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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.41)

                       暗闇に光を与える父




イエスはお答えになった。「私が自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、私の栄光はむなしい。私に栄光を与えて下さるのは私の父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはその方を知らないが、私は知っている。私がその方を知らないと言えば、あなたたちと同じく私も偽り者になる。しかし、私はその方を知っており、その言葉を守っている。・・・・」
                                                                                               【ヨハネ福音書8章54~55節】


聖書が示す「光」とは?
 ご存知のように、父なる神が「万物」を創造された時、先ず第一の御業として、「暗闇」のフィールドの中に、「光よ、出現しなさい!」と命じられました。そして、その瞬間から「光」が出現し、「暗闇」を一掃する程の、「栄光」を伴う神の歴史が始まり、私たち「人」の歴史も、この時を境として開始したのです。


 このように聖書の世界観は、まさしく「光」と「暗闇」という、二極化のイメージで描かれています。そして「父なる神」、「御子イエス・キリスト」、「聖霊なる神」は、霊的に「光」そのものを現しています。私たち三次元に生きる者にとって「光」とは、太陽光や電気照明などの、電気光をイメージしがちですが、神ご自身の霊的属性を現す「光」の場合、それは「真理の光」であり、その中には神の「愛」、そして神の「御心」が含まれるなど、「暗き所(点)」が全く無きイメージ(概念)です。


 ヨハネの言葉を借りるならば、まさしく「光」イコール、御子イエス・キリストのことです。ところが私たちの場合、霊的に「アダム(エバ)」という、「罪の子孫」ですから、自分自身に「栄光(光)」を帰そうと、様々な「誘惑」に駆られながら生きています。


イエス・キリストの「栄光」
 「この世」のスポットライトは、様々な人間的「栄光」に、照準を合わせるのを得意とします。しかし私たちキリスト者の場合は、イエス・キリストの語られた、「私が自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、私の栄光はむなしい。」(54節)の御言葉を、霊的手本として生きるべきです。父なる神にとって「光」とは、御子イエス・キリストの存在を現し、その光がもたらす「栄光」は、全て御子に直結するものです。


 「父」にとって、独り子である「イエス・キリスト」を、「この世」に遣わすことは、心痛ましく寂しさが募ることです。しかし「御子」を遣わすことにより、「光」が本来の働き(役目)を、暗闇に覆われた「世」の中で、より「栄光」あるものとして、為すことが可能になることを、「父」は十分に知っていました。


 暗闇の中で、もがき苦しむ私たちのために、御子イエス・キリストという、「真理の光」を出現せしめた(霊的に与えた)、父なる神の「目的」が、イエス・キリストが今回述べられている、御言葉の中に凝縮されています。私たちが常に描かなければならない、イエス・キリストの「姿(有様)」とは、一体どのようなものであるべきでしょうか?イエス・キリストは、自分自身の「栄光」を求める以前に、父なる神が独り子である自分を、わざわざ「この世」に遣わされた真の目的が、暗闇の中に「光」を現すこと、即ちイエス・キリストそのものが、「真の光」として私たちを、父なる神が定めた正しい道へと導く、言わば光源(霊的な灯火)になるべきことであることを、イエス・キリストは十分に知っていました。


 「光源」は、あくまで「光」を照らし出す源であって、決してスポットライトをあびる立場には成り得ません。それ故、イエス・キリストは霊的な「光源」として、「栄光」を現す(照らす)対象が、「父なる神」であること、これを第一の使命として生きた訳です。またイエス・キリストにとって、「この世」の人々が求める「栄光(栄誉)」は、つまらない次元のものである!と認識していました。


「知る」ことの奥義
 では「暗闇」に支配されやすい、霊的な弱さを持つ私たちの場合、如何なる姿勢で、「光(イエス・キリスト)」を求める(得る)べきでしょうか?イエス・キリストは、「あなたたちはその方を知らないが、私は知っている。」(55節)と語られました。この「知っている」というキーワードが、私たちの持つべき霊的な基本姿勢となります。ヘブル語の「知る」という言葉は、知識として学習したり、吸収することも意味しますが、人間の営み全般に渡って為される、人の基本行動を表しています。その基本行動とは、対象となる相手に①接近し、②実際にその人に触れ、③より深く交わるという、三段階のプロセスを経る行動(アクション)です。


 ですから、イエス・キリストが語る「知る」とは、彼らの主張する「知っている」とは、全く別の次元にあります。イエス・キリストの場合、「私は常に父なる神を、より深く求め、父との親しい交わりにあずかっている。そればかりか、父の御言葉を忠実に受け留め、一つ一つのご命令に従うこと、これが私が生きる目的である!」と大胆に宣言するなど、これがイエス・キリストの語る、「知る」ことの真意です。


 理科(科学)の実験に、次のようなものがあります。ある「光源」の周囲(直前)に、一つの「対象物」を配置すると、壁に「何か」が映し出されます。私たちは、その現象体のことを、「影」と呼んでいます。この「光源」と、「対象物」との距離如何によって、実は様々な「影の実態(姿)」が浮かび上がってきます。例えば、「光源」から「対象物」が離れ、壁に近付けば近付く程、「対象物」としての姿(有様)が、よりリアルな「影」として映し出されます。しかし、逆に「光源」に対して、「対象物」が接近すればする程、「影」は次第に薄れ、最終的には消滅したかに見える程、その「姿(有様)」が薄くなります。


 それと同様に、「私たち」という霊的な対象物が、「光源」なる方イエス・キリストに、霊的に近付いて行けば行く程、「私(エゴ)」という肉なる影は、次第に薄らいで行きます。ところがサタンは、「この世」という壁を用意して、「私」がよりリアルに映し出され、自分にスポットライトが向けられるよう、様々に誘惑してくるのです。それ故に、聖霊様は常に注意喚起します。「光の源なるイエス・キリストに、もっと更に近付いて、より深く知りなさい!そうすれば、あなたは必ず、暗闇に光(イエス・キリスト)を出現せしめた、父なる神の御心の中に、完全に覆われるという恵みに、あずかることが出来るでしょう。」と。


 そうです!私たちが、光の源イエス・キリストの御元へと、一歩一歩近付いて行く時に、たとえ世的な「影」が付きまとったとしても、遂には「光」そのものに覆われるという、霊的次元に到達出来るのです。私たちの「霊」の中に巣食う「暗闇」の勢力を、完全に一掃して戴くためには、「光(イエス・キリスト)」の中に、「私」が完全に覆われる(支配して戴く)必要がある、このことを是非覚えて下さい!


聖霊の助けにより
 イエス・キリストは「真の光」として、私たちに常に叱咤激励を与えます。「あなたが生きるのも死ぬのも、全てこの私が握っている!父なる神のご計画の中にあって、あなたが私の中に覆われ、聖霊によって新しく生きる時に、あなたは私の栄光を投じる器として、召し出されているのです!」と。あなたが光の源イエス・キリストに、完全に覆われていく時に、あなたの中から映し出される「光」の有様は、栄光あるイエス・キリストの似姿だけです!仮にあなたが、イエス・キリストから遠ざかるとしたら、映し出される「姿(有様)」は、この世の中でスポットライトを浴びる、「あなた(エゴ)」自身です。


 「え?この私が、イエス・キリストを現す器ですって!とても、そんな器じゃありませんよ。」などと、思われる方もいらっしゃることでしょう。しかし覚えて下さい!だからこそ、助け主聖霊様が、あなたにも遣わされているのです!助け主聖霊様は、いつも「光」なるイエス・キリストを、あなたの「霊」の只中に、豊かに照射して下さるのです。私たちが、暗闇に支配され易い「弱き器」であっても、私たちの「霊」の只中に至聖所を確立し、イエス・キリストの大いなる「栄光」を、惜しみなく投じて下さる方、それが聖霊様です。


 イエス・キリストは、昨日も今日も明日も、常に生きて働かれ、「親しき交わり」をもって、あたに近付いて下さいます。それ故あなたも、喜んで父なる神の懐に飛び込み、真の羊飼いイエス・キリストの、霊的な「鞭」と「杖」によって、いつも正しく導かれることを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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