信仰の完成(No.36)・・・・最終回
継続は力なり
又その頃、ユダの人々がアシュドド人やアンモン人やモアブ人の女と結婚していることが、私に分かった。私は彼らを責め、・・・・「・・・・イスラエルの王ソロモンすら、・・・・異民族の妻たちによって罪に引き込まれてしまった。・・・・」・・・・私の神よ、祭司職を汚し、祭司とレビ人の契約を汚した者のことを覚えていて下さい。私は全ての異民族から彼らを清め、祭司とレビ人に守るべき務めを定め、それぞれその任務に就かせました。また定められた時、薪を奉納し初物を捧げるように定めました。私の神よ、私を御心に留め、お恵み下さい。
【ネヘミヤ記13章23~31節】
「ネヘミヤ記」は継続している!
私たちの信仰の「再生」、即ち神に再び召し出され、聖められていく中で、偉大なる神の神殿が、私たちの「霊」の只中に確立されるには、神の「ご計画」のみを求め、私たちが徹底的に砕かれた、神の「聖い器」へと造り変えられる必要があります。
それ程に、私たちの周りには霊的戦い、とりわけ「世(世俗)」との戦いがあるのです。私たちが「世」に妥協したり、「世」のぬるま湯に浸ったりしますと、それこそがサタンの好む、「汚れた器」に陥るからです。
さて今回の記事で、「ネヘミヤ記」は終了する訳ですが、何となく「完結」とは懸け離れた内容、つまり「未だ続きがあるのでは?」と思わせる、そんな未完成の記録になっています。
具体的には、かつて北王国に居住していた、イスラエルの民の改革は、神の御心通り順調に為されたのですが、何と南王国のユダの民が、未だに「汚れた状態」にあることを知ったネヘミヤは、今回の記事で怒り顕にして、大改革を断行しています。しかもその「大改革」は、かなり継続しなければならない程であることも、記事から伺い知ることができます。
実は、私たちの信仰生活の中にも、ユダの民同様の霊的「驕り」があります。例えば「このことに関しては、既に神により聖められて、良き働きをしている。だから私は大丈夫!」などの自負心。これがユダ的な驕りの一例です。
しかし聖霊様の視点は、その人の「霊」の只中に一番肝心要(かなめ)のもの、つまり「神の宮(神殿)」が、常に打ち建てられ続けているか否か?という点を重要視されます。今回の霊的キ-ワ-ド、それは「継続」です。何故なら霊的改革が完成する時、それは私たちが御国に凱旋した時であり、それまでは「改革(聖別)され続ける!」ことが、私たちの重要な務めだからです!
そうです!私たちが「この世」において、生かされている真の理由、それは私たちの「霊」の只中に、「神の宮」が常に打ち建てられるべく、私たち自らも霊的建材として、常に建設され続ける姿勢が重要となります。つまり、「この世」における完成の時は無い訳ですから、悪しきもの(狐、ハイエナなど)が侵入することが無きよう、私たちは絶えず「霊」を見張るべきです。
聖霊様は、常に私たちに警告します。「身を慎んでいなさい!悪しきものは必ず、吠え猛る獅子の如くにとは限らない。柔和な羊の毛皮をまとった、賢い狼の如くに近づき、あなたの霊の只中に、いつの間にか住み続けるから・・・・」と。
「継続」こそ全ての力に至る道
ネヘミヤのユダに対する怒りの言葉の中の、「イスラエルの王ソロモンすら・・・・」という表現が、事の問題の重要性を教え示しています。ご存知のようにソロモン王は、神によって選ばれた人物の中で、「最高の器」です。ところがその彼ですら、一つの「弱点(侵入口)」があった訳です。その侵入口から、悪しきものは盛んに入り込み、悪しき種(罪の汚れ)を蒔き続け、やがては雑草の如くに茂り、霊のフィ-ルドを覆い尽くすのです。
私たちの「霊」は本来、「この世」と相容れない程の、聖なる次元に覆われることを欲している訳ですが、私たちが徹底的に聖別され続ける、つまり①身を聖めて、②聖なる領域に留まり続け、③神の御心のみを求め続けること、これは並大抵の努力では為し得ません。
しかし私たちが霊的に謙虚になり、神の御前に自分が「弱い器」であり、「この世」と妥協し易い者であるか等、素直に表明し続けて祈り続ける限り、私たちの「霊」は常に、聖霊様の「守り」の中にあります!
そうです!全ての鍵が「継続する!」ことにあります。私たちは何故、この「継続する!」ことが、中々出来ないのでしょうか?その原因の殆どが、霊的な「甘さ」にあります。例えば「主なる神は、これぐらいのことだったら、多分赦して下さるだろう・・・・」等の発想(思い)の根源は、アダム(エバ)の犯した「罪」から来ています。
しかし、もしそれ(その甘い考え方)が、「死」と隣り合わせであると考えるならば、「明日(一寸先)は、どうなるか分からないから、今のこの瞬間を、一生懸命に走り(動き、生き)続けるのみ!」という、徹底した継続力が、次々と生じてくるのではないでしょうか!
覚えて戴きたい事実、それは「この世」が、霊的には「死」を意味する領域である!という点です。私たちが「この世」に生かされている理由、それにも正しい意味があります。それは私たちが「キリストの初穂」として、「この世(死の領域)」から贖い出され、続いて「この世」に苦しむ人々を、霊的に救出するという、大いなる「役目(使命)」に任じられていからです。
「継続する」に相対する世的な概念、それが「驕り」と「貪り」です。そして主なる神に対する、私たちの「直ぐなる」霊的姿勢に反すること、それが世的な「妥協」です。
神の「霊」に打ち建てられ続ける
私の五体には・・・・心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則の虜にしているのが分かります。・・・・私自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。・・・・神の霊があなた方の内に宿っている限り、あなた方は、肉ではなく霊の支配下にいます。・・・・肉に従って生きるなら、あなた方は死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなた方は生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
【ロ-マ書7章23~8章14節】
パウロのこの御言葉に、全ての「答え」があります。「罪」の法則を打ち破るのは、全ての聖霊様の「働き」です。この聖霊様の真理の「法則」に、私たちが素直に従うのであれば、私たちの「霊」は生き長らえ、肉の支配を完全に超越する、イエス・キリストの「復活」の御業にあずかり、私たちは大いなる神の「恵み」の中に、常に留まり続けることが出来るのです!
それ故に、私たちもこの「罪(肉)」の業を、聖霊様の御力によって「絶ち続ける!」という、霊的努力が必要になります。それは私たちの「霊」の中にある、神の「宮(神殿)」を打ち建てるべく、一つ一つ「煉瓦」で積み上げていく作業に似通っています。
ある時は、その建て上げた神殿の壁を、敵が盛んに攻撃して、所々が破壊されることもあるでしょう。しかし、それでも神の「霊(聖霊)」が、私たちの内に宿っている限り、私たちは再び立ち上がり、日々の霊的務めを継続することが出来るのです。最終的には私たちが、断固として「この世(敵)」と妥協せずに、「この世」とは相容れない聖なる領域へと、私たちは完成されて行くのです。
私たちの「ネヘミヤ記」は、未だ継続しています!あなたがネヘミヤの如くに、一人の「再建(改革)者」として、「神の宮」を聖霊の指揮のもと、「完成」に至るその時まで、常に打ち建て続けることが出来ますように。また世のもたらす「悪」の法則を、完全に打ち破ることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!