バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

正しい生き方(No.5)

                           シケムの祭壇




主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこ(シケム)に祭壇を築いた。
                                                                             【創世記12章7節】


アブラハムの生き方
 「信仰の父」と呼ばれる、アブラハムの生き方は、如何なるものであったのか?この点について、私たちは霊的に学ぶ必要があります。ご存知のように、彼が「アブラム」と名乗っていた頃は、霊的に失敗だらけ生き方でした。しかし主なる神は、あえて彼の如き「見栄えのしない器」を選び、神の「貴い器」として仕上げて下さいました。


 そのような彼の「生き方」を、私たちが霊的に学ぶ時、主なる神が私たちに対しても、常にご自身の「臨在」を現して、正しい「道筋」と、正しい「導き」を、聖霊様を通して示して下さることを、私たちは知ることが出来ます。


 「シケム」とは、主なる神がアブラハムに示した、特別な選びのフィ-ルドです。つまりアブラハムが、主なる神と直接、「顔」と「顔」を合わせて、親しく交わった(会話した)場所、それがシケムです!と言うことは、実体無きおぼろげな(幽霊の如き存在)形ではなく、目も口も鼻もある、つまり明らかに麗しき高貴な「お方」として、彼と親しく会話した存在、それがシケムの神でした。ですからイスラエルの人々にとって、今でも「シケム」は、信仰の原点とも言える場所です。


「ホンモノ(真の主)」を追い求めて
 ところで、アブラハムという人物は、如何なる素性の人物だったのでしょうか?恐らく彼は幼少の頃より、地元にある数々の農耕の神々が、「何だか可笑しい!」、即ちものも言えない、只の「偶像(人の手で造ったもの)」という意識を持っていたが故に、神の「真の姿(ホンモノ)」を、追い求めていたのではないかと推測します。


 彼の飢え渇きの第一の特徴は、「本物」を直接見て、「本物」に触れることで、真の「創造主」、即ち自分の「造り主」の存在を渇望していました。第二に彼は、「居る(存在する)のであれば、この私に対して(何か一言)語って下さい!」と、会話の出来る神を渇望しました。第三に彼は、自分の人生の「本当の目的」を知るべく、導き主なる神を渇望しました。


 激しく飢え渇き求める彼に対して、主なる神が「ある時」、直接語りかけて下さった言葉が、今回に至る御言葉です。「父母の家を離れなさい!」(12章1~2節)と。すると出所も分からぬ、ただの声に対して、彼は驚愕しました。初めて聞いたからです。しかし彼は、その「御声」に聞き従って、即座に旅支度を始めます。


 すると早速、父親のテラが問い質しました。「お-息子よ!気でも狂ったのか?」と。彼は落ち着き払って父に応えます。「親父殿!私は気がふれた訳ではない。実は神の御声を直に聞いたのだ!その御声に従っているに過ぎない。」と。息子の言葉を、全く信じようともしない父は、更にたたみかけます。「馬鹿なことを言うな!私たちが信じる神々が、直接語りかけるなんて、今まで聞いたことが無い!」と。


 父親の矛盾に満ちた返答を聞いて、苦笑いしながらアブラハムは、自分が渇望していたもの(本物)を得れば、この世の「しがらみ(まとわりつく偽りのもの)」の、一切を捨て去ることが出来ることを知ります。それ故に父母の家、即ち「世」から出立できたのです。捨てたことで得るもの、それが7節に記されています。それは彼が渇望していた次元を超えるもの、彼の人生最大の出来事でした。


 その出来事とは、主なる神が直々に彼と会い、膝と膝を突き合わせ、また顔と顔を合せて、親しく交わり(会話)の時を持ったことです。その時に語った神の言葉は、「あなたの人生の目的は・・・・」という、彼が一番に尋ね求めていた、人生の具体的「目的地(ゴ-ル)」でした。


 続いて「あなたは、今日この私と会ったことを、人生最大の宝とし、決して忘れることが無いように。あなたの子孫の全てに、この出来事が伝わるよう、代々語り継いで行きなさい。私主なる神を、常に追い求めることを、あなたの人生の目標としなさい。そうすれば、あなたは如何なる敵からも守られ、私の約束(契約)が違えること無く、必ず成就する!」と告げられた瞬間、アブラハムは「本物(真理)」得たのです。


「シケム」の祭壇
 この神との出会いの場、それが「シケム」です。即ち主なる神は、激しく飢え渇き求める者に対して、必ず臨在を現して下さる!ことを意味するフィ-ルド、それがシケムです。自分にとって、無くてはならぬ存在(お方)が、まさに目の前に居て、なお親しく語りかけて下さるなど、アブラハムにとってシケムは、最高の出会いの場(結婚式場の如き、聖なる思い出の場)になります。しかもその経験は、一度限りのものではなく、その後何度に渡って、彼の人生に臨むものでした。


 人が、他者との親しい「交わり(会話)」が無いと、生きて行けないのと同様に、真の創造主と直に交わるべく、激しく飢え渇き求める者に対し、私たちの創造主なる神は、必ず臨在をお示しになり、「御心」を示して下さいます!それが霊的な「シケム」です。さて、あなたは自分の人生に、この霊的「シケム」の到来を、激しく求めていますか?


 アブラハムが生涯追い求めたもの、それは真の主なる神との出会いを渇望して、絶えず霊的な「シケム」を探し続けたことです!そして、それは成就しました。その結果、彼は「シケム」において、人生最大の「出来事」を記念として、祭壇を築いて礼拝を捧げました。


 あなたは、自分の歩む「人生」の道先に、何を求めて進んでいますか?しかし何かを求めて歩む以前に、私たちが第一に為すべきこと、それは神の御前に「座す!」ことです。この「座す」ことこそ、祭壇を築いて礼拝を捧げることです。私たちは、あたかも自分の力で、前進しているものと錯覚していますが、神の御力が臨むことで、神ご自身が「先ずは、あなたと親しく交わりたい!」と、直にお会いして下さっていることに、中々気付いていません。


 そのことに気付く唯一の方法、それが「座す(前進するのを止めて、静かに跪く)」ことです。そうです!私たちは、ある一定時間を捧げて(割いて)、先ずは神の御前に座しながら、「私はこれから、如何なる歩みを為すべきか?」等を、創造主なる神に対して、真剣に祈り求めることが肝心です。


 そうすれば主なる神は、必要な「道のり」を示して下さり、折にかなった「御守り(助け)」をもって、あなたの「人生」の全てに渡る、神の素晴らしい祝福を、必ず与えて下さいます。ですから、私たちはアブラハム同様に、常に「シケム」を求めて行きましょう。


 主なる神が、求め渇くあなたに必ず臨んで下さり、聖霊様の働きを通して、親しき言葉を語りかけて下さることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する