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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.34)

                          本当に重要なこと




 ご存知のように「言葉」は、呼吸機能の「吐く(息使い)」という過程により、発声(発音)されたものとして出て来ます。仮にその息が出なかったとしたら、「言葉」も生まれませんし、語る者の「意志」さえも理解できない状態に陥ります。そして当然のことながら、「人」は息が出なくなった時に「体」の機能を停止し、「言葉」も途絶えます。ですから、「人」は生きている時に何を語り、如何なる「言葉」を残すべきか?そして何よりも、どのような「言葉」を求めて、自分の「霊的な糧」として蓄えていったらよいのか?これが生きていく上で、重要な要素となってくることを、常に覚えておくべきです。


 「命(生命)」は只一つしかない、大事な授かり物です。私たちは「命」ある時、即ち呼吸できる時に、「人」と「人」の和を乱す言葉や、人間関係を悪化させる言葉を吐くのではなく、如何なる人間関係においても、イエス・キリストにある正しい「真実な言葉」を、正しい行い(態度)をもって語っているのであれば、決して悔いは残りません。


 実は、この「言葉」と「呼吸」の法則は、あたかも二酸化炭素の増加に伴って引き起こされた、「地球温暖化」という環境問題から示される、様々な教訓に似通っています。この問題は、今日の地球規模で直面する歴史上最大の難問であり、人類が今後どのようにして二酸化炭素を削減し、より酸素を増加させていくことができるか?それともこのまま、なし崩しに二酸化炭素を増加させ、地球自らの呼吸機能を低下させ、自然環境ばかりでなく人類全体を破滅させていくのか?この二通りの道しか残されていません。同様に、私たちが二酸化炭素のような、「人」に有害な「悪しき言葉」を吐けば吐くほど、自分の生活環境と人間関係が、苦しくなっていくことを知らなければなりません。


私はこう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなた方の愛が益々豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、聖い者、咎められるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実を溢れる程に受けて、神の栄光と誉れとを称えることができるように。
                                                               【ピリピ書1章9~11節】


本当に重要なこと
 「新しい言葉」が、より本来の「霊の言葉」として回復するには、どのような「命の言葉」を求める(吸う)べきでしょうか?又「新しい言葉」を、どのような目的(方向性)をもって語っていったらよいのでしょうか?この二点について、ピリピ書から導かれる聖霊の教えについて、学んで参りましょう。


 先ず第一にパウロは、「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなた方の愛が益々豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」(9~10節)と述べています。「知る力」とは、英語で「true knowledge」、つまり「真理の知恵」のことです。アダムとエバが「エデンの園」において、本来の天的機能「知る」という面で、神から与えられていたことは、「神のみを知る」この一点でした。勿論「エデンの園」には、多種多様な生物が存在しました。そして、父なる神がエバを創造する以前に、アダムは「園」の全土を行き巡り、「園」に存在する「生きもの」全てを調べ尽くし、その一つ一つに命名することで、彼は文字通り「知って」いました。


 ところが、彼ら二人にとって「知らないもの」が、一つだけ存在しました。それは、「善悪の木」に関することでした。父なる神は、彼らに対して「この木については、絶対知るべきではない!あなた方は、この木以外のものは全て知っているし、今後もこの木以外のものから、知る喜びを求めなさい!そして、あなた方が最も知るべき重要なことは、私と更に親しく交わることであり、私をもっと知って欲しい!私もあなた方と交わり、もっと深く知りたいから!」と、常に命じられました。


 彼らは当然、この命令に素直に聞き従い、神と親しく交わる中で得られる、神ご自身を「知る」喜びを何よりも求めました。父の「御心」を知れば知るほど、甘美に満ちた神の「麗しさ(美)」が、御父から流れて来ることを「知り」、又更に「知る」ことを欲したからです。そして聖霊様に導かれるまま、常に「命の木」の前に立ち、その「実」を十分に味わい食する時に、更に父なる神との「親しい交わり」の中で霊的感性が豊かにされ、イエス・キリストとの親密な「一体化」を、益々求めて止まなくなりました。ですから「知る力」とは、「命の木」イエス・キリストを「知る」ことであり、このことを通してイエス・キリストの愛が、私たちの全てに満ち溢れるようになることが、「知る」ことの最終目的(方向性)です。私たちが「命の木」を知れば知るほど、イエス・キリストの愛が満ち溢れるようになります。


 次に「見抜く力」とは、英語で「perfect judgment」、つまり「完全なる判断」のことです。実はこれも、アダムとエバに本来備わっていた「天的機能」の一つでした。「完全なる判断」とは、神が喜ばれる「善きこと」とは如何なることであるかを、霊的にわきまえ知る能力のことであり、彼らが一々「善悪の木」の実を食さなくても、霊的に正しく判断できるもの、つまり神にとって何が本当に重要なことであるかを正しく認識し、それを完全に受けとめることのできる素晴らしい機能を、彼らは霊的に分与されていました。


 父なる神は、この地球の空中にはサタンと悪の諸勢力が、支配者として存在することを知っておられ、又この「敵」の策略に関しても、全てご存知でしたから、当然ご自分の創造したアダムとエバに、敵を「見抜く力」を与えると同時に、自分の「霊」が真実から神を求めているか否かを、自分で明確に悟ることのできる力、つまり霊の状態を「見抜く力」も与えていました。この力は、「敵」の策略に全く関心(注意)を向けず、神の「御心」のみを優先させる「力」のことであり、決して「敵」の策略に乗る力のことではありません。しかし、アダム(エバ)は罪を犯した時点で、サタンのもたらす「古い次元」にある、不完全な判断力しか行使できない存在となり、この時から父なる神に対して、「誤った判断」をするだけでなく、互いに「裁き合う(不完全な判断のこと)」存在になりました。


 余談になりますが、「命の木」の実と「善悪の木」の実は、一見似通っていたものではないかと私は推測します。つまり、どちらの実も見た目に美しく、香りも素晴らしく美味しそうに思えるものだったのでしょう。そしてサタンは、この二つの木の実を見比べるように!と二人を誘惑し、次のようにそそのかしました。
「どちらの実を食べても、決して死にませんよ!むしろ、この二つの木の実を食べることで、益々あなた方の中に、命の木の実だけを食べた時以上に、素晴らしい神の力が満ち溢れるようになり、あなた方は更に神の御心を知ることができます!」


 「善悪の木」の実を食べた結果、彼らにどのようなことが起こったのでしょうか?彼らは、イエス・キリストを「知る」という、最優先事項(最も重要なこと)に関心(注意)を向けず、自分の「肉の力」で自分の知りたい情報を求め、又自分の「肉の力」で全てを為すことができる!などの、「誤った判断」をするようになりました。「自我」の意識が強く働き出した結果、私たちが自分の「肉の力」で判断するようになったこと、これが「罪」のもたらしたものです。


 「神の御心を優先させて、その御心のみに従おう!」などと、「正しい判断」の方向へと、促される方が聖霊様であるのに対し、「自分の考えで決定しなさい!」などと誘惑してくるのが、「敵」サタンであることを再認識して下さい!「あなたの判断は間違っていませんよ!あなたの思いと、あなたの為していることは、全て神を喜ばせているのですよ!」など、自分の側からの「思い」が生じているのであれば、既に霊的傲慢に陥っています。神が命じられること以外のことを為す(思う)ことは、たとえそれが素晴らしい働きを伴っていたり、皆の益になっている素晴らしいミニストリーであっても、「自分の判断」で為している限り、父なる神の「御心」から見れば、全てが「不従順の罪」です。


 聖霊様の願いは、あなたの中にイエス・キリストのみを「知る」ことを求める、そのような「聖なる思い(判断)」が豊かになり、イエス・キリストに対する愛が、更に満ち溢れるようになることです。そして本当に重要なことは、「イエス・キリストを知り、その御心のみに従う」という、霊的にへり下った姿勢であり、聖霊様はこのようなキリスト者を、常に捜し求めておられます。


 もう一度問います。「あなたにとって、本当に重要なことは何でしょうか?(What is best?)、何が霊的に最善のことでしょうか?」私たちが、「善悪の木」の実を食べたからといって、何が霊的に重要なことであるかを、明確に判断できるようになった訳ではありません!「善悪の木」の実は、あくまで三次元的な「良心」の象徴であり、「善きこと」と「悪しきこと」を、ある程度見分けられる「不完全な判断力」のことです。「完全なる判断」に至るには、「命の木」の実を食すこと以外にあり得ません!このように「善悪の木」は、「不完全性」を現す象徴として、「エデンの園」に植えられているに過ぎません!私たちは、自分の「肉の力」で判断するなどの「自己中心」の罪の結果、神の「御心」から自分が完全に離れていることを、改めて「知る」べきです。


 「自分の判断」で為すことの中には、ある程度「正しい行い」に至ることもあるでしょう。しかし私たちが、明確に聖霊様を通して示されるべきことは、「私たち自身で判断することは、全て神の御心から離れている!」ということです。これは、聖霊様が最も悲しまれることです。ですから、私たちは本当に重要なことを、常に聖霊様を通して示して戴く必要があります!本当に重要なことは、常にイエス・キリストと、「一体化」することを求めることです。


 罪を犯す以前のアダム(エバ)は、確かに今の私たちの霊的状態から比較すると、より優れた本来の神の「最高作品」、即ち「良き人」でした。彼らは何をするにも、神の「御心」と一致した、聖なる「結び付き(結合)」の中にあり、神との「一体化」を共有できる存在でした。しかし、神は彼らに更に高い次元での、聖なる永遠の「一体化」を求めるよう、常に命じられました。「命の木の実だけを食し続けなさい!」と。つまり神の視点から見て、彼らは未だ「完全な人」ではなく、「完全性」を目指すべくその途上にある者、つまり「未完成」の段階にあったのではないでしょうか?


 「一体化」のゴール(完成の時)は、御国に行き着くまで決してありません!「エデンの園」は、あくまでこの地上にもたらされる、御国の現れの「雛型」です。御国における最終ゴールを目指しながらも、「この世」において私たちはより深く、より激しく、より親しくイエス・キリストとの、「一体化」にあずかることを求めること、これが本当に重要なことです!


 しかし、私たちが「一体化」の恵みにあずかったからと言って、「じゃー、イェス様!あなたと私は一体ですから、私はあなたの御心が分ります。好きな所へ行って宜しいでしょうか?」などと、「独り歩き」できるレベルにはないことを、へり下って自覚すべきです。「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからである。」(ヨハネ福音書15章5節)


 枝(私たち)は幹(イエス・キリスト)がなければ、枯れて死ぬだけです。私たちがイエス・キリストの「肢体」として、イエス・キリストの「御心」のみに従って生きる限り、霊的な失敗はありません。私たちが「幹」になろうとするから、失敗するのではないでしょうか!それまで、聖霊様にお任せしていた自動車のハンドルを、私たちが自分の手で掴み、自分の「肉の力」で運転しようとするから、霊的事故を引き起こすのです。何故「人」は、自分でハンドルを操作したい!などと、強く欲するのでしょうか?それは自分が好きな速度で、自分の好きな所に、自分の力で運転して行きたいからです。


 しかし最善で、最も安全なコースに導かれる(運転される)方は、聖霊様だけであることを覚えて下さい!常に聖霊様は、私たちの指導教官として「あなたの手を、ハンドルから放しなさい!私に運転を委ねなさい!」などと、厳しく霊的に叱咤して下さいます。何故、聖霊様が私たちを叱られるのか、それは私たちが「自分の判断」により、自分の「肉の力」で運転するなど、必ず何らかの失敗をする「罪人」だからです。人間の判断ほど、あいまいなものはありません。しかし「完全なる判断」を与えて下さる方は、常に聖霊様です。そして、聖霊様は続けて命じられます。「あなたが為すべき最も重要なことは、全てのルールの源イエス・キリストを知ることです。あなたが、イエス・キリストを『知る』ことを求めないから、不完全な過ち(失敗)を繰り返すのです。本当に重要なことを、正しく知らないから罪を犯すのです。」


神を称える目的
キリストの日に備えて、聖い者、咎められるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実を溢れる程に受けて、神の栄光と誉れとを称えることができるように。」(10~11節)


 パウロが、「称えることができるように」と述べていることは、「称えなさい!」と命じたり、「称えますように」とお願いしている言葉ではありません。アダムとエバに本来与えられていたもの、つまり霊と真をもって「神の誉れと栄光を常に賛美する」、その素晴らしい天的機能を、彼らは自分の犯した罪の結果、ことごとく失いました。「自画自賛」の言葉通り、私たちは神ご自身を賛美することより、「自我(自己)」を誇り自分に栄光を帰すことを、いとも簡単にできる存在です。


 しかし、自分よりも他人を優先して、真心から100%「誉めたり」、「建て上げたり」することのできる人は、一人もいません。このように、人間関係においても他者を称えることができない、「不完全性」があるのであれば、関わり方において希薄な「見えざる神」に対して、常に霊と真をもって「完全に称える」ことは、到底不可能なことです。それ故にパウロは、「称えることができるように」と訴えているのです。つまり、聖霊様を通して与えられる、「上からの力」によって初めて、少しずつ可能になってくる霊的次元が、まさしく「賛美(礼拝)」することです。


 では、何のために賛美(礼拝)するのでしょうか?パウロは先ず第一に、「キリストの日に備え」るためであると、明確に記述しています。「キリストの日」とは、「再臨の時」を指す言葉でもありますが、常にイエス・キリストが「霊の戸口」に立って、あなたの「霊」に入られ「交わり」を持とうとしておられる、「交わりの時」の全てを意味する言葉です。そして聖霊様は、常にあなたの「霊の扉」をノックしながら、「さー、今からイエス・キリストが、あなたと交わりたく戸口で立っておられるから、喜び勇んで開けてくれないだろうか!」と待っておられます。


 ですから「キリストの日」の備えは、毎日常に為されなければならない、霊的に重要なことです。それは、いつ花婿が帰ってきても良いように、日々備えて待ち続けた「賢い五人の乙女(花嫁)」の姿勢です。常にイエス・キリストは、「あなたと交わりたい!」と、強く望んでおられることを覚えて下さい!「その時」に私たちは、「イェス様!今はご免なさい。私は、今からやることがありますから・・・・。」などと、「自分の判断」や「自分の計画」を優先することを停めましょう!聖霊様は、次のように厳しく指摘します。「あなたは再び、善悪の木の実に飢えていますね!そして食べたでしょう?」と。「私」を優先させたり、「今は勘弁して下さい!」などと自己判断を下すこと、これが「罪」に他なりません。


 私たちが、「キリストの日」に備えて賛美する第二の目的は、「イエス・キリストによって与えられる義の実を溢れる程に受け」るためです。つまり、「命の木(イエス・キリスト)」から得られる豊かな実を、その中でも「愛の実」が最高のものですが、この「イエス・キリストの愛」が豊かに満ち溢れ、あなたの中から絶えず流れ出るようになるためです。このことを通して初めて、「神の栄光と誉れ」が称えられるのです。


聖霊に教えられる
・・・・どうか聖霊によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分に悟り、全ての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神を益々深く知るように。」【コロサイ1章9~10節】


 パウロにとって(生きるにしても死ぬにしても)一番重要なことは、イエス・キリストと霊的に親しく交わり、彼を更に「知る」ことでした。彼にとって全ては、「イエス・キリスト」のために生きる(死ぬ)ことでした。私たちは神の「御心」を知ることで、聖霊を通して神が喜ばれる「善きこと」を、明確に「判断」できるようになります。つまり、神が私たちに求められる「言葉(命の息)」、或いは「行動」の方向性を決定付けてくれるもの、それが神の「御心」を知ることから始まります。私たちは先ず、何を最優先的な重要事項として「知る」べきか、又それを「知り」如何に行動すべきかを教えられる者と、自分で勝手に判断し自分の「肉の力」で行動する者とでは、霊的に明らかな違いが出てきます。さて、あなたはどちらの生き方を求めますか?教えて下さる方がいらっしゃるのであれば、私は「教えられる」生き方を求めます。


 聖霊派及びカリスマ派の流れに見られる傾向の中に、「預言のミニストリー」や「使徒的働きに関するセミナー」などに、人々が集まり尊ばれています。何故このような集会に、多くの人々が参加するのでしょうか?それは、「聖霊のバプテスマ」を授かったキリスト者と言えども、自分の将来(未来)において、又今の自分の現状に対して、どのように行動していったら良いのか、殆ど分らない状態にあるからではないでしょうか!そして神の導きと、神の御声を「知る」方法を知らないからです。


 勿論、私たちが「聖霊のバプテスマ」を授かった時に、神の「御心」を100%「知る」機能が、自動的に備えられるのであれば、このような集会は全く必要なくなるでしょうが・・・・。しかし、「神のお告げ」を集会の度に聞くなどの行動よりも、私たちが今為すべき最も重要な行動は、「本当に重要なこと」を教えて下さる聖霊様に、常に依り頼むことではないでしょうか!聖霊様は、あなたに対して常に命じられます。「イエス・キリストと交わりなさい!そうすれば、あなたが何を為すべきか?どのように行動していったら良いかを、父の御心に従って私が教え導きますから、私に従って来なさい!」と。


 私たちは、神の「御声」を聞く方法を知らないから、その「方法論」を求める傾向にあります。しかし覚えて下さい!神の「御声」を聞く方法論など、三次元レベルのマニュアルは存在しません。それを可能ならしめるものは、聖霊を通して備えられる、神との「親しい交わり」以外にあり得ません!ですから、私たちは聖霊様の語りかけに敏感になり、その「御声」に聞き従って歩む時に初めて、イエス・キリストにある勝利者に成り得る!ことを覚えて下さい。


 聖霊の語りかけ(御声)に敏感になる、その重要な鍵となる行動が、「正しい言葉」による交わりです。私たちは、「知性の言葉」で聖霊様と交わることも、ある程度の範囲内で確かに可能ですが、私たちが三次元の判断(知性の思い)で太刀打ちできないような、「言い難き苦難(うめき)」にぶつかった時に、私たちの「知性の言葉」は必ず破綻します。しかし「その時」に、聖霊様は「自らも言い難きうめき」をもってとりなして下さり、新しい「霊の言葉」で私たちの「霊」に働きかけ、そして語りかけて下さいます。この「新しい言葉」という、霊的な「正しい言葉」を用いることで初めて、私たちは本当に重要なこと、即ちイエス・キリストを「知る」ことが可能になります!


 この方の「御心」が、豊かに私たちの「霊」の中に満ち溢れる時、私たちは「命の木」の幹(イエス・キリスト)の「肢体」として、豊かな「義の実」を結ぶ器へと変革されるのです。そうすれば私たちは、罪を犯した時点のアダム(エバ)のようにではなく、罪を犯す以前の彼らに与えられていた、「エデンの園」の霊的次元が回復し始め、彼らが本来持つべき(受け継ぐべき)であった、もっと更なる奥深い霊的次元にある、イエス・キリストとの更なる「完全な一体化」が、私たちにも約束されていることを覚えようではありませんか!


 私たちが、イエス・キリストを「知る」こと以外に、私たちの心を捕らえて放さないものが無きよう、聖霊様は今も尚強く働かれ、そしてとりなして下さっています。ですから、私たちは更にイエス・キリストを「知る」ことを、本当に重要なこととして教えられ、霊と真をもって捜し求めていくことができますよう、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


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