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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

復活の福音(No.24)

                         恵みの下に居る




キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなた方も自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエス・キリストに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。従って、あなた方の死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。・・・・かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。何故なら、罪は、もはや、あなた方を支配することはないからです。あなた方は律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。
                                                                                                      【ローマ書6章10~14節】


神の「恵み」の下に生きる時
 ご存知のように、私たちは「命の水」があって初めて、生きることが出来る存在です。霊的な面において、実は私たちキリスト者と、イエス・キリストとの「関わり方(交わり)」にも、同様のことが言えます。即ち、本来「罪人」である私たちは、子羊イエス・キリストの、「十字架」の死を通して与えられる、「贖い(救い)」という、大いなる神の「恵み」の下に居ることで、初めて霊的に生きることが出来る存在なのです!


 また、「イエス・キリスト」というキーワード無くして、私たちの「命」の方向性は定まってきません。そういう意味で私たちが、イエス・キリストとの「関わり」において、正しい「歩み方」、また「交わり」の方法や「考え方」など、全ての生き方について、その方向(軌道)が転換(修正)される時に、本来の「アダム(本来の人)」が受けていた、神の大いなる「恵み」以上の賜物を、私たちも受け継ぐ(享受する)ことが可能になります。


「恵み」の下に生きる意識
 パウロはこの御言葉の中で、先ず第一に「律法の下ではなく、恵みの下にいる」(14節)ことを、私たちが改めて意識することを、強く訴えています。この「恵み」というものを、常に考えながら生きることが、私たちキリスト者の「使命」です。「恵み」とは、本来は受けるにふさわしく無い者、また受けるのに資格が無い者が、一方的な「憐れみ」により、考え(予想)にも及ばなかった方法で、得る(授けられる)もののことです。


 本来の私たちは、「罪」の支配下にある訳ですから、最終的には「死」の刻印が押された者です。しかし聖霊様の「弁護」により、父なる神の御前で私たちは「死」ではなく、イエス・キリストによる「新しい命」を得た者という、逆転勝訴の「恵み(特赦)」を戴きました。これは単なる、「贈り物」の如きものではありません!これは父なる神が、直々私たちに与えて下さった、天の「ライセンス」でもあります。


 その結果私たちは、如何なる「律法」にも支配されることの無い、自由な歩み方が保証されています。本来ならば、私たちは「罪」の奴隷であった訳ですが、イエス・キリストの「死」により無罪放免となり、これから如何にして生きて行くべきか分らずとも、この「ライセンス」を戴くことで、もはや「罪人」のレッテルを貼られることの無い生き方、パウロの言葉を借りるならば、「自由人」として生きることが可能になったのです。


自由な生き方
 スカルの井戸の傍らで、イエス・キリストと出会った婦人の生き方は、かつては「罪人」であった、私たちの生き方を物語っていると言えます。私たちも彼女同様に、イエス・キリストに出会わなければ、彼女以上に「井戸の水」を求めて、日々の生活に苦しむ人生でした。「井戸の水」とは、霊的には「この世」がもたらす、三次元的「利(ご利益)」を象徴しています。そして物理的に「世のもの」は、いずれ枯れ果ててしまうものです。


 私たちも、かつては「この世」のことで、様々に「不安」や「恐れ」を抱いて生きていました。私たちは「霊の眼」では、自分がイエス・キリストの「救い」により、既に贖われていることを確信しています。しかし、ふと「肉の眼」で現実を見てしまう時、「明日の命」や「明後日の命」、そして「一年後の命」、・・・・「老後の命」などと次々に考える、愚かな自分もある訳です。これがパウロの言わんとする、「律法」の下に居る(生きる)者の姿なのです。


 サタンは常に、次のように私たちを脅します。「明日、どうなるか分らないだろう?だから一生懸命、明日のために頑張りなさい!日曜日も、年に一回ぐらい働いたって構わないよ!」と。しかし、イエス・キリストは明言します。「このように、あなた方も自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエス・キリストに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」(11節)と。


 「神に対して生きている」ことは、間違いの無い「事実」であることを、私たちは「信仰」を通して知っています。ところが、実際にはその「事実」を忘れ、常に考えようとしません。イエス・キリストが生きていることは、父なる神の「ご計画」を現すために、即ち父なる神の「恵み」の下に、私たちが生きている(生かされている)ことを証明することでもあります!


 ですからイエス・キリストと、私たちが完全に結び合わされている、父なる神の「み体」の一部分に組み込まれている!という意識を、いつも私たちは考えるべきです。これは決して、義務的行為ではありません!むしろ霊的戦い(格闘)です。それ程にサタンが、絶えず悪しき「思い(考え)」を、私たちの「霊」の中に注ぎ込もうと、様々に試みて来るからです。そして、一旦私たちの「霊」の中に、悪しき「思い」が侵入してしまいますと、私たちは「己」の中にある計画や、野心など肉の意志を刺激し、例えば「~したら、・・・・なるのでは?」などと、サタンは巧妙な罠を仕掛けることで、私たちの「意志(意識、思考)」を、イエス・キリストの「御思い」から引き離そうとします。


義のための道具として生きる
 私たちは将来的に、どのような麗しい「み体」として、イエス・キリスト(花婿)の御前に出るのでしょうか?「その時」に向けて私たちは、自分の「五体」が、「この世」がもたらす、肉的な欲望などに縛られるのではなく、神の「恵み」の下に居る(生きる)者として、次のように信仰を表明するのです!「私たちの全てを、あなたにお委ねします。私の霊と体を、あなたのご計画に用いて下さい!私はあなたの、み体の一部分です。私の霊を更に聖め、命の水をもって満たして下さい!そして、溢れ流して下さい!私は更にあなたと、完全に一つになりたいのです!」と。これが聖なる「考え方」です。


 私たちは、聖霊様の正しい「ガイダンス」の元に導かれながら、私たちの「五体」を、不義のための道具ではなく、神の御前に捧げる義の道具、即ちイエス・キリストの「手」や「足」、聖霊様の「唇」、そして神の「宮」の重要な建材として、霊的に組み込まれている!ことを、常に意識しましょう。


 スカルの婦人は、イエス・キリストを通して、新しい「命の水」を提供された時、「待ってました!」と言わんばかりに、この「命の水」を戴きました。そして彼女は、次のような確信に至りました。「私の過去は死んだ!今生きているのは、イエス・キリストが私の霊の只中に、私の素晴らしい真の花婿として居まして、私を迎え入れて下さっている。私は、イエス・キリストの花嫁として、これから生きます!」と。


 サタンは常に私たちに対して、「マイナス思考」の方へと導きながら、「死」を恐れさせることに努めます。しかし、聖霊様の場合は「否!あなたは、もはやイエス・キリストと共に死んでいる。しかし、神ご自身が死んだあなたを、イエス・キリストの復活と共に生かし、神の恵みの下に生きる者として、あなたを有用な器、麗しいイエス・キリストの花嫁として、迎え入れて下さっているのです。」と、断る度に思い起こして下さる方です。


 イエス・キリストの「死」にあずかることこそ、全ての「復活」、即ち「体」の贖いが確立される、唯一の方法です。イエス・キリストの豊かな「恵み」が、あなたの「霊」を完全に覆い尽くし、聖霊様による正しい、聖なる「考え方」に導かれながら、父なる神の「御心」に添って歩むことが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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