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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.38)

                         言葉の法則の対立




何が原因で、あなた方の間に戦いや争いが起こるのですか。あなた方自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなた方は、欲しても得られず、人を殺します。又熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからです。願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人は誰でも、神の敵になるのです。・・・・だから神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいて下さいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへり下りなさい。そうすれば、主があなた方を高めて下さいます。
                                                                             【ヤコブ書4章1~10節】


対立し合うもの
 アダムとエバに与えられていた本来の「霊の言葉」は、神の「御心」のみに従うことを求める言葉でした。つまり彼らの語る言葉には、常に神の「命」の中に在ることを強く願う「意志」と、それに伴う「行動」が実際に現れていました。彼らは、「生きる目的」から「語る言葉」に至るまで、全てが神と直結する「正しい方向性」をもって、この「霊の言葉」を使用しました。このように、彼らの内側から流れ出てくる言葉全てが、「良きもの」に満ち溢れていました。何故なら、神が与えて下さるものが、全て「良きもの」である以上、彼らの「霊」の内側から生じる「言葉」や「行動」も、神の「命」に直結することだけを、純粋に求めた(欲した)からです。


 しかし、サタンのもたらす「古い言葉」は、全てサタンの「意志」を現す言葉です。サタンの「意志」とは、彼が父なる神に反抗した時に見られる、彼の「欲望」から生まれ出たものであることを覚えて下さい。サタンはかつて天上にて、「暁の明星」という名前(称号)を与えられ、聖なる礼拝を司る重要な働き(ポジション)を任じられていたにも関わらず、「今よりも、更に高きポジションに就きたい!」などと欲する、自己中心的な「意志(願い)」と「欲望」から、遂に父なる神に反逆しました。


 サタンの反逆は、神と同じ位置に立つことを願うことに留まらず、神よりも高きポジションから神を見下したい!などと思う、「悪しき願望(動機)」から生じています。それ故、彼は常に高きポジションを目指す中で、いつしか永遠の「至高者」父なる神に対して、「妬み」を抱くようになりました。


 このようにサタンの「意志」が、実際上の「言葉」と「行動」となって現れたことが、神への反逆(反乱)だったのです。このサタンの「意志」の流れが、アダムとエバに続く私たちにも、霊的に脈々と受け継がれているのです。サタンの「意志」が、私たち「人」の「霊」の中に流れ込んだ結果、どうなったのでしょうか?この点について考察して参りますが、それと同時に私たちは、サタンの「意志」によってもたらされた、このような「悪しき状態」に陥ったからと言って、全く希望が無くなった訳ではありません!父なる神は罪人の私たちに、必ず聖霊の「助け」をもって、霊的に軌道修正して下さり、遂には「回復の時」を用意して下さることを、信じようではありませんか!


何が原因で、あなた方の間に戦いや争いが起こるのですか。あなた方自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなた方は、欲しても得られず、人を殺します。又熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからです。」(1~3節)


 ヤコブはこの御言葉から、私たちの「霊」の中で戦い続ける存在があり、そのことが如何なる原因によって生じているかなど、詳しく説明しています。つまり彼は、私たちの「霊」或いは「心」の中で、常に「対立」状態が生じるなど、その根本原因を霊的に分析しています。え!?私たちの「霊」の中で、常に「何か」と「何か」が対立し合っているのですか?私たちは、この事実をご存知でしょうか?


 勿論、私たちの「心」には「良心」という機能があり、いわゆる「善き心」と「悪しき心」が、まるで言い争っているかのように、対立し合っていることは知っています。しかし、この「良心」を基準にした人間の哲学的思想では、何の解決法も見出すことができません。たとえ「良心」の中にある、「善なる思い」を優先したところで、限界があることも私たちは知っています。「善なる行動」が、不純な動機から為されている場合、例えば「善き事を為すことで、人々から認めてもらおう!」、或いは「人々に称賛されることを求めよう!」などと欲するのであれば、私たちはたとえこれらの行動が、善き結果を生んだとしても、「善き思い(動機)」から為されているとは、到底把握しかねます。


分離した状態
私は、自分のしていることが分りません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めている訳になります。そして、そういうことを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善を為そうという意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、私が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。それで、善を為そうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気付きます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則の虜にしているのが分ります。
                                                                      【ローマ書7章15~23節】


 ここで、パウロは明確に記述しています。私たちの内なる「霊」には、二つの対立する概念(法則)があるのだ!と。即ち、私たちの「霊」の中には、神の求める「善」を為そうとする「意志」と、それに反抗して「自分の願い」を完成しようとするなど、内なる「意志」の現れ(欲望)が対立し合っています。自分の願う「意志」の現れを「善」と見なすことで、あたかも「善きこと」を為そうと意識しながら、行動している時が多々ありませんか?パウロが記述した「善を為そうという意志」、この「善」とは何のことでしょうか?これは神の「御心」を現すべく、神の「命」に連結することであり、又神の「命」を流して下さる、聖霊様の「ご命令(意志)」の中に生きることが、「善」に他なりません。


 しかし、「自分の願い(意志)」を優先させようとする「思い(欲望)」は、サタンが創造主に反逆した時に抱いた「欲望」と同じように、全てのことを「自己中心」的に思考し、又実際に行動していくことです。例えば、私たちは時々「自分で、何もかもやってみないと、気が済まない!」などの思いがありませんか?このような自己中心的「思い」にある限り、自分のポジションを他者に明け渡すことができません。


 又、「他者よりも優位な地位(身分、学歴など)に就きたい!」などの思い、これは誰の心にもある「願望」です。特に大人の男性集団社会(企業)には、この種の「誘惑」と「競争」が付きものです。そしてこの「思い」は、続いて「他者よりも目立つ存在になりたい!」などの「思い(欲望)」へと変貌します。このような「思い」は、全て「自己中心(エゴイズム)」から生じる、三次元レベルの「意志」の現れ(言葉)です。このようにサタンの「意志」は、「古い言葉」の母体を成すものであり、この「古い言葉」から出て来るもの全てが、「自己中心」という「罪」の種を撒き散らして行くのです。


 この「自己中心」という「意志」の現れは、私たちの中に「生まれつき備わったもの」であると錯覚していますが、実は「罪の法則」により発生したものであることを、私たちは知らなければなりません。「人」が創造された時点で、「罪の法則」はアダムとエバの中に、全く存在しませんでした。彼らは、常に父なる神を求め、その御前に「座したい!」、「共に交わりたい!」、その中に「包まれ(覆われ)たい!」、その御顔を「いつも見ていないと気が済まない!」などと欲する、「聖なる思い(欲)」に満たされていました。


 余談になりますが、私たちの人間関係において、いつもこのような「聖なる思い」を、「自分の願い」以上に優先させることができたら、どんなに素晴らしいことが起きるでしょうか!例えば「夫婦」の在り方、「親子」の在り方、「兄弟」の在り方、「家族」の在り方、最終的には「社会」の在り方に至るまで、麗しい「神の国」の現れが、次々と起こされるのではないでしょうか!まさしく、イエス・キリストを中心とする「社会的大変革」の現れが、必ず起こされるものと確信します。


 夫が妻の「思い(願い)」を、常に優先しているのであれば、いつも妻の顔を見つめながら、妻の思いは何であろうか?などと、自分の「思い」の全てを妻に向けられます。又、夫の願いや考えていること、そして夫が社会(外)の中で被るストレスなどを、夫の顔を常に見つめながら、気にかけている(優先している)のであれば、夫が今如何なる状態にあるかを察知し、適切な言葉をかけるなどして、すぐに対処できるのではないでしょうか。しかし、相手のことを互いに優先し合う関係が無くなって行きますと、その関係の中に「不和」という分離状態が生まれます。


 このように、「善」を為そうとする「意志」と、それに反抗して「自分の願い(欲望)」を優先的に、完成しようとする「意志」の働きが存在する故に、実はパウロが記述しているような、「五体」と内なる「霊(心)」が、分離した状態に陥るのです。私たちの「五体」と「霊」が、果して「一体化」した状態で動いている!と言い切れる者がいるでしょうか?聖霊による、「大変革」の恵み(成長)を受けたパウロでさえ、「私は完成に至っている訳ではない。聖めの恵みにあずかってはいるが、自分の五体は今も『罪の法則』の支配下に縛られ、悪しき思いに捕らわれるなど、依然としてそのような霊的闘いが、私の霊の中で続いているのだ!」と赤裸々に告白しています。


 しかし、罪を犯す以前のアダム(エバ)は、「霊」が「五体」を完全に支配していました。「本来の人」は、「霊」が「五体」を支配していたのですが、サタンによってもたらされた「罪の法則」が、人の「霊」そのものを蝕み、正しく機能しない状態に破壊し尽くした結果、逆に「五体」が「霊」を支配することになったのです。


 私たちの「霊」は、父なる神と常に親しく交わり合いたく、真の礼拝者として「至聖所」に入ることを欲するのですが、「五体」自体は日常生活における、様々な人間的な行事や習慣に追われるなどして、「この世」の方向に(優先して)動いてしまう時が殆どです。この時、善なる「意志」と「自己中心」的な願いが、私たちの「霊」の中で格闘しているのですが、実際に「五体」が動き始めた瞬間に、この闘いの敗者が善なる「意志」であることに、私たちは気付いていません。そしてその度に、善なる「意志」の発信源である「霊」は疲れ果て、霊的にうめき苦しんでいます。これが「分離した状態」を現しています。


一体化されるには?
 では、どうしたらよいのでしょうか?今のこの「分離した状態」から、聖霊を通して「霊」と「五体」が、完全に一体化されることによって、霊的機能が本来の「正しい方向」に動き始め、罪を犯す以前のアダム(エバ)の状態、つまり「本来の人」へと変革されるべく、ヤコブは「霊的指針」を述べています。


 彼は前提として、私たちが善なる「意志」を求めることよりも、自分の「願い」や「行動」を基準として、「自己中心」的に歩んでいくことが、「世の友」になることである!と警告します。私たちは「世的なこと」を、即悪しき道に歩むこと、汚らわしい行為などと把握しがちですが、神の「御心」から離れ「この世」に近づくこと、又神の「意志」を求めるのではなく、「自己中心」的に歩むことを欲する生き方を、「世的なこと」と言います。つまり、サタンの「意志」に沿うことが、「世の友」につながるのです。そして結果的に、このことが「神の敵」になることを、私たちは霊的に知りません。それ故、自分の「肉の力」を頼みとして先走りするのです。


 しかしヤコブは、「知りなさい!世的なことは全て罪である!」と警告します。自分の「手の業」を優先していくことは、全て「罪」に相当します。父なる神が、「安息日」にご自分の「手の業」を完全に休められたように、私たち自身も自分の「手の業」、即ち「肉の努力」を放棄すべきです。私たちは父なる神から、「放棄しなさい!」と命じられたからと言って、何も為し得なくなる訳ではありません。神の「御心」を優先した後に、必ず自分の「言葉」や「行動」の全てに至るまで、神の「御心」に沿った「正しい道」を歩むことのできる、「上」からの「力」と「助け」を与えて下さいます。そうすれば、私たちの「肉の力」ではなく、「聖霊の力」によって完全に支配された、霊的に「安全な歩み」が確立されていくのです。


 例えば目の前にある、部屋の状態が整然としていない場合に、私たちはすぐ反応して片付けようとするなど、「肉の努力」をしがちです。しかし聖霊様は言われます。「では、あなたの中にある霊そのものが、整然としていないことに気付いていますか?そして気付いていたとしても、そのことを心から憂い、かつ嘆いていますか?」私たちは霊的に葛藤することがあっても、「真の悔い改め」の涙を伴うほどの、霊的な「悲しみ」を覚えることは殆どありません!


 あなたは、聖霊様が最も悲しんでおられることに、気付いていらっしゃいますか?あなたが「世の友」になること、それが聖霊様にとって「最大の悲しみ」になるのです。即ち、あなたの「霊」の中にある「至聖所」において、花婿イエス・キリストの存在を忘れるほど、自分の「手の業」に熱心になっている時が、実は「霊的とりなし」の働きを為される聖霊様が、非常に激しい「焦り」と「悲しみ」をもって、霊的にうめいて(嘆いて)おられることに、私たちは気付かなければなりません。


 私たちは聖霊様が、そのような霊的「悲しみ」の中にあるとは露知らず、自分の「肉の力」で様々な歩みを確立しようとします。「聖霊様、私が困った時だけ助けて下さい!」などの思いが、私たちの信仰生活にありませんか?私たちは、全ての物事が順調に進んで(成功して)いる時、聖霊がか細い「御声」で、次のように語られていることに気付きません!「あなたは、イエス・キリストのことを忘れつつある!だから私は悲しい・・・・。私の悲しむ泣き声も、あなたは聞こえていないでしょう!」と。


 え!聖霊様が泣くんですって?聖霊様はいつも、力強い「御声」をもって励ます方ではないのですか?勿論、聖霊様は「助け主」として働かれていますが、私たちのために霊的にとりなす場合の殆どが、実は言い難き「うめき」と、霊的「悲しみ」の御声を発せられていることを、私たちは知り(聞き)ません。しかし、私たちが聖霊様の「悲しみ」に気付き、言い難き「うめき」を伴うか細い「御声」を、敏感にキャッチできるようになったら、私たちは必ず霊的に変革されます。


 ヤコブは常に、聖霊の「悲しみ」の御声に敏感でした。彼は、私たちが理解する次元とは逆の表現で、「霊的指針」を記述しています。「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。」(9節)この記述は、私たちの三次元的思考では理解し難い表現です。「真のキリスト者とは、悲しみから笑いに、苦しみから喜びへと解放された者のことではないでしょうか?」などと思うのが普通です。


 しかし聖霊様は、ヤコブを通して明確に語られます。「騙されてはなりません!あなた方が世の友になっているのか、それとも神の友になっているのか、そのことをを気付かない状態にしていること、これがサタンの働きです!今、あなたの中で起きている霊的対立さえも、分らない状態に陥っているとしたら、それこそが危険なことです。このことに、先ず気付きなさい!」


 私たちは自分の「肉の力」で、善なる「意志」を完成しようとする「思い(考え)」を、決して持つべきではありません。又、聖霊様の「助け」が無ければ、キリストと霊的に結ばれる生活はありません。聖霊様は、私たちのこの霊的な分離状態に対して、イエス・キリストとの「一体化」、つまり霊的に「正しい方向」へと軌道修正するべく、常に言い難き「うめき」をもって、とりなして下さいます!


 私たちに対する、このような聖霊様の「ご意志」は、常に私たちがイエス・キリストと、完全に「一体化」することを望んで(欲して)おられることです。つまり、「霊的仲介者」聖霊様が望まれることは、私たち「キリストの花嫁」が常に、「花婿イエス・キリスト」と完全に一体化(結合)することです。私たちの「霊」の中には、イエス・キリストと一体化されていない、つまり分離した状態を造る、「世の友」が多く存在します。


 ですから、ヤコブは以上のことを踏まえた上で、「先ず神に従いなさい!」と勧告するのです。神の「命の言葉」、即ち神の「御心」を求めることが、神に従うことにつながります。しかし、私たちは神に従うことを、神の「掟(律法)」全てを守り行った、「金持ちの青年」に見習うべきではありません!彼は自分の「意志」を優先しながら、神の「掟」を文言通りに、守り行っただけです!神との「親しい交わり」を持とうとする、その「聖なる思い」を優先させていくこと、これが神の「御心」を求める上での、重要なポイントです。


 アダムとエバが常に求めていたものは、神との親密な「言葉」による「交わり」でした。例えば、お父さんの帰りを待つ子供たちにとって、父親が仕事から帰宅する直前、何を期待しているのでしょうか?「お父さんが帰ってきたよ!おもちゃ(お土産)買ってきてくれたかも知れない・・・・楽しみだね!」などと、わくわくしながら玄関先で待ち続ける子供もいるでしょう。しかし、殆どの子供たちが期待する思い(意志)は、何よりも「大好きなお父さんの顔が見たい!」ことです。このように、「顔」を見ることを先ず第一に求めていくことが、「親しい交わり」の出発点であり、何よりも父なる神の「御顔」を慕い求めることが、神の「御心」に従うことです。ですから私たちは、「霊の言葉」による神との交わりを、更に求めましょう。


神中心の生き方
神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいて下さいます。」(8節)


 私たちが「世の友(サタンの友)」になること、これは裏返せば私たちが、父なる神から益々遠ざかることを覚えて下さい!「え!?私たちがサタンの友になることは、絶対ありませんよ!」などと言い切ることができますか?サタンが、私たちに対して求める次元は、「自己中心」的に生きようとするなど、自分の「意志(願い)」を常に優先させていくことです。「あなたの中には、優れた賜物があります。あなた自身の確信からその賜物を用いて、あなたのミニストリーを推し進めて行きなさい!」などの「願い(意志)」を起こさせるのは、はっきり申し上げて聖霊ではなく悪霊です!悪魔サタンの惑わしのパターンは、「あなた自身の力によって、何事も為すことができる!」などの、「自己中心」的な願いを起こさせるものです。


 補足事項としてヤコブは、「罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへり下りなさい。」(8~10節)と勧告していますが、これは、ある面でパウロが指摘する、私たちの「五体」と「霊」が、未だに分離状態にあることを説明しています。私たちは、このような状態に気付いていませんが、聖霊様は警告します。「あなたは、依然として分離状態にあります。あなたはこのような状態から、完全に五体と霊が結合するなど、正常な状態に回復することを望んでいますか?」と。


 この時私たちは、「いいえ、私はこのままでよいのです!聖霊様、私が失敗した時にだけ助けて下さい。私が落ち込んだ時に励まして下さい!」などと答えるでしょうか?これは、聖霊様に対する「全面的降伏(従順)」ではなく、限定的な「条件付降伏」を表明しています。「私が・・・・した時だけ、聖霊様働いて下さい!」などの祈り(願い)をしたところで、聖霊様は決して働かれることはありません!聖霊様が私たちに望まれる「従順さ」とは、「私は何も為し得ません!両手を挙げます!」などと表明する、悔いた砕かれた態度(姿勢)です。


 又パウロは、私たちの「五体」と「霊」が分離した状態に対して、常に危機意識をもって、「一体化(結合)」されることを真剣に祈り求めるべきであり、私たちの「五体」と「霊」のバランス関係を、真剣に見張り(監視)続けることの必要性も指摘します。私たちが監視した時に、仮に「五体」と「霊」が分離して、父なる神の「御心」から離れている、つまり「世の友」になっていることを発見した場合には、ヤコブは「手を清めなさい。」と命じています。


 「手を清める」とは、「自己中心」で為そうとする手の業を、全面的にストップすることです。「心の定まらない者たち、心を清めなさい。」とは、私たちの「心」の欲することが、神の「御心」の方向だけを、優先的に求めるよう神に願い出ることです。私たちの「五体」と「霊」が分離した状態、つまり「自己中心」的に全ての物事を為すなど、「心」が悪しき状態に陥っているとしたら、「自己中心」から「神中心」に思い(態度)を優先させるべく、霊的に軌道修正して下さる方が聖霊様です。


 聖霊様が働かれる時には、如何に自分の中に「神中心」ではなく、「自己中心」で物事を為している部分が、多く存在しているかを必ず知らしめ、そのことに対して「霊」の奥底から「悲しみ」、「嘆き」、「泣く」ように促して下さいます。そして「その時」、私たちは「聖霊様!私の霊は、何と悪しき状態にあることでしょうか!本当は、私の霊は父なる神の御心を求めているのですが、私の五体がそれを拒絶します。この五体を見て下さい。私の霊は望んでいるにも関わらず、五体を虜にする罪の法則が、私を完全に束縛している故、私は霊の欲することを何も為し得ません!だから聖霊様、私は悲しいのです。嘆いているのです。言い難き状態、動き難き状態、もがき苦しんでいる状態にあります。どうぞ聖霊様、私のこの悲しみに応えて下さい。あなたの御声が、はっきり聞こえるようにして下さい。あなたの悲しんでおられる、その御声にも・・・・。」などと、真剣に悔いた砕かれた「祈り」を告白すべきです。


 私たちの「霊」の奥底から、霊的にへり下った「悔い改め」の祈りが為される時に初めて、聖霊様の「悲しみ」の御声を聞くことが可能になります。すると聖霊様が、「我が友よ!あなたは、ようやく帰ってきました。今!私とあなたは、同じ状態になりましたね。あなたは遂に、私の涙を理解できるようになりました。私の涙は、あなたが花婿イエス・キリストと、再び完全に結び合わせられることを願うものです。今までのあなたは、花婿と別居状態にありました。あなたの霊の宮に、イエス様は存在していませんでした。イエス様は、何度も何度もノックして下さっていたのに、あなたは(霊の中心に)自己中心(エゴ)という偶像を、大事に保管していました。私は、それが悲しかったのです。しかし今、あなたの涙は本当にイエス・キリストを求める、愛の涙に変りました。私はそれが嬉しいのです!だから共に泣いています。あなたに真の喜びをもたらそうと、主イエス・キリストは間もなく来られます。あなたは花婿の近づく足音を、必ず聞くようになるでしょう!」と優しく語って下さり、又あなたの全てを、聖霊の「聖さ」で覆って下さいます。


 私たちは「この世」に生きている以上、時々「五体」と「霊」が分離することもあるでしょう。このような不完全な状態にある、私たちの「五体」と「霊」が完成されるのは、父なる神の御元に迎え入れられる時でしょうが、私たちが「完全なフォーム」を求めようとする、その「聖なる思い(意志)」を起こして下さる方は、聖霊様だけであることを、再度覚えようではありませんか!


「いと高き所」とは
主の前にへり下りなさい。そうすれば、主があなた方を高めて下さいます。」(10節)


 悪魔サタンの「言葉の法則」は、大抵次のようなものです。「私の友になりなさい!そうすれば、私があなたを高めて上げよう!」など、この種の「誘惑」の言葉が、常に私たちの「霊」の中に、「甘い言葉」として流れ込んで来ることを、私たちは果して知っているでしょうか?私たちは「高き地位」を求めようとする傾向にあり、「高めて下さる」という御言葉をとっても、私たちはある種の誘惑を覚えます。例えば「私も神の前にへり下れば、必ずあのようなリバイバル(大収穫)の働きの、有用な担い手になるんですね・・・・。」などの「思い(野心)」はありませんか?つまり、「高めて下さる」という御言葉から、「大いなる有用な働き」のポジション(地位)に就くことを、簡単に描こうとするなど「悪しき誘惑」が生じるのです。


 しかし、聖霊様が私たちに望まれる「高さ」とは、人間的な「地位」としての高さのことを言っているのではなく、霊的な「高さ」を指し示すもの、つまり「聖なる高台を目指しなさい!」と命じられる、霊的次元の「高さ」のことです。ダビデは、「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。」(詩篇42・1)と告白しつつ、主なる神を賛美しました。彼は、主なる神に対する霊的飢え渇きを、「鹿」の行動(習性)に見習いつつ、主の臨在をこよなく追い求めました。


 鹿は冬の時期、涸れてしまったかのように見える谷にあって、ひたすら「高き水源」を目指して前進します。人間的に考えるならば、水が一年中存在する場所は、「川」の下流ではないかと推測します。しかし鹿は、より安全な「高き谷」にあって生きる以上、「下」に降ることは天敵の存在する場所に行くことであり、この冬の時期は決して谷川において、「水」が流れていないことも知っています。それ故、高き「水源」に行けば、「水」が少しではありますが、地下に必ず流れていることを、彼らは知っています。たとえ目の前に「泉」が存在しなくても、自分の立つ巨大な岩下からは、水の流れる「地下水の音」が聞こえます。


 ですから、彼らは「水源」を目指して「高きところ」を登って行くのです。そしてある地点に辿り着くと、砂利と小さな岩石の混じった土のある部分を、彼らは足を使って突き始めます。すると20~30㎝掘り進めている内に、下の方から「水」が湧き出て、小さな「溜まり水(泉)」が出来上がると、彼らは遂に念願の「水」を飲むことができるのです。


 以上のように、私たちの「霊」から何一つ「良きもの」が生じないほど、干からび切った状態に陥ったとしても、霊的な「下流」へ降って行き、「世の友」になることを求めるなど、「悪しき方向」に歩むべきではありません。聖霊様が約束して下さる「高き所」とは、至高者なる神が臨在される「至聖所」、つまりいと高き「聖なる場」であり、聖霊様は「神の友」になることを求める者を、必ず霊的に「高めて」下さいます。そして「至聖所」という、神との「親しい交わり」の場が、より高き天的レベルにまで引き上げられるよう、聖霊様は私たちに励まして下さっています。「父なる神に、もっと更に近づくように!」と。


 そのためには、私たちが神の御前に座し、常に「へり下る」ことが求められます。「新しい言葉」、即ち「異言」を求める理由がここにあります。私たちが、更に主ご自身に「近づきたい!」と欲する、「聖なる思い(意志)」が「異言」となって現れ出た時に、父なる神は聖霊を「仲介者(とりなし手)」として遣わして下さり、私たちの「霊」を霊的な高台、即ち「至聖所」へと召し出し、私たちを「完全なフォーム」へと、最終的に造り変えるのです。


祈り
 主よ!私は世の友と成りがちな、悪しき所が多くありますが、私の霊はあなたと交わること、あなたと共にいることを常に願っています。
 どうぞ主よ!全ての罪から、悪しき状態から、私を解き放って下さり、自己中心の罪から完全に贖って下さいますように!
 イェス様!常にあなたの御心を求めて、あなたの御前に膝まずく者に造り変えて下さい。
 どのような状態の中にあっても、主よ!あなたと過ごす時間を、聖霊様が備えて下さいますように!
 又私の意志が、常にあなたの御心のみを、求めることができるよう祝福して下さい。
あなたと親しく交わり、常に一体化されることを求めるよう、主イエス・キリストの貴い、十字架の聖なる血潮によって、私を洗い聖めて下さい!
 聖くなければ、あなたを見ることができません。どうぞ聖め続けて下さい!主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!

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