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バルナバ・ボイス(No.5)

イエス・キリストの13の問いかけ−その5


               『何をして欲しいのか?』



 各福音書に見られる、イエス・キリストが為された数々の「癒し」は、今日における総合病院にある、外科・内科など全ての科において、治療する種類のものでした。しかもイエス・キリストは、今日の総合病院に存在しない医療分野にまで、「癒し」の御業を為されています。仮にイエス・キリストが、日本のある町に訪れて下さり、この当時と同様の「癒し」のミニストリーを開始されたら、その町にある全ての病院が、廃業しなければならない事態に陥ることでしょう!


 イエス・キリストの為された「癒し」の中で、特に際立ったものは五感的な病、例えば「盲目の病」、「聾唖の病」、「難聴の病」、「てんかんの病」、「ハンセン氏病」など、当時の医者にとって治療することのできない分野でした。ですから当時の難病患者は、我先にイエス・キリストの御元にやって来る訳です。「この方の元に行けば、必ず不治の病が癒される!」という噂が、巷に流布されていましたから、藁をもすがる思いで病人が集まって来たものと思われます。


一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群集と一緒に、エリコを出て行こうとされた時、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」と言い始めた。多くの人々が叱り付けて黙らせようとしたが、彼は益々、「ダビデの子よ、私を憐れんで下さい」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をして欲しいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいです」と言った。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
                                                                                   【マルコ福音書10章46〜52節】


エリコを訪問した目的
  今回のストーリー以前において、イエス・キリストは「エリコの街」に入られる際、ある「目的」をもって突然訪問されました。イエス・キリストはご自分の「名」が、全ての「救い」を現す(実現する)ものであることを、聖霊を通して熟知していましたから、エリコの街にも当然「救い」を現すこと、これが主要な「目的」でした。それは目に見える形(現象)の「救い(解放)」だけでなく、人々の抱える「病気」「苦しみ」「悲しみ」全般に渡って、真の解放をもたらすべく、わざわざイエス・キリストは「エリコの街」を訪れ、数々の「しるし」と「業」を現されました。その結果、父なる神の素晴らしい「救い」の時が、エリコの住民にもたらされました。


 実は今回のストーリーは、「エリコの街」において数々の、素晴らしい働きを為されたイエス・キリストが、いよいよエリコから次の街へと移動する、その直後の出来事でした。エリコの街は城下町でしたから、当然この街を取り囲む城壁には、出入り用の大きな「正門」があり、イエス・キリストがこの「正門」を通過しようとした「その時」に、盲人バルティマイがイエス・キリストと出会ったのです。


 果して偶然の出会いだったのか、それは定かでありませんが、私はバルティマイの心境を汲み取る限り、偶然ではなく必然性を求めて、イエス・キリストの通過を待っていたものと推測します。彼が何処の街に住んでいたのか、私たちには知る術がありませんが、彼は「イエスと呼ばれる預言者が、今エリコに来ている!」という噂を、当然人々から聞いて知っていました。しかし「盲目の病」を患っている限り、自分をイエス・キリストの元へと連れて行ってくれる者はなく、「自力」で行くことが不可能であることも知っていました。それでも彼は、最後のチャンスが必ず来ることを信じて、出口となる「正門」にて、ずっと待機していたのではないでしょうか。「ここに居れば、必ずイエス・キリストが、エリコから出て来られるだろう!・・・・」と。


 何日間が過ぎ去り、遂に大勢の群集の「ざわめき」が、「正門」に向けて近づいて来るのを、彼は敏感な耳で瞬時にキャッチしました。群集のざわめく「騒音」の中心に、果してイエス・キリストが居るのか、見当も付かなかった彼は思わず、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」(47節)と、今までに出したことの無い大声で叫んだのです。この叫び声の表現は、日本語の記述では淡々とした言葉(単語)の並びですが、直訳すると先ず「イェースー様―(Jesus)!」と、まるで誰か遠くに居るかの如くに大声で呼ばわり、続いて「ダビデ王の子孫のお方よー!」と、具体的にイエス・キリストの「名」の身分(出所、出身、由来など)も、申し述べている表現です。


「ダビデの子」とは?
  「ダビデの子」とは、マタイ福音書一章に記述されているように、イエス・キリストがダビデ王の家系から産まれ出た者、つまりファミリー・ネーム(家柄を表す名)を表しています。ご存知のようにダビデ王は、イスラエル国家の二番目の王として、紀元前1000〜961年在位した、立派な聖人君主(King)です。ですから「ダビデの子」とは、文字通り「王家」の血筋の者であり、由緒ある家柄の出であるのです。


 何故バルティマイは、イエス・キリストが「ダビデ家」の末裔であることを知っていたのでしょうか?日本においても同様ですが、「家柄(家系)」とか「血筋」というものは、人間関係の中で未だもって、非常に拘束力のある概念です。その人の先祖が由緒ある家柄で、歴史的に知名度のあるファミリー・ネーム、例えば「徳川家」「藤原家」「近衛家」など、旧公家の出身であると分った場合に、私たちは急にその人に対して、敬々しく態度を変えることがあります。


 では、私たちの「王の王」イエス・キリストの「血筋」は、バルティマイが叫び求めたような、果して立派な君主ダビデ王を始祖とする、由緒ある家柄だったのでしょうか?ご存知のようにマタイ福音書1章には、ダビデ王を更に遡った人物の「名」が、何人も書き記されています。それらの人々の中には、王族の品格とは懸け離れた、スキャンダルまみれの人生を過ごした人々が多く登場します。ダビテ王自身も、イスラエルの王の中では立派な君主の第一人者ではありますが、彼の治世の絶頂期において、隠密に隣人の妻をむさぼり、しかもその妻と再婚するために、隣人(夫)を間接的に暗殺するという、十戒の大罪を二点犯しているのです。ですから「ダビテの家系」と言っても、決して素晴らしい「血筋」ではありません。しかも当時のユダヤ人にとって、「ダビテの家系」の末裔を名乗ることは、ローマ帝国の支配下にあったこともあり、当然はばかられることでした。


 それ故、バルティマイが叫び求めた時にも、群集の中には彼に対して、「何をお前は偽り事を申すか!彼がダビデ王の子孫であるはずがない!」などと、逆に黙らせようとしたことでしょう。しかし彼は、それでも叫び続けました。彼は、イエス・キリストが為される数々の奇跡の「噂」を、様々な人から聞いて知っていました。それ故いつしか彼は、自分も必ず「噂の人物(預言者)」に直々お会いして、「盲目の病」を癒して戴き、その「御顔」を拝したい!と飢え渇き始めたのです。


 そして、様々な人々から知った「情報」を、頭の中で整理している中で、彼は遂に「あー、待ちに待ったメシヤが、今私の生きるこの時代に現れて下さった!私はこの方に、是非一度でいいから会わなければならない。そうでなければ、今まで生きてきた意味も無いし、このまま死ぬ訳にもいかない!」と明確に悟ったのです。彼の大胆な信仰の行動は、この飢え渇きから始まっています。彼が、「イエス・キリストは、必ず私の元に来る!」という、確信に至ることができたのは、全ての者に「救い」をもたらす、「平和の君」メシヤが、如何なる見分の者、例えば「不治の病」に苦しむ者にも、分け隔てることなく必ず訪れて下さる!という信仰が、「上」から与えられていたからです。


 実は、この「ダビデの子」という表現は、他の福音書の中において、このバルティマイの信仰の表明の他にも、幾つか記述されているのではないかと、私は推測していましたが、実際に調べてみますと、「主よ」「先生」などの表現は数多くあるのに対し、「ダビデの子よ」と表現する人物は、バルティマイとフェニキヤ出身の名も無き、一人の母親(マタイ福音書15章21〜28節参照)の二人だけです。しかもこの女性は、ユダヤ人ではなく「異邦人(ギリシャ人)」であったこともあり、彼女がユダヤ人のイエス・キリストに対して、信仰の表明をしていること自体、とても勇気の要る行動だったのです。この時も、選民意識に凝り固まった弟子たちから、当然「異邦人」である彼女は敬遠され、イエス・キリストに近づくことは困難でした。


 しかし彼女は、「主よ、ダビテの子よ、私を憐れんで下さい。娘が悪霊にひどく苦しめられています」(22節)と、必死になって懇願したのです。すると弟子たちは、イエス・キリストに対して、彼女を追い払うように逆に直訴しました。イエス・キリストも最初、「子供たち(ユダヤ人)のパンを取って、子犬(異邦人)にやってはいけない」と、彼女の願いを退けられたかに見えたのですが、尚も彼女はイエス・キリストに、しつこく願い出て「子供たち(ユダヤ人)だけでなく、子犬(異邦人)に対しても父なる神は、天から救いの恵み(パン)を、分け与えて下さるはずではないでしょうか?ダビテ王の子、イエス様!」と表明しました。するとイエス・キリストは、彼女のこの信仰表明に、物凄く霊的に感動を覚え、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。」(28節)と応答されました。


「何」をして欲しいのか?
  盲人バルティマイの、度重なる懇願の叫びに対して、イエス・キリストは聖霊様から、立ち止まるよう指示されました。「あなたの聖なる救いの御名を、呼ばわる者が一人いる!あなたの御名は、救いではありませんか?呼び求める彼に対して、あなたは応答しなければなりません!」と。それからイエス・キリストは、弟子の一人に「私を呼び求める者が一人いる。その者を、私の元に連れて来なさい!」と命じられました。その弟子は当初、一体誰の事を言われているのか分かりませんでしたが、一人だけ必死になって叫び続ける、盲人バルティマイを遂に見つけ出し、「あなたでしたか?安心しなさい!先生がお呼びです。私が案内しましょう!」と語りかけました。


 そして遂にバルティマイは、未だ盲目ではありましたが、イエス・キリストと対面することになりました。この時イエス・キリストは、彼に対して「何をして欲しいのか」と問われました。イエス・キリストは私たちに対しても、聖霊を通して同様の問いかけを発しておられます。このイエス・キリストの問いかけは、私たちが時折「・・・・して下さい!」とか、「・・・・を与えて下さい!」などと応答する、「もの」を要求する概念では決してありません。それは実際にあなたが、イエス・キリストに対して如何なる行為を求め、その結果如何なる状況に導かれることを望んでいるか、そのことを具体的に表明するよう促している言葉です。例えば、私たちの現実の生活においては、三次元(物理)的「苦しみ(痛み)」を患ったり、物質的困窮に陥る時があり、そのような時には実際の「苦しみ」と「不足分」から解放されるように、具体的事例を挙げて祈り求めます。


 しかし、イエス・キリストのこの問いかけは、イエス・キリストが為される行為を、私たちがどのような形で求めているかを、霊的に問い質しているのです。イエス・キリストは逆に彼に対して、次のような質問を投げかけられたのです!「あなたは確かに、私のことをダビテの子と呼びましたね?!あなたは、その御名の真意が分っているはずだ!それだったら、あなたは私に対して、一体何をして欲しいと要求するのか?」と。


 「イエス・キリスト」という御名は、「救い」を意味します。この「救い」という言葉は、私たちが「イェス様!」と呼ばわる時に、聖霊を通して「命の言葉」となって、明らかな形で有効的に働き始めるのです!ですから、私たちが「イェス様!」と単純に表明するだけで、父なる神の御元に私たちの「願い」が届けられ、聖霊を通してイエス・キリストの「救い」の御業が、確実に進行するのです。その時に、イエス・キリストが私たちに対して、「あなたは確かに、救い主よ!と私のことを呼んだ。ではあなたは、この私に一体何をして欲しいのか?私の救いの御業を、如何なる形で現れることを真剣に求めていますか?」と逆に質問された時に、私たちは如何なる応答をするのでしょうか?「え?!私は痛み(苦しみ)だけ、癒して欲しいのです。」、「経済的不足分だけを、補って下さればいいのです・・・・」などと、慌てふためきながら応答するでしょうか!


バルティマイの「応答」
  バルティマイは明確に応答しました。「先生、目が見えるようになりたいです」(51節)と。この彼の応答は、決して物理的な「癒し」のみを求めた表明ではありません。彼は、「あなたが私に触れて下さり、本当にあなたの救いの御業を、私の人生の全てに及ぼして下さい!そうすれば、私はあなたご自身の拝すべき御顔、それからあなたが私に為して下さる栄光の御業を、はっきりと見ることができますから・・・・」と応答することで、ある決断(信仰)を宣言しているのです。「本当に、この方が救い主であるならば、私の人生を明確な明るいものとして、必ず変革して下さるはずだ!」と。


 彼の人生はそれまで、「暗闇」に覆われていましたから、「暗闇」にある彼の唯一の希望、それが「明るさ(救いの光)」だったのです。そして彼の生きる時代に、メシヤが訪れて下さっていることが、どれ程彼の閉ざされた「霊」に、希望の光を投じたことでしょう!その後メシヤと噂される方が、イエス・キリストであると分かった時に、彼は決断し行動に移ったのです。「私は必ず、イエス・キリストとお会いして、その御顔を拝する!」と。


 彼が即答すると、イエス・キリストは物凄い感動を覚えて、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(52節)と宣言されました。このようにイエス・キリストが、父なる神からの「救い」の宣言文を読み終えると同時に、既にバルティマイの盲目の状態は、完全に見える状態に至っていました。私たちの眼は「暗闇」の状態から、いきなり「明るみ」の空間に来た時には、しばらく何も見えて来ませんが、この時は違っていました。「暗闇」が彼の盲目の状態から、さっ!と引くと同時に、彼の両目に写った光景が、まさしく「救いの光」イエス・キリストの、麗しい「御顔」の耀きだったのです!


 彼は「その時」、即座に決断しました。「私は命のある限り、私の救いの君イエス・キリストに、付き従って行こう!」と。彼の人生の転換(変革)は、ここに見られます。現実の私たちが、「肉の力」では何も為し得ない、言わば四方八方塞がった状態に陥った時、イエス・キリストは聖霊を通して、「あなたは一体、私に何を期待して求めているのですか?」と問いかけています。勿論イエス・キリストは、私たちが具体的な祈りの要求を申し出た場合に、拒絶することなく聞き入れて下さいますが、イエス・キリストが私たちに望まれるものは、私たちの「霊」の奥底にある、「本心(飢え渇き)」の表明に他なりません。イエス・キリストは、常に私たちに対して「私は愛するあなたの為に、素晴らしい明確な(はっきりとした)、人生を用意している!」と語りかけています。


 ならば私たちの側からも、「救い主ダビデの子、イエス様!あなたが明確に私の人生を確立し、私を明らかな者として造り変えて下さい!」と表明しましょう!そうすれば、父なる神は「愛する我が子よ、あなたの信仰が既にあなたを、新しく形造っている。その通りになれ!」と宣言し下さり、「その時」から私たちとイエス・キリストとの、直接的関係(親しい交わり)が完成されて行くのです。もし私たちの側に、その場しのぎの「お願い」とか、困った時の「頼み事」を要求するだけで、それが叶えられるような「信仰の法則」であるならば、私たちは中途半端で愚かな人間ですから、「その時」は感謝しても、すぐに自分で先走り「神」から離れて行くことでしょう。


 イエス・キリストが、私たちに対して一番望まれることは、私たちとの愛の「触れ合い(交わり)」です!その「親しい交わり」の中に、あなたを選び召し出し、あなたという貴い「器」だけを通して現そうと、前もって計画している新しい人生を確立する方、それがイエス・キリストです!ですから私たちは、バルティマイの如くイエス・キリストに付き従って行くことを、益々求めて下さい!そうする時に必ず、私たちの人生において豊かな神の「救い」の御業、そして「ダビデの子」イエス・キリストと共に歩み、やがて御国にて父なる神の御子と、親しく相まみえることのできる人生が確立されることを、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


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