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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

復活の福音(No.22)

                     死者を生かす神の言葉




ヤッファにタビタ(訳して言えばドルカス、即ち「かもしか」)と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや癒しをしていた。ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペテロがリダにい入ると聞いて、二人の人を送り、「急いで私たちのところに来て下さい」と頼んだ。ペテロはがそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はべテロが到着すると、階上の部屋に案内した。・・・・ペテロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペテロを見て起き上がった。ペテロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。 
                                                                                                      【使徒行伝9章36~42節】


「ドルカス」の死の大きさ
 今回の主役ドルカスという婦人は、その名が「かもしか」を意味するキリスト者です。私には、この女性が何となく、野生の「かもしか」の如くに、大胆で勇気ある信仰を持った、ごく普通の女性だったのではないかと推測します。この「かもしか(ドルカス)」おばちゃんは、非常に周りの人々から好意を得る程、面倒見の良い親しみのある人柄でした。


 それ故彼女の元にはやもめたち、とりわけ貧しい生活を強いられる、やもめの家族が集まって来る訳です。ドルカスは彼女たちに、必ず「癒し」の祈りを行い、何らかの「施し(食事や必要な物資)」を喜んで与えます。まるで「ドルカス」の暮らす住居が、ある種の「避難所(施設)」の如き働きを担っていたのではないでしょうか。そして少しずつではありますが、彼女自身の品性から流れ出る、イエス・キリストの「麗しさ」を慕って、多くの未信者のやもめたちが合流するようになり、ヤッファの「キリストの群れ」は、徐々に拡大していくリバイバルの途上にありました。


 ところが突然、この「ドルカス」が死んだのです。さー、残されたヤッファのキリスト者たちは、この後どう取扱われていったのでしょうか?当然、彼女の関係者全て(求道中の未信者も含む)が、物凄い失意と落胆の底に沈みました。例えば「彼女が死んだとなっては、もはや今までの働きがストップするのではないか!」などの、大いなる動揺(衝撃)が走るなど。


 このように人の「死」は、何らかの「動き」を終わらせる傾向にあります。特に、何らかの「良き行い(働き)」を為す人物の「死」は、、大いなる「衝撃」を人々に与えます。しかし冷静になって考えるのであれば、「ドルカス」の為していた行為は、父なる神の「恵み」があって初めて為されるものであり、あくまで「神の愛」に根ざす行為でした。それ故「ドルカス」同様に、他のキリスト者も聖霊様に導かれながら、「愛の奉仕」活動を忠実に行うのであれば、神の「働き」は継続するのです!


二つのグループ
 この時、落胆し悲しみに暮れる「群れ」の中から、聖霊に導かれた一人の弟子が、不思議な信仰の言葉を大胆に発しました。「ちょっと待って下さい!隣町(リダ)に今、イェス様の直参の使徒(ペテロ)たちが訪問しています。今から行って彼らを呼んで来れば、何とかなるのではないでしょうか?」と。


 ちなみにヤッファからリダまでは、約18kmの距離があります。当時の交通手段は、殆どが徒歩によるものですから、往復するのに約6時間(半日)かかります。しかし彼らは信仰による意を決して、二人のキリスト者(恐らく若者)を代表として遣わしました。二人が帰ってくるのを待つその間にも、「時」が過ぎ行く訳ですから、残された側としては、「死体」の身を清める処置を施さなければなりません(当然、死者が復活する!という信仰ではありません)。つまり「葬式」の準備です。


 ですからこの時の彼らの「信仰」は、大きく二種類のグループに分けられます。第一のグループは、ペテロ(キリストの使徒)を通して、「復活の信仰」の祈りに期待する人々。それとは対照的に第二のグループは、「ドルカス」の葬式の司式をペテロにでも依頼するなど、依然として落胆し続ける人々。


 余談になりますが私も2009年に、義父の「死」に伴い葬式を司りました。「その時」の私は、「亡骸」から漂う死臭とその腐敗度を見て、はっきり申し上げて、「信仰」を働かせることは出来ませんでした。現実を見て「無理だ!」と思う部分と、「霊」の奥底では「イエス・キリストの御名により甦ってほしい!」という、現実離れした「希望」の部分が、対立し合う心境にありました。


 ところが、ペテロを迎えに行った第一の信仰者たちのグループは、「ドルカスが死ぬのは、神の御心ではない!これには必ず神のご計画が、次に用意されている。何故ならば、タイミング良くリダの町に、ペテロたちがいるではないか!これは、まさに神が為されている、素晴らしいご計画の一つだ!」という心境(信仰)に至っていたのです。


 「信仰」には働かせ方によって、二種類の方向性が定まります。第一の「働かせ方」、それは「現実(現状)」を見て、「もう、これ以上は無理だ!」などと、そのまま受けとめストップする方向。それとは逆に、「現実」を決して見ることなく、野生の「かもしか」の如くに、崖っぷちの急斜面の岩肌を大胆に登り行く信仰。つまり主なる神は、自分に必要なものを、目には何も見えないフィールド(環境)の中においても、必ず用意して下さる!と受けとめて、日々前進して行く方向。まさしく、「ドルカス」の信仰の原点は、目に見える「現実」ではなく、目に見えざる神の「ご計画」に、期待する(望みを置く)ことにあったのです。


 次に迎えられる側の、ペテロの「信仰」は如何なるものだったのでしょうか?この時のペテロにとって、「死」というものは、もはや過去のものである!という「事実」を、私たちも知る必要があります。以前のペテロは、他の11人の弟子たち同様に、師イエス・キリストを通して為される、ラザロの「復活」の奇跡を見ました。しかし当時(過去)のペテロは、やはり自分の「死」が怖く、結果として師(イエス・キリスト)を裏切ります。その臆病なペテロが、全ての人々の「罪」を贖うべく、十字架上に「死」という形で、貴い「命」を捧げられたイエス・キリストが、今度は麗しい「復活」の救い主として、逃亡者ペテロの前に現れた結果、「私の死は、すでに終わった!イエス・キリストが、新しい命を完成して下さった」ことを、信仰で受けとめました。その後聖霊に満たされた彼は、イエス・キリスト同様に、「復活の福音」を大胆に語る、キリストの使徒へと造り変えられたのです。


 そのペテロの元に、ヤッファから使者が訪問した時にも、彼は動揺することなく「ドルカス?彼女の名前は噂で知っていますよ。な、なに?死んだですって!あなた方の信仰通りに、まさしく私がリダを訪問していること中に、神のご計画が続いて用意されているに違いない!さー急いで、私をヤッファまで道案内して下さい!主なる神は、すでに奇跡を始めておられるから・・・・」と応答したのです。


 さてペテロの一行が、ドルカスの住居に到着すると、第二のグループのメンバーが、号泣しながらペテロに願い出ました。「どうかドルカスさんを、丁重に弔ってあげて下さい!」と。ペテロは「その時」、瞬時に悟りました。自分を迎えに来た二人、つまり信仰者の群れとは対照的に、ドルカスの「死」を前にして、不信仰(人間の弱さ)から、「葬式」のみに専念する第二のグループがいることを。


 それ故ペテロは、直ちに全員を「家」から退出させ、外で待つように指示しました。一人になったペテロは、ドルカスの「亡骸」を前にして、「信仰の言葉」を語る、「その時」を待ちました。彼は「あー、そう言えばイェス様は、死人に等しかったこの私を、変わり無き愛の眼差しをもって見つめ、こう語って下さった。私を、あなたの人間的な愛でもよいから、再び愛しておくれ。そして立ち上がってくれないか。今、手に掴んでいる網を降ろして、私に従って来なさい!」という、麗しい師との関わり合いの「記憶」が、聖霊様によって思い起こされるや否や、「タビタよ、今あなたに命じる!直ちに立ち上がりなさい!これは、イエス・キリストの御名によって命じることである。」と宣言しました。


 ・・・・するとドルカスは、直ちに「死」の覆いから贖い出され、彼女の「霊」は死の縄目を打ち破り、ドルカスの「眼」に精気が戻り、彼女は遂に「死の旅路」から凱旋したのです。


 たとえ私たちの進み行く目の前に、「現実」という名の巨大な崖が立ちはだかったとしても、私たちの「霊」はドルカスの「信仰」の如くに、霊的な「ゆとり(平安)」を聖霊様から戴きましょう!「霊」にあせりが生じますと、否定的な状況が更に悪化します。もしかしたら、今後主なる神が立ち上げる「エクレシア」の姿、それは「ドルカス」型エクレシア、つまり終末期においてレムナントの働きを担う、「キリストの群れ」に造り変えられて行くのかも知れません。


 「その時」に私たちが語る、聖霊によって用意される「復活の福音」、それは「イエス・キリストの御名によって、今立ち上がりなさい!」です。主イエス・キリストの豊かなる「導き」と、父なる神の大いなる「取扱い」により、「現実」を見ても決しておじまどうことの無いように。また信仰の「ともし火」を灯して下さる、聖霊様に拠り頼みながら、あなたが信仰の歩みを前進するとが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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