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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

復活の福音(No.30)

              永遠の命を刈り取りましょう!




・・・・互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。・・・・めいめいが、自分の重荷を担うべきです。・・・・思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。・・・・この私には、私たちの主イエス・キリストの他に、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、私は世に対して磔(はりつけ)にされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。・・・・兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなた方の霊と共にあるように、アーメン。
                                                                                                                  【ガラテヤ書6章】


「死」は死で終わらない!
 イエス・キリストの十字架の「贖い」を通して、私たちに与えられる「永遠の命」は、私たちキリスト者ばかりでなく、霊的に死に行く者(求道者)にも、イエス・キリストの「復活」の福音を信じることで、必ず与えられるものです!私たちは、イエス・キリストの「復活」に伴う約束の成就として、イエス・キリストの「十字架」の死を通して現された、「復活」の救いの力が、今も尚、私たちの実際生活の中で有効であること、またイエス・キリストの「十字架」の恵みを、全ての人々の中において現す時に、イエス・キリストの「復活」の御業が、大いなるものとして現れ出ることを、「上(天)」よりの信仰を通して信じています。


 パウロは『ガラテヤ書6章』において、私たちにも「勇気を出しなさい!」と励ましています。特に15節において、「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造される」ことが、一番大事なポイントとして力説しています。そうでなければ、この世の人々は「私たち(キリスト者)」を見ようはしません。


 ご存知のように、世の人々が恐れる次元は、「死」そのものです。しかし私たちの場合は、たとえ如何なる状況下にあっても、たとえ「死」を前にしても、私たちには「何」の恐れもありません。何故なら、いずれ「神の時」来たりて、花婿なるイエス・キリストと、「顔」と「顔」を合わせて相まみえる等、「上(天)」よりの信仰によって生きているからです。


 この世に「生(命)」を受けた以上、全ての人が、この「死」から免れることが出来ません。しかし、私たちに与えられている「復活」の福音は、「死」は死で終わらない!という、神の真理に基づいています。即ち、私たち「人」が死んだ後には、必ず二通りの道(門)が用意されていることです。それは①永遠の滅び(地獄に至る道)か、それとも②永遠の御国において実現する、御子イエス・キリストとの「親しい交わり」、この二つの道のことです。


 ですから、「死」は死で終わりではありません!私たちキリスト者は、この真理を大胆に宣言すべきです。パウロは明確に、イエス・キリストのことを述べています。即ちイエス・キリストが、ご自分の「死」を通して、本来私たちが受け継ぐべき、霊的な祝福に至る大いなる天の遺産を、再び私たちの元に取り戻して下さると。


 そうです!イエス・キリストは「永遠の命」に至る、素晴らしい御国における特権を、約束の成就のしめくくりとして、必ず用意して下さるのです。イエス・キリストは、全ての「死」を打ち滅ぼし、私たちを「罪」を冒す以前のアダム(エバ)よりも、更に優った麗しい「キリストの花嫁」として、新しく創造して下さる!こと、これが「復活」の福音の「最終条文」です。


新しく創造される
 では私たちは、どのようにして新しく創造されて行くのでしょうか?聖霊(御霊)によって産れる者は、聖霊によって日々、新たに造り変えられて行きます。完全に打ち滅ぼすことの出来ない「罪」もありますが、そのような「罪」をも、自分の人間的な業によらず、肉的な行いや業によらず、ただ聖霊によって生きる時に、私たちは自然と贖いの子羊、イエス・キリストの血潮によって聖められて行くのです。


 私たちが無代価で、神の「恵み」を受け取る時、私たちが為すべきことは只一つ、それは御子イエス・キリストの、永遠に変らぬ「恵み」の御業を誉め讃えることです。そうです!日もすがら夜もすがら、主なる神を賛美し礼拝することで、私たちキリスト者が新しく創造された民、つまりイエス・キリストの証し人としての、聖なる務めが全されるのです。


 「キリストは、死を完全に打ち滅ぼした!」こと、この大いなる「復活」の福音を、私たちは大胆に証言しましょう。そして「死」を打ち滅ぼされた方が、尚も私たちのために相働きて益として下さり、私たちを日々新しく造り変えて下さる、この大いなる「恵み」の御業を、私たちは声高らかに賛美して参りましょう!


 パウロは7~9節において、私たちに与えられている「言葉」と「行い」は、霊的に見て植物の「種」のように働くと説明しています。私たちが、どのような「種」を蒔くかによって、その刈り取ったものも変化します。私たちの日々の「歩み」というものは、人間的な「肉の眼」において、何も変わらず坦々と過ぎ去っているかのように映ります。しかしパウロは明言します。「たゆまず善を行いましょう。」と。何故なら「全て」のことが種蒔かれると、良きにしろ悪しきにしろ、必ず刈り取ることになるからです。同様に私たちの「歩み」も、聖霊によって日々新たにされているのです。


 その創造のプロセスにおいては、植物の成長と同様に、結実までのスパン(期間)が、非常に長くかかる時もあるでしょう。しかし、イエス・キリストは絶えず、私たちにメッセージを投げかけています。「あなた方は決して、目の前の現実(現象)に捕われてはなりません。如何なる状況下にあっても、日々天上から降り注ぐ、マナ(命の言葉)に感謝しましょう。あなたがカナンの地に至るためには、更に霊的に砕かれ、日々新しく創造されていく必要があるのです。そうすれば、カナンの地であなたは、ようやく『主なる神こそが、真に偉大な方である!』と、霊と真をもって礼拝することが出来るようになります。ですから、今のスパン(霊的訓練の時)を感謝しましょう!」と。


 覚えて戴きたいことは、「肉の種」を蒔く者は、それがたとえ些細な事であっても、必ず「滅び」に至ります!私たちが蒔くべきものは、聖霊によって導かれつつ、完全に「天」より与えられるものだけを、主なる神に捧げながら、「感謝」をもっ生きて行くことです!


 「新しく創造される民」は、如何なる目的によって、新しくされているのでしょうか?それは、主なる神を礼拝するためです。私たちが讃えるべき方は、ただ主イエス・キリストお一人です!それ故、主イエス・キリストのみを賛美する民として、私たちが新しく創造されているのです。「自分」を誇る(讃える)ことは簡単です。しかし、主イエス・キリストのみを讃え続けることは、中々難しい次元にありますが、私たちの「血肉」の努力に頼らなくても、聖霊なる方は私たちを常に導いて下さいます。


 ところで「福音」の種を蒔くとは、如何なることでしょうか?パウロが「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。」(9~10節)と勧めるように、日々「天」より与えられる「マナ」を、主なる神が導いて下さる人々に対して、必要な「恵み」として私たちが施す(分かち与える)時に、必ず新しい民が豊かに増し加えられることになります。


 それと同時に私たちは、「私たちの主イエス・キリストの他に、誇るものが決してあってはなりません。」(14節)と、パウロが明言する次元に生きていることも、忘れてはなりません。それ故、私たちが今後為すべきこと、又これから多くの人々に対して、神の祝福を分かち与える時にも、決して世的な方法を用いるべきではありません。


 そうです!私たちが為すべき日々の務めは、日々の糧(恵み)を与えて下さる、父なる神に「感謝」の生贄を捧げ、惜しまずに「天の恵み」を与え続けることです。ですから私たちは、もはや懼(おそ)れる必要が無く、毎日の歩みを着実に歩んでいくこと、これが私たちの蒔く「福音」の種です。


 いずれ「この世」は、私たちを更に憎むことでしょう。又私たちも、「この世」から更に分離されて行くことでしょう。だからと言って私たちは、押しつぶされることは決してありません!それ故に私たちは、日々与えられる「復活」の福音を携える者として、弛(たゆ)まず蒔き続けましょう!


 あなたの「霊の眼」は、常にイエス・キリストの麗しく、聖なる「御顔」を捕えて離さないように。そしてあなたが、イエス・キリストの「十字架」の死を帯びる者として、更に新しく創造されて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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