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復活の福音(No.29)

                          神に対して生きる




私は神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。私は、キリストと共に十字架に付けられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
                                                                                                   【ガラテヤ書2章19~20節】


私たちの「人生」の方向付け
 新共同訳で「私は神に対して生きるために」(19節)と訳している部分を、新改訳では「神に生きるために」と訳していますが、新共同訳は明確な「方向付け」を、私たちに与えているのではないでしょうか。ご存知のように、私たちは「人生」という船出が、神の「命の息」によって、母の「胎」の中に形造られた時から始まっています。


 そういう意味で、私たちが「神」に対して生きているのか、それとも「自分(自己)」に対して、或いは「別のもの」に対して生きているのかが、実は問われているのです。パウロは明確に説明します。つまり、私たちが救われたその正しい理由、即ち霊的な「方向性」を、明確に教え示しているのです。


 そこで、私たちが先ず学ぶべきことは、イエス・キリストの「復活」の恵みを通して、私たちが「血肉」によらず、ただ「上(天)」より与えられる、聖霊様の取扱いを受けることで、様々な悪しき誤った方向付けが、イエス・キリストの十字架の「血潮」により、聖められていくことである!この点を常に覚えて下さい。そして、私たちの中にある「滅ぼし尽すべき部分」を正しく知り、聖霊様によって除去して戴くことです。


滅ぼし尽くすべきもの
 先ず、私たちの「滅ぼし尽すべき部分」とは、パウロの言及によれば、一言で「律法」そのものである!と説明しています。ご存知のように、パウロは「律法」に精通し、「律法」そのものを黄金の如くに愛し、かつ遵守した第一人者でした。しかし彼は、イエス・キリストを「救い主」として信じた時から、その「律法」を一切魅力無きものとして、全て捨て去るべきものとして取扱いました。


 ところで、私たちの「現実生活」は、如何なる生き方でしょうか?「律法」そのものに縛られてはいませんが、「事実」としては、様々な「この世」的な考え方、古い「習慣」や「伝統」、そして「ルール(規範)」などに束縛された状態にあることを、私たちは知っています。だからと言って、そのようものが私たちにとって、全て必要無きものである!と、パウロは説明してるのではありません。


 パウロが言わんとすることは、私たちの信仰生活の中に、そのような「律法」的な生き方を混入させてしまうと、それはイエス・キリストが望んでおられる、「復活」の素晴らしい「恵み」にあずかる生き方ではなく、むしろ更に自分自身を縛り上げ、「全て」が内なる方向、つまり「神」に対してではなく、「自分(自己)」に対して生きるようになり、最終的には「律法」の世界の中でしか、生きざるを得なくなる!ということです。


 「律法」の世界の根本精神、それは「自分に対して生きる!」という考え方です。また「自分」のために、都合の良い解釈とイメージをもって、身勝手に生きようととする姿勢のことです。そのような愚かな状態を、打ち破る(滅ぼし尽す)ためにも、イエス・キリストは、ご自分を「十字架」上に捧げ尽くすことで、「死」の道を選択しました。


 覚えて戴きたいことは、私たちの「霊」の中にある、「古い自我」を支配している、その原因の一つが、やはり「律法」である!という点です。本来神が与えて下さった、この「律法」を自分流に解釈し、「自分」のために都合の良い生き方をすること、それがあたかも「自分は自分の意志で、自由に生きている!」と思っていても、実は「律法に支配されて生きている」ことに、誰も気付いてはいません。


「神」に対して生きる
 昔と違って現在は、至る所(もの)に様々な「情報」が満ち溢れています。そして私たちは、この状態を当たり前の如くに受け留めています。しかし実は、私たちは大事なことを見失っているのです。イエス・キリストは、そのような「古い自我」に生きている、愚かな私たちを贖うべく、「上(天)」より遣わされた聖霊様を通して、新しい「生き方」を提供して下さいます。つまり私たちが、新しく召し出さていくために必要な、ある重要な「方向性」を、パウロは今回の御言葉で教え説いているのです。


 彼は、その前提として「私は神に対して生きるために」と、明確にその「目的(方向性)」と述べています。神に対して生きること、これを具体的にパウロは、「神」に対して自分を相対すべく、私たちは先ず第一に、自分自身のありのままの状態を、聖霊様を通して知ることから始めるべきである!と教え示しています。


 ご存知のようにパウロは、イエス・キリストを「救い主」として受け入れる以前は、「律法」にのみ相対する生き方を貫きました。しかし、彼はイエス・キリストとの、劇的な霊の次元での出会いによって、それまでの生き方を、180度転換せざるを得ない霊的体験を、「その時」に経験しました。それは以前の自分が、「イエス・キリスト」を偽り者と断定し、イエス・キリストを信じるキリスト者たちを、様々な方法で迫害し、「死」に追いやったという、本来はイエス・キリストから、赦してもらえない立場にあるにも関わらず、イエス・キリストは自分のことを、「敵」でも見るかのような眼差しでは、決して見られなかったという体験でした。


 イエス・キリストは、パウロの「眼」をまっすぐに見つめ、彼の「霊」をしっかりと受け留め、大きな御腕をもって、彼を抱きかかえて下さる、つまり自分が「失われた羊」から、「見出され救い出された羊」というイメージを、この時から与えられたのです。そして、この時からパウロは明確に、自分が「律法」において死んだ者であるが、今度はイエス・キリストの「十字架」の恵みにより、イエス・キリストと共に甦った(復活した)!と、捉え直すようになったのです。


 あなたは果たして、「十字架に磔(はりつけ)にされた自分」のイメージが、霊的に見えていらっしゃいますか?「十字架上の私(あなた)」が見えている人は、もはや「自我(自己)」に死んでいる者です。仮に「自己」のみが見えるのであれば、それは未だ「肉」的な闘いの中にある者です。しかし、「肉」において完全に死んだ者は、常にイエス・キリストが「死んだ私(あなた)」を抱きかかえ、その聖なる「王衣」をもって覆って下さり、常に父なる神に対して、力強く「私(あなた)」のために祈って下さる、「贖いの子羊(イエス・キリスト)」の御顔の、イメージのみが見えます!ですから「神」に対して生きるのか、「己(自分)」に対して生きるのか、この方向付けが明確に区分される必要があるのです。


 続いてパウロは、私たちが「神」に対して生きるようになるべく、ある方向性を教え示しています。「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられる」(20節)これが、今回の御言葉の最も重要となる奥義です。では、神の「御子(イエス・キリスト)」が、自分の「霊」の中に生きていることを、私たちは如何なる時に認識するのでしょうか?


 即ち「救い主」イエス・キリストが、①あなたの「霊」の只中に、②あなたの「人生」の全ての中に、③あなたが今後体験する、様々な「歩み」の中に、生きた神として、贖い主として、癒し主として、大いなる復活の「恵み」の数々を注いで下さることを、あなたは常に確認していらっしゃいますか?この霊的認識が、仮に薄い(少ない)のであれば、私たちは「自分」に対して生きていることになります。


 勿論パウロは、私たちの霊的「弱さ」を知った上で、この奥義を述べている訳ですが、私たちは「神」と「自己」の比重の、どちらが増しているかを、常に聖霊様を通して知らされる必要があります。そして私たちは最終的に、「私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(20節)という、神との奥深い「親しい交わり」の領域へと導かれるのです。


 ご存知のように私たちの「信仰」は、二通りの方向性が用意されています。それは、「神の子」に対して向かう信仰と、「自分」中心に対して向かう「信心」のことです。どちらを選択するかは、私たちの側にありますが、聖霊様は私たちが「神の子」に対して、常にストレートに相対し、「上(天)」よりの信仰、即ちイエス・キリストの信仰を、絶えず求めるように導かれます。


 そしてこの「信仰」故に、父なる神が「御子(イエス・キリスト)」を、惜しみなく私たちに対して、「贖いの子羊」として与えて下さったのと同様に、私たちもイエス・キリストに対して、「イエス・キリストのために、自分の命をお使い下さい!」と告白しながら生きることが大事です。そうです!あなたの「人生」の全てが、イエス・キリストにあるのです!あなたの「命の源」は、全てイエス・キリストにあります!そして、あなたの「生涯」に渡って、「全て」誇るべき方は、イエス・キリストだけです!


 私たちは「何」に対して生きるのでしょうか?それは常に、「神」に対して(向かって)生きることです。何故ならば、父なる神の「御顔」は、いつもイエス・キリストを通して、私たちに向けられているからです。あなたが、誤った「肉の眼」ではなく、聖霊様が与えて下さる、正しい「霊の眼」をもって、この世の「出来事」を正しく捉え、この世に生きる「人々」のために、とりなしの祈りを捧げながら、イエス・キリストによる「命の水」を、豊かに流す「神の器」として、聖霊様を通して聖められ、かつ整えられることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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