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命と心の健やかなる成長のために!
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キリストの家族(No.42)

                  贖いのシンボル「十字架」




私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。私には、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。私は命を、再び受けるために、捨てる。それ故、父は私を愛して下さる。
                                                                                             【ヨハネ福音書10章14~17節】


「十字架」のシンボルが示すこと
 私たちは「十字架」のシンボルが、如何なる意味を持つのか、十分に知っています。ご存知のように「シンボル(象徴や標識)」は、何らかの「意味(指示も含む)」を持っています。そういう意味で、「十字架」のシンボルは、首飾りなどのデザインを象徴したり、教会堂の一番高い所に建てる、単なる「目印」でもありません。私たち自身が、イエス・キリストの栄光を現すシンボル、即ち「十字架」の刻印を、霊的に常に帯びている(押されている)者であることを覚えて、今回の御言葉に示される、神の奥義について、聖霊様から教えて戴きましょう。


 私たちの人生の霊的「道しるべ」である、この「十字架」のシンボルを、常に私たちの信仰生活の「歩み」の、先(前)に置きながら前進するのであれば、私たちは安心して進み行くことが出来ます。聖霊様は今回語られている、僅か三節のイエス・キリストの御言葉を通して、実に不思議な「シンボル」を提示して下さっています。


二つの「捨てる」
 先ず、「私は・・・・命を捨てる」という表現が、二箇所記述されていることに注目して下さい。一箇所目の「私は羊のために命を捨てる。」(15節)の中にある、「命を捨てる」の言葉は、文字通り「死ぬ」ことを意味します。つまりイエス・キリストは、彼ら(私たちも含む)のために、ご自分の「命」を十字架上に、「贖いの生贄」として捧げることを、預言的に教え示しているのです。そして二箇所目ですが、イエス・キリストは続いて、もう一度念を押すかの如くに、「私は命を、再び受けるために、捨てる。」(17節)と語られました。


 しかし一箇所目の「捨てる(die for~)」と、二箇所目の「捨てる(give up)」とでは、言葉の持つ「意味合い」が違ってきます。誰が教えた訳でもないのに、私たちはギブアップした時に、思わず両手を挙げないでしょうか?不思議なことに私たちキリスト者が、神を賛美(礼拝)する時にも両手を高く挙げます。この「両手(手)」は、良きにも悪しきにも用いられる言葉ですが、例えば自分の「人生」を、自分の力で築き上げる際にも、「私は、自分の手で人生を築いた!」などと表現します。また、自分が一生懸命頑張ろうとする際にも、思わず自分の「右手」のこぶしを、強く握り締めるなどのポーズをとります。


 この二箇所に示される奥義について、先ずイエス・キリストは、自分(己の意志)のために、「命」を捨てるのではなく、あくまで父なる神の「御心(目的)」故に、全ての人々のために「永遠の命」を与える、その代償としてご自分の「命」を、十字架上に奉じることを、第一の「捨てる」使命として語っています。


 そうです!私たちの信じる「十字架」のシンボルは、イエス・キリストがご自身の「貴い命」を、全ての人を救うために、「生贄」として屠られた場所、即ち贖いの御業の「全て」が、ここ(十字架)から発生している!という最高の祭壇であり、私たちの唯一の「信仰の土台」が、このシンボルに示されているのです。ですから私たちは、この「十字架」を見上げる時に、その中から真の「希望」が生まれ、そこに真の「救い(解放)」がある、即ち如何なる状況にあっても、そこが「栄光のフィールド」になるのです。


 しかし、「人の子」であるイエス・キリストにとって、「十字架」上という場(フィールド)は、人類史上最悪の処刑場、「死に場所」でもあります。父なる神の「御心」を成就するという、この一点に従順したイエス・キリストは、両手を十字架の横木に磔(はりつけ)にされました。この十字架上のイエス・キリストのイメージは、ある面で横の贖いという、第一の奥義である霊的シンボルを現しています。


 それに対して17節の「捨てる」とは、イエス・キリストご自身が、明確に自分の「意志(願い)」を、父なる神に表明した言葉です。つまりイエス・キリストは、父なる神に自分の「命」の全てをギブアップする、言い換えれば全面的に明け渡すこと、これがイエス・キリストの生きる目的という、第二の「捨てる」使命であった訳です。


 例えば私たちが、自分の「人生」をギブアップする時、それは何らかの問題(壁)にぶち当たり、自分の「力」では何も為し得ないという、八方塞がりの状況に陥らない限りは、決して言及しない言葉ではないでしょうか?ところがイエス・キリストにとって、この「ギブアップ」は、彼が「生」をこの世に受けた時から、公生涯の全般に渡って、生きる「意味づけ」となる表明でした。つまりイエス・キリストは、常に「上(天)」より新しい力を授かるには、己の中にある「肉の力」を、全て父なる神に明け渡す(放棄する)ことが、何よりも重要であることを、聖霊を通して十分に知らされていたのです。


 イエス・キリストの、父なる神に対するこの霊的姿勢は、彼の公生涯全般に渡って、如実に物語られていることが、各福音書に記述されています。イエス・キリストは、自分の「意志」からは何事も行わず、常に父なる神の「意志」を優先し、その「御心」通りに行うこと、つまり十字架の霊的シンボルの第二の奥義である、縦の贖いをイメージする生き方を貫いたのです。


 熟練した賢いクライマー(登山家)は、たとえ「山」の地形やルートを知り尽くしていたとしても、初心者の如くに「けもの道」を探り求め、その際10~15m毎に、目立つ赤テープや赤紐などで、「目印(道のシンボル)」を木の幹や枝などにくくり付けながら、山頂を目指して登って行きます。何故なら彼にとって下山する際の「帰路」は、その「目印」だけが、唯一「出発地点(ゴール)」に戻れる、贖い(無事生還できること)の道(ルート)のシンボルであることを、謙虚に受け留めているからです。同様に私たちキリスト者も、信仰生活の「歩み(ルート)」や、人生という長い「道のり」においても、このイエス・キリストの「十字架」という、「贖いのシンボル」が無ければ、自分は何一つ何し得ない者である!即ち「全て」のことにギブアップするすることが、「贖いの道」に入る最短ルートです。


「御声」を知る(聞き分ける)
 イエス・キリストは常に、この二つの「捨てる」べきものを、聖霊様を通してご自身の前に提示されることで、忠実に明け渡すという霊的姿勢を貫きました。それ故に最後の試練である、「十字架」上の死をも、乗り越えることが出来たのです。私たちは神との「関係」が、イエス・キリストの十字架というプロセスを通して、常に本来の「正しい位置」において、完成されることが求められます。


 即ち「私には、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(16節)の御言葉に示される如くに、「罪」故にバラバラになった「私たち(霊的な羊)」のことを、イエス・キリストという、霊的な「み体(エクレシア)」を通して一つにするために、必死に十字架上から貴い「血潮」を、霊的に今もなお注いで下さっているのではないでしょうか!それ故に、私たちもイエス・キリスト同様に、神から離れて自分勝手に歩もうとする、「私(エゴ)」の一つ一つを、イエス・キリストの「十字架」上に、放棄する(ギブアップする)ことが、必ず信仰の歩みには求められるのです。


 私たちは、この「縦の贖い」に関しては非常に難しさを覚えます。しかし覚えて下さい!私たちのような、「罪」に深く染まった弱き器であっても、真の羊飼いなるイエス・キリストは、私たちの「先」を歩んで下さっています。しかもこのお方は、まるで赤子に語りかける母親の如くに、私たちにも適切な「お言葉」を、一つ一つの歩みの中で、御声をもって語りかけて下さいます!「その時」に私たちは、大胆に「先」を歩むことが出来るのです。


 そうです!私たちがイエス・キリストの、「御声」を知る(霊的に正しく聞き分けていく)こと、これが私たちが本来の「正しい位置」に立つ、唯一の方法なのです!「縦の贖い」に至るルートは、真の羊飼いイエス・キリストの、麗しい「御声」を求めることから始まることを、私たちは常に覚えましょう!


 イエス・キリストこそ、私の「命」の全てであり、私の「命」の全ては、イエス・キリストの「命」の中にある!こと、これが私たちキリスト者としての「証言」の、核心になっていないのであれば、聖霊様は私たちを、イエス・キリストの「み体」の一つに、霊的に加えることが出来ません。自分の「人生」、そして「命」の全てを、十字架上に捧げ尽くす時に、今まで散り散りであったエクレシアの各個体が、一つの大きな「み体」として、造り変えられてゆくのです。


 先ず自分がイエス・キリスト同様に、「私の人生」を放棄し、横の人間関係においても、「イエス・キリストの死を、この私の中に現して下さい!」と祈り求める時に、イエス・キリストがあなたの「人生」に、「十字架」のシンボルを、聖霊様を通して豊かに現して下さるという、「新しい命」が付与されるのです。イエス・キリストの十字架の「栄光」の訪れと、聖霊様の働きを通して、イエス・キリストの「死」を、帯びる程の「上」よりの力が、あなたに対して十分注がれることを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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