて「苦しい!」のが殆どです。それは私たちが「過去」、そして「現在」、更には「明日の時」にまで、「時」の意味(理由)を探し求めようとするからです。例えば「明日」は来ていないのに、「明日の風(流れ)」を心配します。「過去」がこうだったから、「明日」も・・・・なるのではないだろうか?等と。


「故郷」に帰還するに当たり
 今回のスト-リ-の特徴、それは遂にナオミとルツが、たった二人になってしまった、一見落ちぶれた「小家族」の行く末は?という展開です。ナオミは「行きは良い良い、帰りは惨め!」という、散々たる思いの中で、故郷に帰還するに当たり躊躇しました。恐らくベツレヘムに帰った理由は、「これから心機一転で頑張るぞ!」という心境ではなく、夫と息子たちの「遺骨」を故郷の地に戻し、自分も隠遁生活を「独りぼっち」で、静かに過ごすためであったと思われます。


 「出発点(ベツレヘム)」に戻る決断をしたナオミの、その「決断」とは如何なるものだったのでしょうか?それは「自分の人生は、もう終わった!後はもう、墓に入るだけ。」という、悲観的な「思い」から出たものではないでしょうか。


 しかしあと一人、つまりルツの「決断」は、ナオミのものとは全く違いました。彼女は「ベツレヘム」を知りません。ただ知っていること、それは亡き夫が、常々語っていた「ベツレヘムは、神の臨在が豊かに溢れていて、家族が幸せに暮らせる素晴らしい所!」、この一点でした。ですからルツにとって、ベツレヘムに行く(モアブの地を去る)ことは、神の「祝福の地」に移り住む!という、信仰から生じる勇気ある決断でした。


 ところで自分の人生において、大変な「失意」のどん底にある時と、逆に全てが成功の「絶頂」にある時とでは、どちらが主なる神の「臨在」を、素直に受け留めることが出来るでしょうか?


 私たちは、自分の描いていた「時」の概念を、例えば「~できていたら、私は多く感謝を捧げられたことでしょう!」などと、都合の良い「方向」に考えます。しかし、自分が描いていない「状況」が起きた時に、ナオミの如くに「私はもう駄目だ。もう終わった!」という、短絡的な「思考」に陥ります。これが「時」を裁く(決め付ける)、私たちの「弱さ」です。


 ナオミは、いよいよ故郷に帰還するに当たり、次のように考えたでしょう。「私一人だけだったら、こっそりと帰れるのに。この嫁(ルツ)が居るから・・・・。しかも異邦人だからね-。絶対、変な噂が立つわね。」などと。そして(悪い意味で)案の定、町中が「ナオミ一族」のことで、どよめき立ちました。


「神の時」が必ず用意される
 ナオミの側では、「人生」の終止符を故郷の地で、(希望も無く)過ごすと決断していたのに対して、主なる神(ルツの信仰も含めて)の側では、驚くべき「出来事(神のご計画)」を、「神の時」として既に用意していたのです。即ち「大麦の刈り入れが始まる頃」というタイミングとして。


 そうです!神が定めた(選んだ、決断した)「時」は、人の次元を超えているのです。当然ルツは、ナオミの故郷の地の飢饉が、どれ程まで回復しているのか否かを知りません。しかし主なる神は、全てをご存知の上で、この時を定めていたのです。


 主なる神は、かつて出エジプトした直後に、マラの地を「憩いの地」へと造り変える奇跡を起こされました。この奇跡話は、イスラエルの人々に「信仰」の教訓として、代々語り継がれていたにも関わらず、ナオミは自分のことを、不信仰から「マラ(不幸な女)」と呼ぶように、地元の婦人たちに要請しました。


 つまりナオミは、自分の人生の全ての時を、「マラ」と決め付けたのです。ところが主なる神は、これを「良し!」とはされません。「ナオミ」と命名した以上は、神の御心が常に「幸(快い)」の状態として、彼女の人生の全ての時に現される!こと、これがナオミの本来の「神の時」です。


 このように「時」を様々に裁く(決め付ける)、私たちの人間的「弱さ」に対して、主なる神はルツの如き「助け手」、即ち聖霊様を私たちにも遣わして下さいます。聖霊様は常に、弱い私たちに働かれます。「主なる神が常に、あなたの人生の全てに渡って、真の光なる方として導いて下さる限り、あなたが昼の時であっても夜の時であっても、あなたの一歩一歩を明確に照らして下さいます。だから(前進することを)恐れる必要はありません!」と。


 覚えて戴きたいことは、太陽は「光」を自分で遮断している訳ではありません。一時「暗雲」が立ち込めたとしても、それは「雲」が出てきて、遮断されただけに過ぎません。太陽は常に「雲」の上空から、燦燦と光を照らし続けて、いずれ「その時」には、その「暗雲」の全てを一掃する程の、素晴らしい「光」として、再び出現するのです!


 同様に主なる神が、私たちの「人生」の全てを、責任ある方として始められた以上、必ず完成して下さることを信じ続ける、これがルツの働きです。いよいよ大収穫の時に至りて、ルツは信仰の一歩を開始することになります。


 一瞬「不幸」と思えるようなことが、自分の人生に起きたとしても、自らの判断で「時」を、マラと決め付けないで下さい!その時には、ルツの如くに「主よ!あなたの栄光の時が、遂にこの私にもたらされる、その時が来たと信じます!」と、聖霊様の「助け」を戴きながら、信仰をもって告白できますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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