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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.31)

                    キリストの王衣をまとう




                                     強大な王たちを討った方に感謝せよ。
                                     慈しみはとこしえに。
                                     力ある王たちを滅ぼした方に感謝せよ。
                                     慈しみはとこしえに。
                                     アモリ人の王シホンを滅ぼした方に感謝せよ。
                                     慈しみはとこしえに。
                                     バシャンの王オグを滅ぼした方に感謝せよ。
                                     慈しみはとこしえに。

                                                                                    【詩篇136篇17~20節】


世の君たちが求める「王衣」
 今回の御言葉(詩篇)は、二通りの不思議な表現で詠われています。先ず第一の表現は、「力(国力、軍事力、財力等)ある君主たち(直訳)」(17節)です。続いて第二の表現が、「名が轟いている王たち(直訳)」(18節)です。


 つまり「この世」を司る権力者たちが求める(身にまとう)、「力」の基準(誇り)とするもの、それが①「powerful(国力、軍事力、財力等)」と②「famous(名が通ること)」です。更に、この二つをベ-スとして、彼らが最終的に求めるもの、それは③「自らが崇拝されること」です。そうです!サタンの欲する同様の肉の次元へと、人は常に誘惑されるのです。


 では、私たちの信じる「王の王」、神の御子イエス・キリストは、如何なる「君」でしょうか?イエス・キリストは世の君と違って、常に彼らの「逆」を求める方です。彼らは世的な衣を、絶えず身にまとい続けることを、欲し続ける訳ですが、主なる神はそれらを「打ち滅ぼす(kill)」、つまり排除されます。神の御国においては、それらは全て「塵・芥」の如きものだからです。はっきり申し上げて、イエス・キリストが身にまとっていた「衣」は、たとえ女性の弟子たちが、定期的に洗濯していたとしても、浮浪者の如きみすぼらしい衣でした。


 さて主なる神は、第二世代のイスラエルの民を導く、新たな指導者としてヨシュアを選んだ訳ですが、彼に対して先ず命じたこと、それが「世的なもの」の全てを、イスラエルの全家から「聖絶する(排除する)」ことでした。実は、今に生きる私たちきキリスト者も、ヨシュアの徹底した生き方を、霊的に学ぶ必要があります。


 彼は師モ-セを通して、「主なる神にのみ、自分の全てを明け渡し、絶えず主ご自身を愛し、忠実に仕え続けて生きる!」こと、この霊的遺言を実践し続けたのです。ですから彼は、最高指導者と言えども、多くの人の中にあっても「威張らない」、人と「同じ暮らしぶりを求める」など、師匠の生き様を貫徹しました。


 と言うことは新約のヨシュア(イェシュア)、即ち王の王イエス・キリストが身にまとい続けた「王衣」を、私たちも同様に霊的にまとうだけで、世の君たちが求める(貪り続ける)、悪しき汚れた三着の衣の罠(誘惑)から、逃れることが出来るのです!


キリストの「王衣」
 ところで、イエス・キリストの身にまとった「王衣」は、霊的に如何なる意味を持つのでしょうか?


キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名に優る名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものが全て、イエスの御名に膝まずき、全ての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神を讃えるのです。
                                                                                        【ピリピ書2章6~11節】


 パウロは、イエス・キリストが求めた(身にまとった)、その霊的方向性を分かり易く説明しています。ご存知のように、イエス・キリストの「ID(身分)」は、御国の皇太子(Prince)です。と言うことは、本来ならば一番に崇められるべき存在(高位の身分)です。しかし彼は、その一番高位の立場を捨てて、人間と同様の卑しい身分の姿、つまり王衣を脱いで、乞食(奴隷)の如き衣を身にまとう、そんな身分にまで降られました。


 その理由は、罪の奴隷と成り下がった、私たちと同様の身分になるためです!そして私たちの「罪(有罪)」のための、身代わり(贖いの生贄)として、十字架上で処刑(死刑)されることでした。しかし、イエス・キリストの「死」の瞬間から、彼の御名こそが「救いの君」、そして真の「王の王」として、永遠に打ち建てられることになります。


 そして最終的には、地上の者から天上の者に至るまで、「イエス・キリストは真の神の御子、永遠の救いの君であり、この方の御名こそが、永遠に讃えられる名である!」と、その偉大なる「救い」の御名を讃えるのです!


 今の時代は、新たな支配者(世の君)の到来を益々求める、そんな混沌とした時代です。「その時」のために、サタンは虎視眈々と準備しています。しかし同時に聖霊様も、「その時」に向けて、御子に号令を発しています。「いよいよ、御子の再臨の時が間近です。次は父君から戴いている、真の救いの王衣を身にまとい、栄光ある勝利の凱旋を飾る時ですからね!」と念を押しながら。


 「その時(再臨の時)」には、全ての者が瞬時に分かります。「あ、しまった!」と。即ち自分が着ていた衣が、「朽ちるもの」で「偽物」であることを。キリストの王衣は、私たちが感謝し切れない程の、麗しい永遠の「聖衣」です。


 その王衣を見ただけで、またその聖なる衣に触れただけで、その香しい「香り」を嗅いだだけで、「自分が如何に、主なる神によって愛されているのか!その貴い御衣に大胆に近づくことが出来るのか!また何よりも、主なる神はその聖なる衣を、信じる私たちにも同様に着せて下さる!」のです。


 それ故に私たちは、主なる神の偉大なる御業を、常に覚えておく必要があります。私たちは時折、「世の衣」に魅了されながら、自分の「真の姿」を忘れる弱さがあります。しかし「聖書」は、明確に正しい方向性を示して下さいます。「ここに真の道がある!御子に付いて行きなさい。そうすれば道が開かれ、キリストがあなたの人生の全てを支配し(守り導き)、必要な時に必ず、霊的に高めて下さいます。この世の高きを、絶対に目指すことが無いように。むしろイエス・キリストと同様に、低きところを目指して行けば、命の水が豊かに流れ行く、素晴らしい神の国が、あなたの人生を豊かに覆うことでしょう!」


 あなたが更に、イエス・キリストの似姿へと造り変えられ、麗しい御子の王衣を着せられた、真の「神の子」であり続けますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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