バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

復活の福音(No.23)

                                逆転勝訴




私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。もし、私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。私たちの古い自分がキリストと共に十字架に付けられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストは、もはや死ぬことが無い、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。 
                                                                                                          【ローマ書6章4~9節】


「恐れ」無きキリスト者
 この世の人々の殆どが、私たちキリスト者のことを、単なる「一宗教」の信者としか見ていません。しかし、今日のような激動の時代に入って、中にはかなりの人々が、私たちキリスト者を注意深く見守り、いずれは「ある事」を質問しようとして、「その時」を待っているのかも知れません。それは「あなた方は何故、恐れを抱かないのですか?」と。


 ご存知のように最近、世界的規模で予期できない程の、自然の猛威が拡大しています。その結果多くの人々が、肉体的な破壊(災害)により「死」に至ります。何故、彼らが死ぬ運命にあったのか?その明確な理由が分りません。自然災害に関しては、普通の事故死と違って、明確な原因(元凶)を探ることが出来ないからです。


 今回学ぶべき奥義のポイントは、この「死」というテーマと、「復活」という相反するテーマになります。人間にとって最大の「恐怖」、それは「死」と言われています。この「死」を乗り越えることの出来ない、有限の生命力によって生きているからこそ、人は「死ぬ」ことに対して、様々な恐れを抱き、何とかして「死」を超越する存在(神々)に、望みを抱こうとするのかも知れません。


 しかし私たちキリスト者は、イエス・キリストの「復活」に、信仰の望み(希望)を置く故、何ものをも恐れません!私たちが唯一「畏れ」を抱く対象、それは真の生ける神(創造主であり父なる神)だけです!即ち、「もはや私が罪から、また人間的な死から、束縛されることは無い!永遠の命に至る新しい命を、イエス・キリストから戴くことで、何人からも支配されることの無い、また罪の責め苦から追い立てられることの無い、麗しい新しい霊と体、そして永遠の命によって生きることが出来る!」ことを、私たちキリスト者は信じているからです。


 キリストによる「新しい命」は、イエス・キリストの十字架の「死」によって、既に私たちのものとなっている!この神の「事実」を、改めて私たちは覚えるべきです。そしてこの「新しい命」は、私たちが死んだ後に与えられるものではありません!そうです!キリストの「新しい命」は、もはや今に生きる、あなたの「人生」に対して、あなたの行く「先々」において、あなたの「手」に委ねられている(保証されている)のです!


 そればかりでなく、あなたが行く(歩む)至る所において、この「復活」の福音を大胆に宣言する時に、例えば死に行く者や病める者に対して、「イエス・キリストの御名によって命じる。あなたは死ではなく、キリストの新しい命を得る者としての、素晴らしい特権が与えられている。今!イエス・キリストを信じなさい!そうすれば、あなたは直ちに救われる(贖われる)のです。新しい命を得ることが出来ます!」と、信仰の言葉を語る(命じる)時に、イエス・キリストの「復活」の御業が、信じる全ての者の生活全般に、豊かに現れ出るのです。これは、未来に起きることではありません!あなたの現実(今)の生活に、必ずもたらされるものなのです。


逆転勝訴が決まる時
 今回の僅かなパウロの手紙(神の御言葉)の中には、神の大いなる「重要記録(証拠)」が記されています。まるでそれは、最高裁判所で為される「裁判」の、プロセスから決定される、ある重要な原則の一つです。それは最高裁判事が、被告人に対して有罪と断定できる、明確な「証拠」が立証されない場合は、何人と言えども被告人を、有罪とはみなさない!という、判決文を読み上げるとしたら、たとえ雄弁かつ有能な弁護士、或いは検事と言えども、被告人を訴追することが出来ない、という原則です。


 つまり最終審理において下された「判決」は、いくら後日に新たな事実が出たとしても、その判決を覆すことが出来ない訳です。それと同様に、いやそれ以上のものをもって、イエス・キリストは私たちのことを、「無罪!」と決済(決裁)する「救い」の事実を、父なる神(最高裁判事)に提示して下さっています。


 本来ならば私たちは、「有罪」の判決が下された立場の者です。それ故サタン(悪徳検事)は、私たちの「罪」を次々と立証すべく、過去の私たちを提示します。すると、私たちの真の弁護士(聖霊様)は、次のように弁護します。「この被告人は、確かにサタン検事が申すように、悪しき罪に染まった者でした。そして今後においても、この者が再度罪を犯さないという、決定的な証拠は見当たりません。


 しかし、判事並びに検事に対して、私はある重要な事実を今から述べます。それは、この被告人の代わりにイエス・キリストが、被告人が今まで犯してきた全ての罪を賠償すべく、死(死刑)をもって支払い(償い)ました。いや!そればかりか、この方(イエス・キリスト)は死を乗り越え、父なる神の大いなる御力により復活されました。この復活されたイエス・キリストが、この被告人に対して新しい命を与え、彼は既にその新しい命を得ているのです。それ故、彼(被告人)は死を恐れません。私は今、判事に対して二つの事実を述べましたが、この証拠を覆すことの出来る検事の立証は、もはや意味を成さないと思いますが・・・・」


 弁護士の言葉を聞いていた検事(サタン)は、もはや立ち上がることも出来ない程の、「恐怖」に震えています。判事はそれを見て、次のように被告人に問い質します。「被告人Aよ!弁護人の只今の言葉が、偽らざる事実であることを認めますか?」と。すると被告人は、「はい、その通りです!私は検事の言う通り、今まで様々な罪を犯してきました。そしてこれからも、罪を犯す可能性は残っています。しかし私は、検事が述べる論告が事実でない!ことを分っています。又あなた様が、私を有罪とみなす判決を、絶対下せないことも知っております。あなた様は、私の罪の身代わりとなった方(イエス・キリスト)の、御父だからです!」と答えるや否や、判事は言葉を詰まらせ「審理終了!この者には、有罪とみなす部分が見当たらない。それ故、無罪放免とする!」と宣言しました。即ち、弁護側の「逆転勝訴」が決定した瞬間です。


「復活」の恵みにより
 私たちはもはや、イエス・キリストの「復活」の恵みにより、生かされているのです!生かされているという、この神の「恵み」の中にあるからこそ、私たちは強いのです。イエス・キリストの「十字架」による、大いなる「復活」の御業、「贖い」の御業という、麗しい父なる神の愛が、私たちの「霊」を捉えて離さないからこそ、如何なる状況の中でも、「信仰」と「希望」と「愛」をもって、私たちは進み行くことが出来るのです。


 そうです!イエス・キリストによる「新しい命」によって、私(あなた)は生かされているのです!この「真理」は、何人も奪うことの出来ないものです。「死」も、私たちの「前進」を阻むことが出来ません。「死」は、もはや私たちを支配することが出来ません!何故なら、私たちは聖霊様を通して、「死」を乗り越える領域、つまり神の奥深い「霊」の次元に生きる者だからです。


 それ故に、「私たちは、死を恐れない民です!」と大胆に語る「使命」が、私たちの「唇」に着せられています。私たちが直ぐな信仰をもって、神の「復活」の福音を語る時に、必ず奇跡が起きます!聖霊様が、私たちの「唇」の弁護人として働かれる以上は、それを完成して下さるのも聖霊様です!あなたが「その時」至らば、「主よ、待ってました。この時ですね!」と告白し、素直に従順することの出来る、イエス・キリストの「証人」として、その使命を果たすことが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する