バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.37)

                   イエス・キリストのくびき




イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。・・・・すべてのことは、父から私に任されています。父のほかに子を知る者は無く、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私のくびきを負い、私に学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである。」
                                                                                             【マタイ福音書11章25~30節】


父ヨセフとの「関わり」に学ぶ
 父なる神と、御子イエス・キリストの「関わり方」は、「母親」と「幼子(乳飲み子)」の関係に似通っています。「幼子」は、母親との常なる関わり方の中から、非常に重要なことを学んでいます。それは「母は、いつも自分のことを気にかけ、何かにつけて心配してくれている。そして自分が欲することの、全てを知っている(用意してくれる)!」ことです。それ故に幼子の側からは、「自分も親のことを、更に深く知りたい!」と自然に願う、ストレートな関わり方です。


 その過程の中で「親」は、「子」が負うべき様々な「重荷」、「心配事」、「苦しみ」などを解き放つことに、一生懸命になって肩代わりしようとします。実は、この自然な親子関係の如くに、父なる神と御子イエス・キリストも、相手のことを思い慮り合いながら、相互に働いておられるのです。


 ご存知のように、イエス・キリストは遺伝子学的には、「母(マリヤ)」と「父(ヨセフ)」の血筋ではありません。イエス・キリストの「ご性格」や「気質」などは、本来は父なる神の「品性」を備えているはずです。しかし、「人の子」として育った環境においては、育ての親である「母(マリヤ)」と、「父(ヨセフ)」との愛に溢れた関わり方の中で、非常に「家族」的なものが、十分にはぐくまれたことでしょう。それ故に、イエス・キリストの「教え」の殆どが、「親」が「子」のために命を懸けるなど、家族的な愛情をベースにした、分かり易い「喩え話」をもって、当時「苦しみ」の中にあるユダヤの人々に対して語られています。


 イエス・キリストの育ての父親ヨセフは、大工職人であったと言われています。それも特殊な木材加工大工として、「くびき」という農業用の家畜の首に、鋤などの農機具を据えるための、「肩にかける器具」製作の職人でした。実は「くびき」という器具は、大量に生産出来る製品ではありません。それは、非常に完成までに時間を要する、特殊なオリジナル製品です。つまり牛(馬)の一頭毎に、その肩幅や首の長さなどを測り、実際に一つ一つの部材を、綿密に調整しながら加工するという、根気の要る製作過程です。もし、この気長な調整を怠りますと、牛(馬)は重荷を引く際に、首や肩に負担がかかってくるため、逆に肩や首を少しずつ患い、いずれは農作業や運搬作業が出来なくなる、不要の牛(馬)になります。


 それ故、熟練した「くびき職人」は、「首」と「両肩」という、力学上の三つの支点をバランスよく見据えながら、一頭毎に適切な「くびき」を製作出来る、卓越した「技術」を持っているのです。しかしこの職業は、根気と時間の面で他の大工と比較して、利益及び効率性が余り無いということで、はっきり申し上げて「儲からない仕事」の一つです。しかし、イエス・キリストは「父」の仕事ぶりを、幼少の頃から見て学び、父ヨセフが「儲け」よりも、一頭一頭の牛(馬)に対して、出来るだけ負担の少ない「くびき」を製作することに、手間をかけて忠実に仕上げること、この点を優先にして従事していることを、ご自身も習得していったものと思われます。


「重荷」を軽くするために
 ご存知のように28節の御言葉は、伝道メッセージとして多く用いられます。しかしこの御言葉は、この一節のみで理解(説明)するよりも、25節から続くイエス・キリストの「真意」を、聖霊様からの「洞察」によって汲み取ることが、より分り易くなるのではないでしょうか!つまりイエス・キリストは、「父」と「子」という、麗しい「関係」を説明した後に、「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。」と促されているのです。


 続いてその「理由」が、29~30節に述べられている訳ですが、その理由は一読しただけでは、さっぱり分かりません。例えば「イエス・キリストのくびきとは、一体何のことを言っているか?」、或いは「イエス・キリストのくびきを負うと、その重荷が実際に軽くなる・・・・。私の重荷とは、本当に重いのか、それとも軽いのか?」などの疑問のように。


 ところで、「重い」とか「軽い」という言葉は、物理的に「重力」を表す単位でもありますが、「病気」や「肉体労働(作業)」の言葉にも、「重病」や「軽作業」と言った具合に、決して「重荷」ばかりでなく、「人生」における様々な「苦しみ」や、「悲しみ」などの抽象的な言葉にも、その「程度」を測る形容詞として使用されます。つまり各自が自覚している、「肉の力」で乗り越える(受け持つ、耐えられる)ことの出来るレベルを、「軽い(何とかなる)もの」と表現し、逆に不可能な場合に「重い(他の力によって何とかして欲しい)」と言うのではないでしょうか!


 それ故にイエス・キリストは、「私のくびきを負いなさい(装着しなさい)!」と呼びかけているのです。しかし「え!この重荷にも、私は負い切れないのに、更にくびきを負えですって?とんでもありません。」などと、私たちは逆の反応を示します。何故なら「くびき」の意味には、実際に「くびき」を負わされた「牛(馬)」が、「人」の目に見て苦役を強いられている様子から、自由を「束縛する」イメージとして把握されるからです。例えば、「国家のくびき」という言葉は、実際に当時のローマ帝国の支配下にある、イスラエルの人々の民族的状態を表しています。しかしイエス・キリストは、それでも「私のくびきを負いなさい!」と、私たちに命じられている理由は、「そうすれば、あなた方は安らぎを得られる」(30節)の御言葉に示されています。


 イエス・キリストは、育ての父親であるヨセフとの関係を、麗しいものとして構築しました。それと同時に彼は、父なる神との正しい関係を、更に優ったものとして霊的に学習していく中で、イエス・キリストも私たち同様に、「人の子」でありましたから、当然「人」として悲しみや苦しみなどの、「全て」を経験されました。


 しかしイエス・キリストの場合、彼は常に「父なる神」との関係を優先することで、神に自分の「人生」の全てを委ね切るという、正しい信仰もはぐくまれたのです。そして聖霊様が、常にイエス・キリストに対して、「あなたの行くべきところは、真の父のおられる至聖所です!それ故あなたは、いつも父の御元に行きなさい!そうすれば必ず、天上の平安(安らぎ)が得られるでしょう。」と励ましを与えます。この聖霊の促しに、いつも従順したイエス・キリストは、父なる神から「私の元に、よく帰って来たね、我が息子よ!私はいつも、あなたの全てを愛している。私の心を、もっと更に知りなさい(求めなさい)!」という、最高の「お言葉」を戴いたのです。


父なる神が与える「くびき」
 イエス・キリストの「祈り」のスタイル(表現)は、常に次のようなものでした。「天のお父様!私には今、大変な重荷(問題)があります。この重荷から解き放たれるべく、あなたに相談致します。どうしたらよいのでしょうか?」と。すると父なる神は、「私が、あなたの重荷の全てを、担う者であることを知りなさい!あなたが、私の元に来たその時点で、既にあなたの重荷は、私が負っているのです。このことが、あなたに知らしめる、父(私)のあなたに対する愛である!」と即答します。


 その瞬間にイエス・キリストは、「私が以前造っていた、くびきもそうであった。父ヨセフは、私に大事なことを教えてくれた。くびきは必ず、三つのバランスが相働くことで、牛(馬)が重荷を引く際に、逆にスムーズ(軽やか)に動けるようにするという、安心(解放)を与える道具である!父なる神も、私が重荷のことで心配する以前から、既に私の全てをご存知であり、私の重荷の全てを担う、真の神でいらっしゃる。それ故私の人生は、父なる神と聖霊様がくびきの如くに相働いて、私を安らぎの道(正しい道)へと導いて下さる。」と、聖霊を通して教えられたのです。


 一般の「家庭」でさえ、家族の一人が耐え切れない(背負い切れない)、「苦しみ」や「悲しみ」を被っている場合に、家族全員が一丸となって、その者の抱える「重荷」を負い、一緒になって導いて上げるのであれば、私たち「キリストの家族」のことを、決して見放すことも孤児とすることも無く、「重荷」の全てを前もってご存知で、必ず解決して下さる方がいらっしゃる!このことを信仰によって知った者は、躊躇することなくその方(真の神)の御元へと、駆け込んで行くのではないでしょうか。


 御子イエス・キリストは、常に聖霊様を通して「お父様の元に行きなさい!父はあなたのことを、全てご存知ですよ。」と、正しい道へと促されたのです。「親が自分のことを、全て知っている!」と悟った「子」は、必ずある行動に移ります。それは、「重荷」の全てを解決してくれる、「親」の元に駆け込んで訴える行動です。私たち「キリストの家族」も、同様の霊的促しを受けている以上、父なる神の御元に急いで参りましょう。そうすればイエス・キリストが、如何に父なる神との関係において、柔和(心がストレートで)であり、謙遜な(神の前に素直に出る)方であるように、私たちに対しても同様の関わり方をもって、必ず「解放」と「安らぎ」を与える方であるかを、あなたは知る(体験する)ことになります。


 あなたのことをねんごろに愛し、昼も夜も見守っていて下さるイエス・キリストが、私たち「キリストの家族」の霊的長子として、あなたの人生「全て」を、責任をもって担って下さるという偽らざる「事実」、このイエス・キリストの「くびき」を、あなたも受け取って下さい!あなたは、イエス・キリスト共に前進していく、キリストの「家族」です!あなたの「人生」の道のりが、イエス・キリストの「くびき」によって、常に「安らぎの道」であることを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する