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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.38)

                          父の心に触れる




「・・・・父が私にお与えになる人は皆、私の所に来る。私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。私が天から降って来たのは、自分の意思を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである。私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えて下さった人を一人も失わないで終わりの日に復活させることである。私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである。」
                                                                                               【ヨハネ福音書6章37~40節】


「心」に触れる難しさ
 「触れる」、即ち五感の一つである触覚は、エバが「善悪の木」の実を、直接「手」に掴んだ一例からも分かりますように、実際に何かに触れようとする際の、「意思」の中に働きかける「思い(願い、欲)」は、「知りたい!」という、心の動きから生じているのではないでしょうか!あるものに対する触覚を、手先(指先)で確かめるという行動もありますが、どちからかと言えば実際に「手」に取り、そのものの「品質」の是非(良し悪し)を、更に奥深く知ろう(探ろう)とする、ある種の「探求心」から生じた行動です。


 そして「心」に触れるといった行動は、具体的(物理的)なアクションではありません。それは抽象的な表現で、他者(相手)の「心」に触れることは、非常に難しいことです。ましてや、「父」の心を知ろう(触れよう)とすることは、「子」にとって非常に難しいのではないでしょうか!「幼子」の時には、純粋(ストレート)に「父」の全てを、受け留めることが出来ていたものが、少しずつ成長していく中で、「理性」という知恵が付いて行きますと、「父」の心を理解するのに、フィルターがかかった状態になる現象が起きます。


 「父」と「子」の関係が、幼子の時の如くに、いつもストレート関係であるならば、それは麗しい家族関係を保つことが出来るのですが、現実の私たちの家族関係においては、どちらかと言えば未だもって、父親の心が見えない部分が多くある!と、誰もが思う(感じている)ことでしょう。それでも「子」の側から、「父親」に対して常に抱く願望があります。それは「いつも父親から、自分のことだけは信じて(理解して)欲しい!そして認めてもらい、更に褒めてもらいたい!」などと欲する純粋な「幼心」です。


 では「父親」の側からは、どのような「思い」をもって、「子」に対して接しているのでしょうか?やはり、同様に「子」から尊敬され、「子」の様々な願いに応えるべく、常に愛情を注ぎ込もうとします。ところが「子」が成長し、「大人」の考えで行動(自立)するようになりますと、「父親」との関わり方に、幼子の時はストレートであったものが、何となくぎこちない(ぎくしゃくな)状態になるなど、非常に難しい年頃(反抗期)を迎えます。


 実は、父なる神の「御心」に触れる(知る)際にも、「実の父親(肉親)」のイメージが、父なる神とだぶって重なるために、ストレートな「関わり方(親しい交わり)」に中々入れないなどの、霊的葛藤を覚えることがあるのではないでしょうか!しかし私たち「キリストの家族」が、より豊かな麗しい「神の家族」へと造り変えられるためにも、聖霊様の取扱いを通して、私たちが「父なる神」のイメージを、チェンジする(思いを変える)必要があります。


 それは御子イエス・キリストと、「父」との関わり方を学ぶ中において、必ず麗しい「モデル(雛形)」が、あなたの中に提示されることを信じて下さい!つまり、イエス・キリストが如何なる方法(方向性)で、「父」の御心に触れ、聖霊を通して如何なる行動へと、導かれて行かれたのか?私たちがこの重要な奥義を、霊的に知る(学ぶ)ことによって初めて、私たちは「神の家族」として祝福されるのです。それ故今回は、「父」の御心、意思、願いは、一体如何なるものであったのか?この点について学んで参りましょう。


父なる神の「願い」の本質
 先ず第一に、イエス・キリストは「父が私にお与えになる人は皆、私の所に来る。」(37節)と語られました。イエス・キリストの、この御言葉の中に示される第一のキーワードは、「来る」という動詞です。ご存知のように、幼子の持つ直ぐ(純粋)な一面の中で、一番際立った行動の特徴、それは「父親」の元に何の「隔ての壁」も無く、ストレートに駆け込んで来る!という点です。それと同様に、父なる神が求めておられる、本当の「キリストの家族」、つまりイエス・キリストを長子とする「神の家族」は、必ず「父なる神」の御元へと、ストレートに急いで駆け込んで来る!と、私たちに教え示しています。


 何故「子」は、「父」の元へと駆け込んで来るのでしょうか?それは「いつもお父ちゃんは、必ず(自分のことを)抱っこして受け入れてくれる!」ことを、「子」は生まれつき知っているからです。37節の後半に、「私のもとに来る人を、私は決して追い出さない(捨てない、拒まない)。」と記述されている部分を直訳すると、「本当に大切な存在(愛しい者)として、ストレートに受け入れ、絶対追い払うことはしない!」という意味です。つまり父なる神は、いつでもご自分の元へと、「おいで!」と声をかけて下さり、快く(暖かく)受け入れて下さる!これが「父なる神」が、私たちに対して強く願っておられる「第一の願い」です。


 父なる神の「第二の願い」は、「私に与えて下さった人を一人も失わないで終わりの日に復活させる」(39~40節)の御言葉の中に示されています。つまり父なる神は、ご自身との関わり方において、誰一人として「隔ての壁」が無きよう、ストレートかつ平等に取扱って下さいます。そればかりでなく、一人一人のことを、尊い存在として受け入れて下さり、「終わりの日(完成の時)」には、父なる神が本来願っておられた、「真新しい器」へと造り変えるために、一人も失いたく(漏れてほしく)ない!これが「第二の願い」です。アルファでありオメガなる方は、創造の「始まり」から「完成」に至るまで、私たちのことを片時も忘れること無く、熱情の愛を注いで下さるのです!


 父なる神の「願い」の本質は、先ず第一に私たちが、父なる神の御元に行きさえすれば、「父」は必ず「子」を快く受け入れて下さる、つまり決して追い払うことは為さらない方であること。第二に父なる神の「御心」の本質は、私たちが誰一人として道に迷うことが無きよう、ねんごろに見守って下さり、また安全な人生を保障すべく、「新しい人」へと再創造される「その時」まで、責任を持って取扱いながら、守り導いて下さることです。


 それ故、父なる神の「御心」の次元にあっては、私たちが様々に被る「苦しみ」などの問題も、「全て」がご自身の知ることであり、ご自身の麗しい「愛」を私たちに示すべく、一生懸命に働いて下さること、私たちは是非この点を信じ覚えるべきです。父なる神は、私たちの肉の父親と違って、最後の最後まで面倒を見て下さる永遠の牧者です!


 前述した如く、私たちが不信仰に陥る時には、大抵の場合父なる神を、肉の父親と重ねてイメージするために、霊的に錯覚することから生じています。しかし覚えて下さい!父なる神の「愛」から生じる、その永遠に麗しい「御心」は、私たちを「この世」に産み出した以上、決して無責任に放っておくことはなさりません。常に私たちの「全て」に命ある御業を、イエス・キリストを通して完成して下さるのです。それ故私たちも、常に「父」の御元に行き、「父」の心に触れましょう。


 「父」の心に触れ、「父」の素晴らしいご品性を知った者は必ず、それまでには無い麗しい人生が、約束の保証として用意されます。イエス・キリストとの、麗しい「交わり」を通して、あなたが父なる神の「御心」に更に触れることが出来ますよう、その「備えの時」が聖霊様の取扱いの中で、豊かに整えられることを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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