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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

復活の福音(No.28)

                        新しい人生の目的




その一人の方は、全ての人のために死んで下さった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活して下さった方のために生きることなのです。それで、私たちは、今後誰をも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
                                                                                               【Ⅱコリント書5章15~17節】


二つの「人生」
 私たちには、父なる神が「命」を与えた時から、実は二つの人生が用意されています。先ず第一の人生は、各自に定められた「肉の齢(寿命)」に従って、淡々と生きていくものです。しかし、私たちイエス・キリストを信じる民にとって、この第一の人生が、余り意味をなさないもの(有限のもの)であることを、十分に知っています。即ち、私たちの「霊」そのものが、イエス・キリストの捧げられた、貴い「贖いの犠牲」により、私たちには新しい人生(第二の人生)、それも終わり無き人生、つまり最終的には御国において、イエス・キリスト(花婿)との婚宴が、永遠に続く人生が与えられることを、何よりも一番に欲しているのです。


 パウロが今回述べている、「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(17節)の御言葉の中にある「新しい人生」が、まさしく「終わり無き」、霊的次元にあることを物語っています。そして私たちには絶えず、この二通りの人生が用意されているのですが、第一の人生という、古き次元(三次元)にある「人生」の概念を、イエス・キリストの復活の御業を通して、ことごとく捨て去ること、これが今回の奥義の中心テーマです!


 そうです!私たちの「人生」の目的は、今までの古き人生の「目的」を、ことごとく排除していくことから始まります。即ち、私たちが「失せよ(消え去れ)!」と、イエス・キリストの御名によって命じるだけで、それは消え去っていくのです。それと同時に、私たちの新しい人生の「目的」に関しては、父なる神に対して「与えて下さい!」と、純粋に願い求めなければ、サタンは常に間違ったものを用意することになります。


 私たちの古き人生に付きもの、それは肉体的な「死」です。そのため私たちは、「死」が人生の「ゴール」であるかのように錯覚します。しかし、私たちの「救い主」イエス・キリストは、この「死」を滅ぼすために地上に来られた方です!即ち神にとって「死」は、決してゴールではありません。


 ところが「この世」に生きる人々にとって、「死」は逃れられない人生の「終点」であり、そのために様々な「人生設計」を構築することに明け暮れます。つまり、「人生」を自分のために使う生き方を貫く訳です。しかし、パウロは明確に述べています。「その一人の方は、全ての人のために死んで下さった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活して下さった方のために生きる」(15節)、即ち「イエス・キリスト」のために生きる人生、これが私たちの新しい「人生」の目的である!と。


 自分のために、自分の「人生設計」を構築する人の生き方の特徴、これは「生きている間に、出来るだけ~を達成しよう!」と欲するなど、人間的な「肉の業」を、少しでも完成しようとする心の「弱さ」から生じます。しかし、聖霊様が提示して下さる「イエス・キリストのために生きる」とは、自分自身の「罪」の全てを贖って下さり、「死」ではなく、「復活」の新しい体を与えて下さった結果、人生の「目標(ゴール)」が限り無き、永遠の御国にまで続くという、新しい「希望」に満たされる時、もはや「自分のために生きる」生き方が、無意味なものに思えて、自然と放棄できるようになり、「イエス・キリスト」と共に歩む人生へと、切り換えられていくことです。


キリストに結ばれる「生き方」
 パウロは16~17節で、更に詳しく説明します。「肉」によって知ろうとはしない部分を、新改訳聖書では「人間的な判断(標準)」で知ろうとはしないと訳していますが、まさしく新しい人生に生きる人の人生観が、神の次元へと移されていることが分かります。ところが「古い人生」に生きる人々は、相も変わらず「人間的なもの」に依り頼み、自分の肉の「判断(信念、価値観)」を最高のものとして、自分の「人生」の基(もとい)に据えます。


 続いてパウロは、この人間的な「判断(基準)」によっても、主なる神を知ろうとはしない!と宣言しています。実は私たちの「信仰」の殆どが、「人間的なもの」を頼みとして、意気消沈していると言えるのではないでしょうか。ところがイエス・キリストは、そのような愚かな私たちに対して、絶えず聖霊様の取扱いをもって、正しい道へと導いて下さいます。


 「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(17節)の御言葉の中で、新改訳が「誰でもキリストの内にあるなら・・・・」と訳している部分を、新共同訳では明確に「キリストと結ばれる人は誰でも」と訳しています。これは原語的には「キリストと連結する(join to Christ)」という意味で、「列車」の連結の動きをイメージすると、より分かり易くなります。


 即ち連結される車両は、牽引するエンジン(石炭、ディーゼル、電気)駆動列車と連結されることで初めて、今度は自ら何も動かずとも、先頭の牽引列車に導かれて動くことになります。同様に、イエス・キリストと「結び合わされる」とは、私たちの古い人生という単独列車が、自らの「力」で動くことを放棄し、今度は「イエス・キリスト」という名の、強力な(馬力のある)牽引列車に、しっかりと連結されることで、新しい人生という軌道上を、確実に進み行くことが可能になるのではないでしょうか!


 それ故に私たちは、常に「イエス・キリスト」と連結されている「自分」の姿を、霊的に描く(意識する)ことを求めるべきです!そうすれば私たちは、決してサタンのもたらす、「古い生き方」のベースにある、人間的な「判断(基準)」に依り頼むことは無く、むしろ神との「親しい交わり」からもたらされる、天の次元にある基準(霊的な啓示、霊的洞察など)をもって、「全て」の物事を知ろうとする生き方へと、必ず変化してゆくのです。


 また私たちが、新しく創造された「神の民」である!ことを、いつも意識して下さい。では如何なる創造が、私たちにもたらされるのでしょうか!それは「古き人生」にグッバイし(別れを告げ)、今度は「新しい人生」という霊的プロセスにおいても、「花婿なるイェス様、どうぞ来て下さい!私の人生に、新しいことが創造され始まりました。どうぞ、あなたの新しい事実を、次々と起こして下さい!」と宣言できる程の、神の国の「保証」が約束として与えられることであり、これが「神の民」の新しい人生です。


 たとえ私たち「神の民」が、旧型の蒸気機関車の如くに、スピードが遅い列車であったとしても、「イエス・キリスト」という、「昨日も今日も、いつまでも変わることの無い」、真新しい「救いの列車」に連結されている限り、多くの「失われた魂(迷子の子羊)」を乗車させることの出来る、「エクレシア号」として発車していくのです!


 あなた(私)も、その「エクレシア号」に牽引される一車両です!そして「あたな」の証言を通して、次々と乗車して来る人々に対して、次のように言いましょう!「あなたも、イエス・キリストに連結して下さい!イエス・キリストによって、新しい人生の目的が、豊かに与えられますから・・・・」と。


 主イエス・キリストの豊かな「救い」の御業が、父なる神の永遠に変わらない、「恵み」を通して完成されますように。そして聖霊様による、「イエス・キリスト」との連結の取扱いが、更に麗しく豊かなものへと、日々聖められて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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