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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.34)

                   キリストにある家族の絆




さて、カペナウムに王の役人(百人隊長)がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カペナウムまで下って来て息子を癒して下さるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、「あなた方は、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいで下さい」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると・・・・それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。
                                                                                               【ヨハネ福音書4章46~53節】


「死」と「生」の対立
 今回のストーリーに登場する百人隊長、彼はエリート役人ではありましたが、名も無き「一軍人」でした。その彼(家長)の「跡継ぎ(息子)」が、ある時から中風(マタイ福音書8章参照)の病気になり、ついに死の床に就く程、病状が悪化していたのです。


 今回のストーリーには、「死」と「生」という言葉が、数多く記述されています。例えばイエス・キリストは、息子の「死」に対して、「否、彼は生きている!」と、明確に返答しています。即ち、人々が「もはや死である!」と断定しているにも関らず、父なる神の次元の支配下にある「息子」は、「生」である!と宣言されるなど、「死」と「生」が対立し合いながら、ストーリーが展開されて行きます。


神が建て上げる「絆」
 さて、今回のストーリーに示されている、「キリストの家族」を成立させる「絆」とは、如何なるものであるのか?この点について私たちは、聖霊様から教えて戴く必要があります。この世の「絆」以上の、より深い密接な関り方及び現れ方が、主イエス・キリストとの関り合いの中で完成される!こと、この点を先ず覚えて下さい。主イエス・キリストが、父なる神の「命の言葉」を発せられる時、「キリストの家族」全ての中に、麗しい神との「絆」が建て上げられること、まさしくその「生きた証言」が、今回のストーリーの中に、如実に物語られています。


 ご存知のように「絆」とは、人間関係の親密度を計る上で、よく使用される言葉の一つです。「絆」という漢字の語源は、「繋(つな)ぎとめること」です。それは、バラバラになった糸くずが、より強く結び合わさった状態を表しています。「綱(ロープ)」の場合は、一本の「紐」が何本も寄り合わせられながら、強固になっていくのに対し、「絆」の場合は、何の役にも立たないように見える、一片の「糸くず」であっても、何とか結び合わされながら、少しずつ強固になっていくイメージです。


 私たち「キリストの家族」も、この世の人間関係以上に、ある時は一致団結して問題(事)に対処していくなど、霊的に麗しく力強い状態となる、これこそが家族としての「絆」が持つ、不思議な「力」ではないでしょうか!イエス・キリストを長子とする、「キリストの家族」においては、この聖なる「絆」さえあれば、如何なる状況においても、「キリストの花嫁(エクレシア)」として前進することが出来ます。


 ヨハネばかりでなく、他の共観福音書の記述者たちも述べていることですが、この百人隊長は高位の役人であるにも関らず、自分の部下たちぱかりでなく、カペナウムの地元住民からも、尊敬の念を持って慕われていた訳ですが、その一番の理由が、実は彼らの「絆」にあるのです!部下から見て百人隊長は、たとえ上官であっても「家族(身内)」ではなく、いわゆる「他人」としての関係に当たります。しかし、イエス・キリストの元を訪れた部下(代理の者)は、百人隊長からの「言葉(伝言)」を、自分の家族からの「伝言」の如くに、真剣にイエス・キリストに伝達しました。


 そうです!百人隊長は、部下及びカペナウム住民を、「神の家族」として受け入れ、紳士的(親密)に付き合っていたことが伺えます。それ故イエス・キリストが、部下の「伝言」に応える形で、百人隊長の元に向かうべく、足を運ぼうとした「その時」、部下は「ちょっとお待ち下さい!私どもは隊長の言葉に、絶対に信頼して付き従っています。同様に私たちは、あなたが真の救い主であると信じています。ですから、あなた様のお言葉を授けて下さい!私どもに、一言命じて下さるだけで結構です。私どもは、あなた様から下知されたご命令を、上官の元に持って帰りさえすれば、私どもの家族の一人である隊長のご子息は、必ず死の状態から生還します。」と告白しました。


 するとイエス・キリストは、この部下のとんでもない(予想もしない)「発言」に驚いて、「まさしく、これこそ立派な信仰の見本である!このような信仰の言葉は、ユダヤとガリラヤの民の中にも聞いたことがない。」と感心しながら、続いて「よろしい。では私は今、あなたに命の言葉を授けよう。あなたに命じる。隊長の息子は今、生きるようになった!」と下知されたのです。


「神の時」をもたらす「命の言葉」
 イエス・キリストから、神の「命令」を下知されるや否や、この部下はまるで「王」や「将軍」から、直々に戴いた「軍令(勅令)」の如くに、その「命の言葉」を自分の「霊」の中に携えて、一目散に隊長の元に引き返しました。その後イエス・キリストは、隊長の部下に案内されながら、隊長の「家」に到着することになりますが、52節から推測できる範囲では、恐らく歩いて半日以上かかる程度の、距離があったことです。そして隊長の「家」に到着して、初めて判ったこと(結果)は、息子が回復した時刻が、ちょうどイエス・キリストが、部下に命じられた時刻と、「同一の時」であったことです。


 実は私たちに与えられる、「キリストの家族」に対する唯一の、そして偽ることの無い、永遠に生き続ける贈り物があります。それは百人隊長にも、三次元的な「時刻の壁」を乗り越えて与えられた、イエス・キリストの「命の言葉」です!これが私たち「キリストの家族」を、如何なる状況にあっても、より強く(固く)結び合わせる、神からの聖なる「絆」です。「命の火」が消えかかるような、また糸くずにしか見えない、私たち家族の中にある弱い関係を、イエス・キリストは常に、聖霊様を通して組み(結び)合わせて下さり、永遠に朽ちざる「命の言葉」をもって、全てのことから贖い出して下さいます。


 信仰とは、未だに確認していない「事実」を、あたかも見て「有るもの」の如くに、実際に確認することです。確認するとは、実際に調査(研究)しながら、そのものの状態を自分の目・耳などで、実証(把握、認識)することです。百人隊長の部下は、重要な「事実」を知って(確認して)いました。つまり、イエス・キリストの「命の言葉」を戴きさえすれば、たとえイエス・キリストが、ご子息の元にいらっしゃらなくても、必ず「その通りになる!」ことを。


私の愛する人たち、いつも従順であったように、私が共に居る時だけでなく、居ない今は尚更従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなた方の内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、咎められるところの無い清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非の打ち所の無い神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。
                                                                                                      【ピリピ書2章12~16節】


 私たちはイエス・キリストの「命の言葉」を、何にも換え難い貴い絆、つまり神からの最高の「贈り物」として、いつも求めて行きましょう。そして私たちはそれを、世に携えて行く務めがあるのです。「命の言葉」は、人の語る「言葉」の次元(領域)には存在しません。私たちの考える、「時の次元」を超えて働くのです!また私たちは、その場所さえも知りません(予想も出来ません)。しかし「命の言葉」は、必ず「キリストの家族」に対して、信じる者全てに成就する(実現する)のです!それは「肉の方法」ではなく、「神の法則」によって進められ、私たちキリスト者が常に、父なる神の「御業」を褒め称えるためです。


 イエス・キリストの「命の言葉」を、上よりの「信仰」をもって信じる(確認する)ことこそ、私たちキリスト者の「望みの源」です。イエス・キリストの麗しい「絆」が、あなたの信仰生活の中に豊かに働き、またより強く現れ出る(結び合わせられる)ことを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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