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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

復活の福音(No.18)

                  新しい「出産」プロセス




ファリサイ派に属する、ニコデモという人が・・・・あるよ夜、イエスの元に来て言った。「ラビ、私どもは、あなたが神の元から来られた教師であることを知っています。・・・・」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょうか。・・・・」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。誰でも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」
                                                                                                   【ヨハネ福音書3章1~6節】


ニコデモの描く「神の国」
 「律法」の専門家であり、教師の中の教師と尊敬される、一人の老人ニコデモはこの時、「真理」に対する飢え渇きが、非常に強かったことが、ヨハネの記述から伺えます。彼の「霊」の中には、ローマ帝国という巨大国家による支配ではなく、唯一の真の「神」を中心とする、かつてのダビデ王国時代の如くに、麗しい「神の国」の地上版が、再興されることを夢見ていました。そこにおいては、人間的な政治による統治ではなく、神の「御言葉」を祭司が、その都度戴きながら、イスラエルの民を正しい方向に導くという、神託統治スタイルの国家が樹立されるのです。


 ご存知のように、イエス・キリストが説く「神の国」とは、神託統治型国家ではありませんでした。イエス・キリストは常々、「神の国は、あなた方の霊の只中にある!」という、新しい霊的国家のイメージをもって、単純な教えを説きました。それ故ニコデモは、このイエス・キリストの福音に関して、常に不思議な感情を抱いていました。「神の国が、どうして霊の中にあるのか?目に見える現実は、どうだ!全ての人々が、今も尚苦しみの中にあるではないか。」などと、彼は議員の立場からも、政治的使命(志し)を抱きながら、国家再建への「働き」に努力したことでしょう。


 ところが為せば為す程、「現実」という名の壁が立ちはだかり、次第に「希望」が「失望」へ、「忍耐」が「諦め」へと傾いて行く始末。にも関わらずイエス・キリストの場合は、純粋に「天」を見上げながら、「皆さん、神の国と神の義を、先ず第一に求めましょう!そうすれば、それらのものに加えて、あなた方に必要なものが備えられます。だから何よりも、神の国があなたの霊の只中に、あなたの家族の中に満ち溢れ、神の救いが実現されることを求め続けましょう。」と、福音を大胆に宣言し続ける訳です。


 私たちの「現実」生活の中にも、ニコデモと同様の飢え渇きは当然生じてきます。目に見える世界としては、「希望」無き状態が続き、「明日の糧」を心配しなければならない食糧危機の時代に、この「日本」も突入しているのではないでしょうか!そのような「現実」にあって、私たちは「何」を求めて生きたらよいのか?時々分らなくなる・・・・、そんな毎日を過ごしています。


「出産」プロセスに必要なもの
 ニコデモの突然の「訪問」を、聖霊を通して知らされていたイエス・キリストは、ニコデモが切り出した「言葉(問い)」に、何のためらいも無く「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3節)と、新しい「命の言葉」を用意しました。このイエス・キリストの文言は、文法的には「条件節(~しなければ・・・・)」を伴う言葉ですが、逆説的にはイエス・キリストが、次のように断言しているとも言えます。「あなたが新しく生まれるという、神の恵みに入りさえすれば、あなたが今まで抱いてきた様々な疑問を、全て解決できる程の、肉眼でも霊の眼でも見る(確認する)ことの出来る、神の国の臨在が現されることでしょう!」


 ニコデモは、イエス・キリストの明確な返答に、度肝を抜かれました。余談になりますが、産婦人科の医者の殆どが、妊婦さんに対して次のようにアドバイスします。「出産とは、100%大丈夫(安産できる)!と言えるものではなく、新しい命を胎の中に宿した時から、常に死の危険が付きまとっています。それ故に母体共々、出産の時まで健康には、十分配慮して生活するように!」などと。そういう意味では、「出産」とは「死」を乗り越える、新しい「命」の誕生プロセスと言えます。


 実は「出産」のプロセスには、「水」と「膜」と「空気(酸素)」という、三つのキーワードが重要となります。水とは「羊水(胎水)」のことで、この「羊水」の守り(膜の覆い)の中にあって、初めて赤子は生きられるのです。そして、胎盤と赤子を繋ぐ「臍帯」を通して、母体から栄養と酸素を含んだ「血液(命の源)」を取り込むことで、赤子は日々成長して行きます。


 ところが、父なる神が定めた「その時」に、母体の中にうめき(陣痛)が始まりますと、「羊水」を覆っていた「膜」が破り裂け、羊水の全てが産道から流れ出ます。すると赤子は、今まで守られていた「羊水」が無くなった訳ですから、何となく生存しにくい環境になったかの如くに、次の「動き」へと導かれます。即ち「うめき」と同時に、実は産道も動き始めるのです。まるで「赤子よ、少しずつ出て行きなさい!」と言わんばかりに・・・・。


 赤子が産道を通って、ようやく外界へと導かれ、自分の「体」が出終わった瞬間に、助産師は「赤子」を抱きかかた後、胎盤に繋がる「臍帯」を、赤子の臍(へそ)の部分で切断処置します。それから助産師は、「赤子」の背中を、何度も何度も指で軽くたたきます。何故でしょうか?それは故意に痛みを「赤子」に与えることで、泣かせるためです。


 すると「赤子」は、初めて「オギャー!」と泣き出し、これが「産声」となります。つまり「産声」を挙げて初めて、赤子は新しい空気、即ち酸素運動という、命の呼吸を開始するのです。以上が「出産」という命のプロセス、即ち「赤子」が新しい世界を生きるために、必要なプロセスの全てです。


水と霊による「出産」プロセス
 主イエス・キリストの言わんとする、新しい「命」の出産プロセスを、全く理解できないニコデモに対して、続いて「はっきり言っておく。誰でも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(5節)と、ニコデモにとって更に分りにくい霊的奥義を語られました。イエス・キリストはここで、「水」と「霊(聖霊)」による、新しい出産形態のイメージで説明されています。


 ローマ書8章に記述されているように、アダム(エバ)が犯した「罪」故に、被造物全体が悪しき「汚れた水」に、霊的に覆われながら苦しんで生きています。その中に父なる神は、御子(イエス・キリスト)を遣わし、新しい「救いの種」を、私たちの「霊」の中に蒔かれ、それ故に私たちは新しく救われる(生きる)という、霊的成長プロセスに至りました。


 しかし依然として、「罪」の法則という世俗の「膜(シールド)」が、私たちの「霊」を覆っている訳です。この「罪」の覆い(膜)は、決して私たちを新しく生きさせること無く、むしろ逆に「死」の領域へと導くものです。「罪」がもたらすものは、完全な死です。ところが覚えて戴きたいことは、イエス・キリストの為された、「十字架」による贖いの御業は、この「罪」がもたらす全て、とりわけ死のフィールドを打ち破る!という素晴らしい働きを、私たちに無代価で提供して下さるのです。


 覚えて戴きたい重要な「事実」、それは私たちの霊的な「死」をもたらす、「この世(汚れた水)」の覆いを、完全に打ち破ることの出来る方は、聖霊様だけです!聖霊様が、私たちの「霊」の中に、言い難き「うめき」を伴って働き始める時に、ようやく私たちは自分の「罪」を見せられ、私たちは聖霊様に導かれながら、死のフィールド(産道)を通過させられます。そして遂に私たちは、新しい「復活の命」の領域に産み出されるのです。


被造物だけでなく、霊の初穂を戴いている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
                                                                                                              【ローマ書8章23節】


 パウロのこの表現は、まさしく私たちキリスト者が神の新生児として、必死にうめき苦しんでいる(飢え渇き続ける)ことを示しています。「もっともっと、体が贖われる(復活される)!」ことを求めて、即ち「罪」の覆いの世(フィールド)にあっても、堂々かつ大胆に生きていくことの出来るキリスト者、そしてサタンの汚れた「惑わしの声」に騙されること無く、霊と真をもって父なる神に、「産声(霊の)」の祈りを始める、新しいキリストの使徒として、神の「命の言葉」を宣べ伝えるなど、これが聖霊様の私たちに対する「働き(うめき)」です。


 素晴らしい神の「復活の福音」は、私たちのために聖霊様を通して、常に用意されていることを感謝しようではありませんか!あなたが今、様々に悩み苦しみ、言い難き「うめき」を伴う程の状態にあるのであれば、必ずそれは、父なる神の「ご計画」の中で、「後の雨」の大収穫の時に対する、霊的「備え」として確立されている!このことを信じて、聖霊様の励ましを受けつつ、日々前進することが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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