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キリストの家族(No.36)

                        シンプル・フェイス




イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。・・・・」
                                                                                                 【ルカ福音書18章15~17節】


幼子の持つ「シンプル・フェイス」
 このストーリーに登場する重要なファクター、即ち新改訳聖書では「幼子」と訳されている部分を、新共同訳聖書では明確に「乳飲み子」と断定しています。ということは、イエス・キリストの御元に来た人々の中には、勿論幼少の子供も存在したことでしょうが、イエス・キリストが今回言及しているように、実際には未だ乳離れしていない「赤子」が、母親と共に連れて来られたことが伺えます。


 ご存知のように「赤子」レベルの幼子は、如何なる集会(聖会)においても、うるさく騒がしい(落ち着かない)存在として扱われ、母親共々集会に参列するのを控える傾向にあります。しかし今回のイエス・キリストの、「幼子」に対する態度は、今の私たちキリスト者が扱うような次元にはなく、むしろ逆の扱い方を為されているのです。


 ところが弟子たちは、私たち同様「幼子」の存在が、単なる「うるさいもの」、自分たちのミニストーリーを「邪魔するもの」として、幼子を叱り付けました。するとイエス・キリストは、「待ちなさい!彼らを叱ってはならない。」と、彼らの師に対する「配慮」を無視して、逆に停止したのです。


 今回のメッセージの題目は、「シンプル・フェイス(Simple Faith)」です。単純に訳すのであれば、素直(ストレート)な信仰になりますが、私は「フェイス(Faith)」の部分を、どちらかと言えば同じ発音の、「顔(face)」というイメージで把握しながら、この「シンプル・フェイス」の意味を、霊的に再確認する必要がある!と気付かされました。


 即ち、私たちが「幼子(乳飲み子)」のように造り変えられなければ、決して「神の国」を見出すことも、受け継ぐことも出来ない!私たちはこの点を聖霊様を通して、霊的に学び直す必要があるのではないでしょうか。つまり私たちは、「大人」としてのプライド(誇り、エゴ)ではなく、「幼子」の如くに単純(純粋)な思いをもって、イエス・キリストの「命の言葉」を慕い求め、無邪気(純朴)な顔をもって、イエス・キリストに相対することが重要です。


妨げてはならない!
 ご存知のように、「大人」と「子供」の明らかな違い、それは「顔の表情(顔付き)」ではないでしょうか。特に家族の中における「子供」の顔は、「大人(親)」に対して相対する時、いちいちつくった顔ではなく、ごく自然なもの、つまりシンプル・フェイスです。子供は素直に嬉しい時には、無邪気さが顔一杯に輝きます。子供の時に自然に表していたものが、何故大人になるにつれて、不自然なものになるのでしょうか?それは「大人」としての考え方で、全ての物事を考え巡らしたり、「大人」としての思い(感情)で、様々な人々と相対するからです!


 では、イエス・キリストが私たちを、「キリストの家族」として迎え入れて下さる時、私たちは如何なる「フェイス(信仰の顔)」をもって、イエス・キリストに相対するのか?これが非常に重要となります。


 イエス・キリストは弟子たちに対して、事細かく「神の国」の奥義について、この時も重要な「ご命令」を命じることで説明しました。「幼子たちが私の元に来るのを、決して妨げてはならない!」と。つまり、この時の弟子たち同様に、神の御元に行こうとする素直な幼子の如き信仰を、「大人」の考え方(判断)をもって妨げているものが、実は私たちの中にもあるのです!


 恐らく弟子たちの中には、イエス・キリストの「ご命令」に対して、「一体幼子レベルの子供に、神の国の何が分かるとでも言うのか!」などと、反発した顔付きの弟子も居たことでしょう。この考えが、「大人」の理屈です。しかしイエス・キリストは、「幼子」の気持ちを全面的に代理する、母親たちの「信仰」も見ておられたのです。これが「キリストの家族」として生きる、即ちイエス・キリストを長子とする、神の家族としての「信仰」です。


 ましてや、私たちの「家族」が一般的に抱く「家族愛」を、当然知っておられるイエス・キリストは、新しい「キリストの家族」の中においても、この時の母親たちの「信仰」と同様に、素直に神の御元に行こうとする「幼子」、つまり私たちの中にある素直な霊の「思い」に対して、「私のところに来させなさい。妨げてはならない。」(16節)と命じられます。それ故私たちは、イエス・キリストの「ご命令」に対して、「その通りです。私の中に妨げの壁があります。」と、謙虚に受け留めるべきです。


 「妨げの壁」とは、私たちが三次元的に生きる(成長する)中で、まとわり付いてきた大人の「エゴ」、大人の「プライド」、大人の「論理」などです。これら「全て」が、私たちの「信仰」にまとわり付きながら、神の御元に行こうとする際に、巨大な壁として立ちはだかるのです。それ故イエス・キリストは、このような私たちに対しても、新しい「神の国」にある関わり方を、このストーリーから教え示しています。それは、「幼子」がストレートに欲するや否や、すぐ行動に現れ出るもの、つまり「シンプル・フェイス」の行動に示されます。「神の国」は、何の分け隔ても妨げの壁も無く、まるで幼子が「大人の言葉」が分らなくても、純粋に「母親」を慕い求めて、泣き叫ぶ表情に似通っている!と。つまり乳飲み子の持つ「素直な顔(表情)」から、私たちは霊的な「神の国」の関わり方を学ぶように、イエス・キリストから命じられているのです。


ストレートな関わり方
 イエス・キリストは常に、父なる神の「御心」を優先しました。そしてイエス・キリストは、父なる神とご自身との関わり方を、弟子たちに対して語る時、「父」と「子」というシンプルな親子関係のイメージで、分り易く説明されています。しかし、イエス・キリストは「父」のイメージを、この世の一般的な「父親」の如くに、頑固で気難しいなどの、いわゆる「オヤジ」というイメージではなく、ご自分が「子」として「父」の御前に出る時、必ず父なる神は「おー、よくぞ私の元に出て来てくれたね。こちらにおいで!」と、優しく抱きかかえながら、更に「私の息子よ、私はいつも、あなたのことを気にかけ愛しているんだよ!」と語りかけて下さる方として、「神の国」の新しい関わり方を説明されました。


 「神の国」のイメージは、「子」が「父」の存在を常に優先し、また「父」も「子」の存在を、こよなく純粋に愛するという、ストレートな関わり方です!ところが、私たち「大人」は他者との関わり方において、様々に相手の「顔」の表情を気にしながら生きる、つまり互いの「顔」そのものが、妨げの壁となっているのではないでしょうか!このような現実生活が、霊的な関わり方において「父なる神」と相対しますと、誤った「顔(フェイス)」をもって神の御前に出るため、「信仰(フェイス)」も偽った状態になります。ですから、イエス・キリストは弟子たちに対して、今回の出来事を通して模範を示されたのです。


 「赤子(乳飲み子)」と「母親」の間(関わり方)には、「妨げ」となるものは何もありません。赤子の素直な「顔」を見て、母親は有りのままに、赤子の全存在を受け留めるからです。そして「赤子」から幼子になるにつれ、「子」は「親」の顔の表情を、ストレートに学習していく中で、シンプルな関わり方が育まれて行くのです。


 イエス・キリストは、「赤子」をこよなく愛する「母親」の愛よりも、更に激しい熱情の愛をもって、私たちのことを愛し、私たちの「全て」を覆い尽くしながら、御顔を向けていて下さるという、偽らざる父なる神の「事実」を意識する、この霊的イメージを聖霊によって示して戴きましょう。


 それ故、私たちが向けるべき「信仰(フェイス)」は、この世の次元ではありません!主イエス・キリストの「御顔」の交わりが、あなたの素直な「信仰」を通して、豊かに現されますように!そして聖霊の働きにより、あなたの中にある「大人」としてプライド、エゴ、論理の全てが聖められ、幼子の如くに聖められることを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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