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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

復活の福音(No.27)

                        天の住みかを着る




私たちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。私たちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。・・・・私たちを、このようになるのにふさわしい者として下さったのは、神です。神は、その保証として「霊」を与えて下さったのです。それで、私たちはいつも心強いのですが、体を住みかとしている限り、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。私たちは、心強い。そして、体を離れて、主の元に住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。・・・・
                                                                                                 【Ⅱコリント書5章1~10節】


キリスト者の求める「住みか」
 ご存知のように、私たちは「この世」に生(命)を受けた時から、何らかの「住まい」や「寝る所」があります。そして、私たちキリスト者の場合は、父なる神の「ご計画」の中で、「命」を与えられ、地上の住みかに暮らしています。しかし私たちは、「地上のもの」にではなく、「あるもの」を求めようと、生きる上での「目標」が変化してきます。


 つまり、三次元的なものにではなく、目に見えざる領域にある「天上のもの」、即ち神の臨在されるフィールドと、「親しき交わり」のフィールドをもたらして下さる、聖霊様との「関わり」を求めようとします。パウロの言葉を借りるならば、地上の住みかである「幕屋」を、まるで衣服の如くに脱ぎ捨てて、それよりも更に素晴らしいものを、天から着せられることを欲すること、これが私たちの新しい「目標」です!


 確かに私たちの現実は、三次元的な「覆い」を着せられている故に、物凄い「うめき」を伴う、霊的「苦しみ」の中にあると言えます。これはある面で、私たちが「三次元」の支配から解放され、来る「霊の次元」へと前進していく上で、一つの霊的「プロセス(過渡期)」です。


 しかし、私たちが完全に神の「霊の法則」である、「聖霊」の支配の法則の中で自由に生きる時、「体(肉体)」の贖い、「魂」の贖い、「霊」の贖いという、三つの領域の「贖い」が、イエス・キリストの「救い」を通して完成されるのです。そうすることで私たちは初めて、目に見えるものに依らず、上(天)よりの「信仰」によって歩んでいる、その「喜び」を得ている!と、パウロは述べています。


「新しいもの」を着せられる
 先ず私たちが、「三次元」の法則の支配から解放され、霊的に完全に離脱するためには、「真新しいもの」を着せられる必要があります。そして「その時」に必ず、今まで身に着けた「古いもの」を脱ぎ捨てるのです!霊的な「真新しいもの」は、麗しい「霊の次元」にある生活、住みか、衣服、天上の「食物(マナ)」などを欲する、霊的な飢え渇きから生まれます。その結果、今まで着ていた古い次元の「生き方(住みか、食物、衣服)」が、全く魅力無きものとして、自然に捨て去ることが出来る訳です。


 その過程でパウロは、「私たちを、このようになるのにふさわしい者として下さったのは、神です。神は、その保証として霊を与えて下さった」(5節)と述べていますが、私たちが「神のもの」として、神の「麗しい作品」として完成されるためには、私たちの「血肉」の努力ではなく、「聖霊」という新しい「助け主」が、私たちを完成されるべく、様々に取扱って下さることを、知らなければなりません。ある面で聖霊様の「助け」は、天国の「保証書」の如きものです。


 しかし私たちは如何せん、「地上」に暮らしている限り、様々な「この世」の欲も、サタンの巧妙な働きにより、同時に着せられるという、霊的「弱さ」があります。それ故私たちは、「聖霊」によって歩くことのできる、「信仰の足」が備えられているにも関わらず、一歩ずつ前進することよりも、むしろ後退することを得意とします。


 ですからパウロは、私たちに強く命じます。私たちの三次元的、かつ物理的に支配する、様々な「古い衣」を、イエス・キリストの血潮をもって脱ぎ捨て、聖霊様に対して更なる、全ての「体」の贖いを、祈り求めるべきである!と。そうです!私たちは、信仰をもって「聖霊」という、麗しい天の「保証」を求めましょう!そして、私たちの「弱さ」の全てを、聖霊様に明け渡しましょう!


 そうする時に聖霊様は、私たちに必要な一つの「道しるべ」を、必ず示して下さいます。主イエス・キリストが昨日も今日も、いつまでも変わることなく、私たちのことを愛して下さる「理由」は、ただ単にご自分が創造したという、一種の責任感から愛するのではなく、一頭の「子羊(私たち)」が、たとえどんな状況下にあっても、例えば断崖絶壁の只中にあっても、わざわざ危険を冒して、私たちの所まで降りて来て下さり、ご自分の左手で、しっかりと抱きかかえて下さり、再び「平安」の場へと導いて下さる!など、「熱情の愛」をもって愛して下さるからです。また大いなる「犠牲」の中に立つ、それも喜んでご自分の、貴い「命」を捧げることを、常に願われているからです。


目に見えざる「天の住みか」を求める
 聖霊様は、常に私たちに訴えます。「目に見える現象(現実)に捕われるのではなく、救い主イエス・キリストが、私たちの先を歩まれていることに、霊の眼を向けなさい!そのイエス・キリストと共に、あなたは歩んでいるのです。このことを信じて、あなたはイエス・キリストに、付いて行くでけでよいのです。」と。パウロは、「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」(7節)と、明確に私たちの「信仰」を刺激しています。そうです!私たちは、「目に見える事実」によって歩んでいるのではなく、聖霊様が「目に見えざる領域」へと、導いて下さることを信じて歩む、イエス・キリストを「頭」とする、「キリストの家族」なのです!


 私たちの「歩み」には、いつも目の前の「現実」を見て、様々に悲観する習慣があります。ところが、父なる神が用意して下さる、目に見えざる「霊の次元」においては、私たちを更に奥深い領域へと導き、神の「御心」の中で豊かに成長させ、最終的には「聖められた器」として、「体」・「魂」・「霊」の贖いを完成して下さいます。そうです!主なる神は私たちのことを、「栄光」から「栄光」へと、ご自分の似姿に造り変えて下さる方です。


 私たちは「目に見えるもの」に依らず、聖霊様が与えて下さる「霊の眼」をもって、明確に三次元的なものを、霊的に支配することの出来る「信仰」が、「天(上)」より豊かに注がれる時に、私たちは聖なる「キリストの花嫁」へと、必ず変革されて行くのです。


 あなたが、天(上)よりの「信仰」によって、日々信仰の「歩み」が確かなものとされ、主なる神が「新しいこと」を、次々とあなたの実生活に備えて下さり、また現して下さいますように。あなたが主イエス・キリストと、しっかり結び合わされている限り、あなたとイエス・キリストを、引き離すものは一切ありません。


 父なる神の「聖さ」と、御子イエス・キリストの麗しい「恵み」、そして聖霊様の「保証」を通して、約束されたものの「全て」が、「御心」通りに成就されることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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