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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

復活の福音(No.20)

                 私は復活であり命である




マルタはイエスに言った。「主よ、もしここに居て下さいましたら、私の兄弟(ラザロ)は死ななかったでしょうに。・・・・」イエスが、「あなたの兄弟は復活する。」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。」・・・・
                                                                                             【ヨハネ福音書11章21~27節】


「律法」の限界
 イエス・キリストを「救い主」として信じる、私たちキリスト者にとって、今回の御言葉は、「この世」にある全ての「富」と「権力」、そして「栄光」などに優って麗しいものです!そして私たちが生きていく上での、明確な「真理(針路、道しるべ)」でもあります。


 イエス・キリストはこの時代、ユダヤ教の祭司が教え説く、様々な「律法」に関する、イスラエルの民の「信仰」の実態を、正確に分析していました。イスラエルの民にとって、遵守すべき「律法」の教えには、心底から信じ切ることの出来ないものがある!と。つまり、彼らは「律法」の教えを守るべく、義務的に行いはしつつも、ある確信がありませんでした。


 如何なる「確信」でしょうか?それは生きている時に、まじめに守り行った「律法」が、果たして死んだ後に、御国(天国)に入る資格を与えるものであるか?という点です。それ故に、彼らは尚も「律法」を守り行うことに、必死になって為し続けるだけでした。


 当然彼らの信仰レベル(意識)の中には、「死者が神の贖いにより、復活の栄光の姿に造り変えられる(再創造される)!」という確信は皆無でした。ところがイエス・キリストの場合は、この時の「死の時」も同様ですが、悲しみに打ちひしがれる彼らの中に、とりわけマルタに対して表明した、新しい神の「命の言葉」、即ち「復活の福音」を大胆に宣言しました。それが今回の御言葉なのです。


「復活」の福音
 イエス・キリストが訪問した時の、マルタの最初の反応は、22節において「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえて下さると、私は今でも承知しています。」と告白するなど、かすかな信仰の表明は残っていました。しかしこの時マルタは、神の言葉が「死者を復活させる!」という、イエス・キリストの信仰には至っていませんでした。


 すると、イエス・キリストはマルタに対して、信じられないような言葉を語られました。「あなたの兄弟は復活する。」(23節)と。マルタは思わず「ラザロは既に死んでいます。イエス様!」と言いたかったのですが、遠慮がちに「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(24節)と応じるのみ。


 それに対してイエス・キリストの、堂々かつ大胆に宣言された言葉が、「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。」という、マルタの意表を突く内容のものでした。この言葉は分り易く表現するならば、「私こそが復活そのものであり、私こそが命の源である!それ故に私を信じる者は、死んでも新たに生きることが出来る!」となります。


 ご存知のように、富める者や身分の高い人々は、一生懸命に「目に見えるもの」に生きる希望を置いて、それらのものを着飾ろうと努力します。しかし「目に見えるもの」は、いずれ朽ちて行く(腐って廃れる)ものです。それと同様に私たちの生体組織も、いずれは朽ちるものです。この朽ちる体のゴール(行き着く所)は、永遠の死です。全ての人が否が応でも、この「真理(理屈)」を知っています。


 それに対して、今回イエス・キリストが宣言された、「復活の福音」をもって、実際に「死者(ラザロ)」を復活させた、この大いなる「神の事実」は、今も尚継続しているのです!このイエス・キリストの黄金律を受け留め、私たちが信仰をもって素直に信じる際に、私たちの現実生活ばかりでなく、私たちの「過去」と「将来」においても、私たちの「霊」の存在が、今後どうなって行くか?について、このラザロの復活の記事から、正しく捉え直さなければ、私たちも三次元的に朽ちるものに望みを置く、浅薄な信仰に陥る危険性があります。


復活の「力」を信じる
 ラザロの復活は、イエス・キリストの復活の「雛型(予型)」を現しています。そして、その時に居合わせたマルタとマリヤの行動、及び彼女たちとイエス・キリストとの関わり合いは、私たちの霊的「弱さ」を現していますが、私たちの中にある霊的「弱さ」の全てを、聖霊様の日々の取扱いによって、実は乗り越えることが出来る!という、神の大いなる霊的奥義が、このイエス・キリストの「復活の福音」にあることも、私たちは改めて知る必要があります。


 つまり私たちは、今回示されるイエス・キリストの「復活の福音」を、信仰の土台として据え直し、如何なるものにも揺り動かされること無きもの、パウロの言葉を借りるならば、「死よ、お前の棘は何処にあるのか?お前の勝利は何処にあるのか?」と宣言できる、信仰者に仕立てられることを是非信じましょう!


 私たちがイエス・キリストを信じる「理由」は、何処にあるのでしょうか?恐らく「死後、天国に行きたいから・・・・」、これが私たちの素直な気持ち(理由)でしょう。それ以外にも「もっと幸せになりたいから・・・・」や「もっと祝福を得たいから・・・・」など、人の持つ「欲」は千差万別です。


 しかし覚えて戴きたいことは、イエス・キリストが言わんとする「復活」の言葉は、ご存知のように金持ちの御曹司や、王の世継(皇太子)など、この世の権威的な人々が明言するレベルのものではなく、屠り場に引かれる「子羊」のイメージ、即ち殺される前の子羊が発する、贖いの「言葉(宣言)」である!という点です。と言うことは、イエス・キリスト(贖いの子羊)は、「何か」を為さ(実行し)なければ、「私こそが復活であり命である!」という宣言が成立しない訳です。


 つまり「子羊」が、「生贄」として屠られて初めて、この言葉が確立されるのです。それ故に、私たちもイエス・キリスト同様に、イエス・キリストが「復活」であり「命」である!と受け留める際には、私たち自身が神の御前に供えられる、生きた聖なる「生贄」として捧げ尽くす!という、「上」よりの信仰を働かせる必要があります。


 たとえ私たちが、死者ラザロの如くに、朽ち果てた姿になったとしても、朽ちざる「永遠の命」に至る「復活の衣」、「復活の体」、「復活の命」、「復活の栄光」という、神の祝福を受け取る権利(資格)が、イエス・キリスト(子羊)を「救い主」として信じた時から、自動的に与えられるのです。それ故に私たちが、マルタとマリヤの如くに弱き器であったとしても、聖霊様を通して次のように励まされるのです。「あなたが、たとえ如何なる状況下にあっても、如何なる時代に生きていたとしても、そして死が身近に迫りつつある、危機の中にあったとしても、イエス・キリストこそが、あなたの命の源であり、あなたを全ての悪しき束縛から、贖い出すことの出来る、復活そのものです!この朽ちざる、永遠の命に至る復活の信仰を、あなたは今、受け取りなさい!」と。


「復活」の信仰の土台
 私たちは、この時のラザロの復活の御業ばかりでなく、「復活」そのものを現して(完成して)下さる、贖いの子羊イエス・キリストに、信仰の望みを置きましょう!「死」という最大の問題を、未だに克服することの出来ないその理由は、パウロが明言する「罪が支払う報いが、死である!」という、「神の事実(真理)」を無視しているからに他なりません!


 「罪」が支払う「死」の身代わりとなり、全ての「罪」から贖い出して下さった、唯一の救い主イエス・キリストにこそ、私たちは自分の人生に対する、大いなる「望み」を置くのです。イエス・キリストは、私たちに対して無代価で、この永遠の命に至る「復活」を、信じる者全てに与えて下さる方です。


 主イエス・キリストによる、「復活」という素晴らしい御業と、「永遠の命」に至る「復活の福音」が、信じる私たちキリスト者を通して、霊的病いにある全ての人々に届かれますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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