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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.39)

                               父の面影




イエスは答えて言われた。「たとえ私が自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分が何処から来たのか、そして何処へ行くのか、私は知っているからだ。しかし、あなたたちは、私が何処から来て何処へ行くのか知らない。あなたたちは肉に従って裁くが、私は誰をも裁かない。しかし、もし私が裁くとすれば、私の裁きは真実である。何故なら私は一人ではなく、私をお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。私は自分について証しをしており、私をお遣わしになった父も私について証しをして下さる。」彼らが「あなたの父は何処にいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、私も私の父も知らない。もし、私を知っていたら、私の父をも知るはずだ。」
                                                                                               【ヨハネ福音書8章14~19節】


肉の「証言」と、霊の「証言」の対立
 「面影」という言葉は、一般的なイメージとしては、その人の顔立ち(形、面差し)に似ることを意味しますが、例えば「亡き父の面影」という表現の場合には、その人の持つ以前(過去)の状態(雰囲気)が、誰かに受け継いでいたり、以前の有様(姿)を連想する(思い出す)など、意味合いが抽象的になります。


 今回のストーリーの核心ポイントは、「父の存在」に関する「論証」です。パリサイ派のグループは、イエス・キリストに対して、次々と「事実(証拠)」を並び立て述べることで、イエス・キリストの宣べ伝える、父に関する「証言(福音)」が、偽証であると断定する方向性で反証しています。イエス・キリストに対する、彼らの「反証(非難)」の殆どが、「お前は大工のせがれではないか!」、「お前の言う父とは、既に死んだ者のことであり、ヤーウェであるはずがない!」といった類のものでした。


 するとイエス・キリストは、自分の「アイデンティティ(身分)」を、彼らに証言する際に、いわゆる肉親的な関わり方よりも四次元的、即ち霊の次元に生きる関わり方を、最重要な証拠(証言)として提示します。その中で先ず、自分が一体如何なる存在であり、そして次に如何なる「お方」を最優先にして関わり生きているか?など、「父なる神」がまさしく、自分の人生の「主権者」であり、自分は「父なる神」から遣わされた「神の子」である!こと、これを「福音」として証言(立証)したのです。


 実は私たちキリスト者も、父なる神の「御心」を正しく知る必要があります。「その時」に、父なる神が如何なる「目的」をもって、イエス・キリストを「この世」に遣わし、私たちのことを如何に愛して下さっているか?など、「父なる神」が私たちの人生にとって、重要なファクター(生きる意味付け)となっているかを、私たちも知ることになるのです。


イエス・キリストの四つの「証言」
 イエス・キリストは、今回のストーリーの中で、「自分」のアイデンティティ(身分)を最初に証言したかったはずです。しかしイエス・キリストは、「父なる神」を最初に紹介する(立証する)ことで、自らの立場(位置)を立証する方法を選択しました。


 イエス・キリストは、14節に記述されている「証言」の中で、自分が「何処」から来たのか?そして「何処」へ行くのか?この点を「父なる神」は、当然の如くに知っている・・・・しかしあなた方の場合は、その一番大事な点を知らない!と証言しました。つまりイエス・キリストは、「父なる神」のことを知っている!という重要「証言(事実)」を、第一に提示したのです。


 あなたが例えば、一人の迷子の幼子に相対した時、あなたは如何なる「問いかけ」をするでしょうか?「坊や!君はどこから来たの?どこに住んでるの?」、「お父さんの名前は何て言うの?」などと、必ず問いかけることでしょう。勿論「君の名前は?」、「君は一体どこの子?」などの、その子自身の「素性」を問う場合もありますが、大抵の場合、その子のアイデンティティ(身分)を確かめる際に、一番手っ取り早く分かり易い「調査(問いかけ)」が、その子の父の名前と所在などの、具体的な「父の存在」を確認することです!


 続いてイエス・キリストが、第二の「証言」として提示したことは、15節に記述されている部分です。15節を直訳すると、「あなた方は私のことを、ただのヨセフの息子に過ぎない者!と、肉なる次元で勝手に判断し、世俗的な立証を並び立てるが、私はあなた方のような、肉の判断は一切しない!」となります。つまりイエス・キリストは、ご自分が肉的(人間的)な「論理」で、「人」を見ることも、裁くことも為さらない!「全て」を父なる神の「御心(御思い)」の中で見定め、父なる神の「視点(眼差し)」で人を愛し、そして正しく判断していく!こと、これがイエス・キリストの第二の「証言」です。


 イエス・キリスト常に、父なる神の「御心」を優先しました。イエス・キリストは、父なる神の「御思い」の中心(核心)が、「誰一人として滅びること無く、全ての人が永遠の命を賜る、即ち復活の新しい命にあずかって欲しい!」という、「熱情の愛」から生じていることを、聖霊を通して十分に知っていたので、自分も父なる神の「御心」通りに、忠実に従って生きること、それ故に自分も、父なる神の「思い(判断)」をもって、人々を愛し見守っていること、この点を第二の「証言」として訴えたのです。


 私たちの肉の「判断(思い)」は有限的で、「ところ(状況、時)」変われば、うつろい易いという「弱さ」があります。しかしイエス・キリストは、父なる神こそが真の裁き主、しかもこの「お方」は、誰一人として、「罪」の滅びに至ることが無きよう、贖いの子羊(イエス・キリスト)を捧げる(十字架上に屠る)ことで、全ての人々を永遠の命にあずからせようと、真剣に見守り愛して下さっている!という、揺らぐことの無い神の「事実(明らかな証拠)」を、「福音(真理)」として立証したのです。


 第三の「証言」として、イエス・キリストは「私をお遣わしになった父と共にいる」(15節)と述べたのですが、彼らの反応は依然としてイエス・キリストの提示する、「父の存在」が理解できず、更に疑心を増加させました。イエス・キリストはこの証言の中で、実に不思議な「論法」をもって説明されました。それは、「父」と「ご自分」が常に一体である!という、聞いたことの無い「新しい律法」でした。


 この新しい「教え」の中で示される、「一体」という霊的概念は、ニューエイジ思想が説くような、スピリチュアル概念(霊的な存在として現れるもの)ではありません!それは「片時も、その人の側を離れること無く、その人の人生に対して忠実に顕現される、つまり豊かな麗しい存在として現れて下さり、その人の人生全般に渡って、守り導いて下さるパートナーシップ」という、言わば「一心同体」の如き関係を示しています。そして、イエス・キリストが詳しく説明されているように、「私(イエス・キリスト)」を見る者は、即ち「父なる神」をも見ることになり、「私」を知ることで初めて、「父」の御元に行くことが可能になるのです。


 幼子の「顔立ち」や「性格」で、よく言われるセリフの中に、例えば「君はパパにそっくりだね」、また「お嬢ちゃんは、お母さんの小さい頃にそっくりで、とても茶目っ気があるね!」などが、この概念を理解するのに、一番分かり易いかも知れません。遺伝子学的に、「子」が「親」の顔立ちに似ることは当然の理屈ですが、実は「子」と「親」が、様々な面で似ている最大要因は、「子」は常に「親」の行動から、話し方の全てを見て真似る、つまり常に「子」と「親」が一体関係を結びながら、親密に生きているからこそ、自然に影響し合って似てくるのです。そうです!「子」は、常に「親」に愛されるべく、「親しく交わりたい!」、「真似したい!」、「親から学び(親と遊び)たい!」、「一緒にいたい!」など、純粋に欲する「思い」が、本能的に備わっているが故に、自然に「親」に似る者として成長するのです。


 結び(第四)の「証言」として、イエス・キリストは「あなたたちは、私も私の父も知らない。もし、私を知っていたら、私の父をも知るはずだ。」(19節)と、私たちも知るべき最も重要な奥義を語られました。イエス・キリストはご自分が、「唯一の神の御子、真の救い主である!」ことを証明するために、父なる神が先ず私を、「実子」と認めて(明らかにして)下さる、即ち父なる神は「私」を、常に「御子」として愛し、そして守り導いて下さっていることを、「最大の特権(最高の喜び)」として、自分が常に知っていることを、最終弁論として証言したのです。


 私たちが不信仰に陥るケースの殆どが、私たちがイエス・キリストを「長子」とする、神の「子(霊的実子)」という霊的立場を離れて、神が自分のことを放っておかれる(愛してくれない、忘れている)などの、勝手な判断(思い違い、誤解)をすることから生じています。しかし私たちは、イエス・キリストの「命の言葉(証言)」に立ち返りましょう!父なる神が、イエス・キリストを「実子」と認めて下さるのと同様に、あなたも神の貴い存在(実子)として、神はあなたのことを愛して下さっているのです。


 あなたが、「キリストの家族」の一員として、即ち神の「実子」として受け入れられている限り、あなたを「神の家族」から引き離す者は、誰一人いません!あなたが常に、キリストの家族の「守り(平安)」の中に置かれているが故に、あなたは安心してイエス・キリストに、一切を委ねて付いて行くだけでよいのです。あなたの「真の父」は、父なる神ご自身です。父なる神こそ、あなたの唯一の希望であり、あなたは真の救い主である、御子イエス・キリストを通して、豊かに迎え入れられた存在です。このイエス・キリストの「証言」を、片時も忘れないで下さい。


 父なる神の霊的面影は、常にあなたにも現れ出ているのです。それはあなたが、「父なる神」を知れば知るほど、豊かに現れ出るものです。助け主聖霊様の働きを通して、あなたが更に父なる神の面影を現し、イエス・キリストの「救い」の御業を、豊かに現す霊的な兄弟(姉妹)として成長されることを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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