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キリストの家族(No.35)

                        新しい家族の関係




・・・・ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、私とどんな関わりがあるのです。私の時はまだ来ていません。」しかし、母は召使たちに、「この人が何か言いつけたら、その通りにして下さい」と言った。・・・・イエスが、「水瓶に水をいっぱい入れなさい」と言われると、召使たちは、瓶の縁まで水を満たした。・・・・
                                                                                                 【ヨハネ福音書2章1~11節】


新訳聖書が示す「家族」とは?
 新訳聖書において「家族(family)」という単語は、実は一ヶ所しか記述されていません。それに似通った意味の言葉、例えばユダヤ人という「民族」を表す単語は、逆に多く記述されています。


 しかし、一般的な家族を表すギリシャ語の「家族」は、エペソ書3章15節にしか記述されていないのです。パウロはエペソ書において、新しい家族の奥義を紐説くに当たり、イエス・キリストの「み体」として説明しています。その中で彼は、私たちキリスト者一人一人が、イエス・キリストの「み体」の一部分として、霊的に組合わされ一致していく時に、「神の国」の聖なる関係が成立していくことも、重要な奥義として描いています。


 「御父から、天と地にある全ての家族が、その名を与えられています。」(エペソ書3章15節)の中に示される「家族」に関して、パウロは私たちが把握しているような、一般的な「家族」単位の次元ではなく、もっと更に大いなる「神の国」の次元で生み出されるもの、特に私たちキリスト者としての「召し」が、実はこの新しい神の「家族」という、霊的な関わり合いの中にあることを、パウロは私たちにも教え示しています。


 パウロが言及する、「天」と「地」にある全ての家族が、その名を与えられているその名とは、一体如何なる名前のことでしょうか?この御言葉を直訳しますと、「天及び地にある、全ての家族に対して送り届けている、神ご自身が名付けた真実の名前(本来の正しい名)」、つまりイエス・キリストにある新しい名前を意味します。これは「本来の人(アダム)」が享受していた、「エデンの園」における神との家族関係、つまりイエス・キリストを「頭(家長)」とする、新しい「み体(エクレシア)」にある、霊的関わりとしての名前のことです。


 では私たちが、「新しい家族」として再創造されていく時、如何なる霊的「関係」が、イエス・キリストとの「つながり(融合、一体化)」の中で、生み出されていくのでしょうか?また私たちが、霊的に新しいイメージをもって、「エクレシア(教会)像」を把握し直す時に、如何なる「新しい関係」が、家族の中にもたらされていくのか?この点について、イエス・キリストが最初に奇跡を行われた、「カナの婚礼」の記事から示して戴きましょう。


最優先にすべき「関わり方」
 このストーリーは、イエス・キリストが普通の「水」を、極上の「ぶどう酒」に変えるという、物理的には単純な出来事(奇跡)ですが、私たちはイエス・キリストの為された「しるし(業)」よりも、このストーリーに描かれている、麗しい「結婚披露宴」の姿が、本来在るべき「エクレシア(キリストのみ体)」であると、霊的に理解することの方が重要です。何故なら本来の私たちには、アダム(エバ)が「罪」を犯さなければ、イエス・キリストが為されたカナの奇跡よりも、更に麗しい天上の祝福を、無代価で与えられていたはずです。ところが現実は「罪」故に、様々な「犠牲(努力)」を支払っても、「神の国」の祝福に中々あずかれない、霊的ジレンマがあるのではないでしょうか。


 このストーリーに登場する、イエス・キリストの母マリヤも、人間的に見るならば私たち同様、何らかの「弱さ」の中にある一女性です。そして彼女は、イエス・キリストに対して、人間的な「情」を頼りとする、「家族的」なイメージで、イエス・キリストの元を、つまり息子(長子)にすがる気持ちで尋ねたのです。「私の息子イエスよ、どうにかしておくれ!」と。


 すると、一番頼りにしている「息子」は、まるで他人行儀と思われる、突拍子の無い返答をしたのです。「ご婦人よ、私とあなたと、どんな関わりがあるのですか?私の時はまだ来ていません!」と。このイエス・キリストの下線部の発言は、非常に理解しにくい表現(訳の仕方に関しても)ですが、この御言葉を分り易く説明しますと、「時」の次元に関して御子なるイエス・キリストが、母ではなく一人の女性として、マリヤに配慮し(気遣い)ながら、新しいある「関わり方」をもって言及している言葉です。


 イエス・キリストは「人情(魂の思い)」としては、「お母さん!」と呼びたいところですが、この時点で「神の国」の次元の中における、自分の置かれている「時」と「場所」と「方法」、そして父なる神が用いられる「人」に関しては、「全て」神ご自身が新しい方法をもって、「神の国」の実現の為に奇跡を行われることを、十分に熟知していましたので、イエス・キリストは「肉親(母)」としての、人間的な関わり方を優先するのではなく、父なる神の「権威」の下にある「時」と「場所」と「方法」、そして神が用いられる「人」を優先しながら、そのタイミングを探り求めていたのです。


 そしてイエス・キリストは、母マリヤが自分の元に来る前から、聖霊様を通して「ちょっと待ちなさい!」と、既に父なる神の「御心」を示されていたことにより、母マリヤの要求に対して「ご婦人よ、私は今父なる神との関係を優先しています。それ故あなたとの関わりに関しては、申し訳なく思いますが、少し後にしてくれませんか?父なる神が私に対して、正しい答え示して下さったその時に、あなたとの関わり方(要求)においても、正しい答えが示されますから‥‥」と、丁寧に説明されました。


 イエス・キリストの突然の変化に、当初は驚きを隠せなかったマリヤでしたが、彼女はすぐに気を取り直すことが出来ました。何故なら彼女にとって、今回のイエス・キリストの「返答」は、実は初めての経験ではなく、イエス・キリストが少年の頃にも、同様の「言い回し」を語った経緯があるからです。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(ルカ福音書2章49節)と。


 母マリヤは、イエス・キリストの「真意」を、瞬時に霊的に悟るや否や、「この人が何か言いつけたら、その通りにして下さい」(5節)と、イエス・キリストに対する関係を、新しいものへと切り替えました。即ちイエス・キリストが、「神の国」の次元にある、「新しい家族」として生きていることを、マリヤも信じたことにより、自らもその関わり方の中に従順したのです。


 その結果、「全て」のことがスムーズに運営され、更なる極上の「新しい酒」の宴に、全員が酔いしれる(祝福される)という、「神の国」の奇跡を体験しました。つまり「全て」のことが相働きながら、「神の時」至りて無名の人々を用いることで、父なるの神の「栄光」が婚礼の場に現れたのです。


 ここから示される奥義は、私たちは「時の次元」、そして「場所」の選定から、「方法」と「人」の用い方に至るまで、イエス・キリスト(家長)を中心(最優先に求めるべ方)とすべきです。私たちが「何」を、霊的に優先しながら信仰生活を送るのか?この新しい神との「関わり方」を、聖霊様から教え示して戴く必要があります。私たちが本来立つべき霊的次元、即ち父なる神の「御心」を優先し、イエス・キリストが「全て」のことを、相働きて益として下さるという、「神の国」の信仰(関わり方)に立ち返るのであれば、カナの奇跡は信じる私たちの現実生活にも、必ず起きるのです!


「新しい酒」にあずかる
 残念ながらキリスト者の中には、聖霊様が与えて下さる「新しい酒」ではなく、人本主義という「古い酒」を飲み続け、それがあたかも聖霊の満たしを受けているかのように、錯覚している人々が多くいます。しかしイエス・キリストは、今日も私たちに対して、激しい熱情と思いをもって言われています。「聖霊はあなた方が、古い酒に生きるとこを、決して良しとはされません!あなた方が更に霊的に満たされるべく、聖霊は新しい酒を次々と用意して下さる方です。」と。そうです!私たちは絶えずイエス・キリストの御元に行き、イエス・キリストから「命の水」を戴きながら、水瓶(自分の霊)の中に「命の水」を満たすという、素直な(召使いの如き)信仰が必要なのです!


 「この世」の次元に生き、「この世」に存在する、様々な人間関係を頼みとするなど、それら「全て」が古い酒なのです。私たちはイエス・キリストの「命の水」を、激しい飢え渇きをもって捜し求め、私たちの「霊」の只中に、聖霊を通して満たして戴きましょう。そうすれば私たちも、新しい「キリストの家族」として、神の「時」、神の「場所」、神の「方法」、そして神が用いて下さる「人々」によって、私たちの「霊」の内側から、思ってもみないような「新しい酒」が、こんこんと豊かに溢れ出て来るのです。


 聖霊様は日々あなたを、「新しいもの」で満たしたいのです。それは父なる神が、あなたに「新しい名前」を用意した以上、あなたにもたらされる「新しい業」は、「古い状態」のままではなく、常に「新鮮さ」をもって用意され、あなたが日々新しく聖められることを通して、「この世」の次元にある「古い酒」に、相も変わらず満足する人々に対して、大いなる神の御業、つまり極上の「ぶどう酒」を携える、新しい「あなた」に造り変えるためです。そうです!あなたは、新しく造り変えられた者として、この時のイエス・キリストのように、神との新しい関わり方の中で、優先すべきものは「何」なのか?を、明確に聖霊様を通して教えられ、日々前進して行くのです。


 父なる神の「御手」は、決して私たちを手放すことも、孤児とすることも、見捨てることも無く、しっかりと私たちの手を握って下さいます。全ての「良き業」が、イエス・キリストを中心とする、新しい「家族」の関り合いの中において、あなたの現場(持ち場)に、豊かに(極上なものとして)現されることを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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