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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.44)

                               父に至る道




・・・・私の父の家には住むところがたくさんある。・・・・私がどこに行くのか、その道をあなた方は知っている。・・・・私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。あなた方が私を知っているなら、私の父をも知ることになる。今から、あなた方は父を知る。いや、既に父を見ている。・・・・私を見た者は、父を見たのだ。・・・・私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。・・・・もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。私を信じる者は、私が行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。・・・・私の名によって何かを願うならば、私がかなえてあげよう。
                                                                                               【ヨハネ福音書14章1~14節】


「道」の意味する様々なイメージ
 イエス・キリストはご自分のことを、「道(the way)」という喩えを用いながら、「私こそ真理であり、命に至る道そのものである。この私という道を通らなければ、永遠の命という、最高の保証を提供して下さる方、即ち父なる神の御元に行くことが出来ない!」と福音を語られています。


 ご存知のように、「道」という言葉を使用する当たり、私たちは二通りの用い方(意味)で使用しています。先ず第一に、「武士道」や「私の信じる道は・・・・」といった場合、これは「生き方」を意味する言葉として、「道」が喩えられるものです。


 余談になりますが、「私流の・・・・」といった言葉の場合も、何となく「生き方」を意味する言葉の一つとして、私たちは用いていますが、「~流」の場合は、「水」の流れをイメージすればお分かりのように、それは不変的な言葉ではなく、状況(所)によって、様々に変化してくる場合に、用い易い「生き方」の表れではないでしょうか。それに対して「私の道」は、決して状況に左右されること無く、ある種の「義」を貫く、不動の「生き様(生き方)」を表すものです。


 そして第二の用い方、これは実際上の物理的「道路」を指します。私たちは普段、「道」の有り難味を感じることなく、平然と使用していますが、仮に「道(歩道)」が全く存在しない、山林や平原を歩くとしたら、障害物だらけで到底進み行くことの出来ない、阻まれるばかりの状況に陥ることになります。覚えて戴きたいことは、「道」の始まりといものは、最初の人が障害を乗り越え(除去し)、どうにかしてでも歩み続けた結果、次の人も歩み続けることが可能になる!という点です。


 同様に、イエス・キリストが明言される「道」に関しても、「最初の人(アダム)」は途中で、神が敷いた「道」から逸脱したにも関わらず、「次の人(最後のアダム)」であるイエス・キリストが、ご自分の十字架上による、「贖い」の御業を通して、「唯一の道」を完成して下さった結果、私たちも「唯一の道(イエス・キリスト)」を歩むことが可能になっているのです。


 ところで「鉄道」や一般「道路」、そして「航路」に至るまで、実は「道」というものには、必ず「始点(起点)」と「終点」という、二つのポイントがあります。イエス・キリストも、ご自分のことを「アルファ(始め)」であり、「オメガ(終わり)」であると紹介しています。今回イエス・キリストが語られた「道」も、実は以上述べました「道」に関する、具体的な「道」の持つ特性(特徴)や、イメージを理解していなければ、その奥義が浮かび上がってきません。それ故私たちは、更に聖霊様を通して「正しい道」に導かれつつ、今回イエス・キリストが語られる、「道」について教え示して戴きましょう。


「命」に至る道を完成すべく
 ご存知のように、当時のイスラエル民族における、「生き方」の基礎となる生活形態の全般は、ローマ帝国の圧制に苦しむ一般民衆にとって、帝国からの独立を求めて、様々に引き起こされるテロリズムの中で、明日をも知れぬ「不安」と「恐れ」の中にあるなど、不安定な状況下にありました。イエス・キリストの弟子たちも同様で、イエス・キリストという、最高のリーダーが、常に側に居て下さるにも関わらず、いつも心騒がせながら、自分勝手に「己の道」を捜し求めるという、バラバラな生き方の中にあった訳です。


 しかしイエス・キリストは、すぐにも散らばる蜘蛛の子の如き彼らに対して、「父と子は常に一つである。それと同様に、私は常にあなた方と共に居る。今こそ、私たちは一つの群れとなって、神の国と神の義を求めようではないか!」と叱咤激励の言葉を、何度も語られたのです。そして、今回語られている御言葉のイメージは、更に「父」と「子」の関わり方を、心騒がす彼らに対して、暖かな「家庭(ホーム)」のイメージをもって説明しました。


 ところが弟子たちは、依然としてイエス・キリストの語る、「神の国」の麗しい家族的イメージが理解出来ませんでした。それ故イエス・キリストは、6節において「私こそ真理であり、命に至る道である!」と強調した訳です。ここでイエス・キリストは、「命」に至る道を完成するには、「命」の贖いが為されるべきである!このことを奥義として語っています。何故なら、「父なる神」と「私たち(人)」との間には、アダム(エバ)の犯した「罪」により、その「永遠の命」に至る道が崩落し、遮断された状態(通行不能)になったからです。


 道を新たに造り直すためには、例えば大きな絶壁に囲まれた渓谷を挟んで、丈夫(強固)な「橋梁道」をかける程、それは困難窮まるものであり、多大な「犠牲」を強いる、命がけの工事(作業)を要します。それをイエス・キリストは、ご自分の「命」の贖いにより、一度の死で完成して下さったのです。イエス・キリストが完成された「唯一の道」、つまり「キリストの道」を歩む時に、私たちは「終点」なる父の御元に辿り着くことが出来るのです!


「キリストの道」を辿る
 「私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。私があなた方に言う言葉は、自分から話しているのではない。私の内におられる父が、その業を行っておられるのである。」(10節)私たちが、「イエス・キリスト」を信じるということは、「真理」に至る道、「命」に至る道を辿ることで、最終的に永遠の「安息」の中で生きる、「通行許可証(パスポート)」が付与されることです。「私の内におられる父」という部分を、「私の内に道を備えられる父」と置き換えると、更に10節の御言葉の奥義が分り易くなります。


 私たちが「イエス・キリスト」を、人々に語る(宣べ伝える)際にも、「キリスト教(教え)」ではなく、「キリストの道」というイメージで、「証言」を語っていく方が、より理解され易いのではないでしょうか。「私の(人生の)歩みを確かなものとし、私の生活を豊かに保証し、心騒がさせることが無くなる程の愛をもって、暖かく迎え入れて下さる、イエス様がいらっしゃるのです!」と。


 このように、私たち「キリストの家族」にとって、常に一つの「道」が用意されます。それは「キリストの道」です。そして、この「道」を歩む私たちの「道(生き方)」とは、「常にイエス・キリストと一つであり、イエス・キリストと共にある!」というメッセージを携え行く、「キリストの証人」としての道です。そうです!私たちは常に、永遠に変わらぬ「キリストの道」を、高らかに宣言しましょう。イエス・キリストの「御名」によって願うことが全て、父なる神の御心の中で成就されること!を、是非信じて下さい。イエス・キリストがいつも、あなたと共におられ、あなたの歩む全ての「道」において、聖霊様の導きの中で、父なる神の「栄光」が現れることを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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