バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.33)

                   もう泣かなくてもよい!




それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群集も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、・・・・イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。
                                                                                                   【ルカ福音書7章11~15節】


イエス・キリストの「訪問」
 今回のストーリーに登場する「家族」は、「母(やもめ)」と一人「息子」という、僅か二人だけの小単位です。それ故、このストーリーの時間経過においては、その一人息子が死んだ訳ですから、母は一人ぼっちになりました。そのような不幸な彼女の元に、イエス・キリストが訪問されたのです。


 その訪問は偶然の、或いは突然(計画性の無い)出来事だったのでしょうか?否!イエス・キリストが、ある人の元に訪問される時、そこには必ず何らかの「意味付け(目的)」があることを知って下さい!その「意味付け」とは、父なる神の「救い」の御業を豊かに現し、そのことによって父なる神の「栄光」を現すことです。ならば、「悲しみ」と「死」の状況に追い込まれ、絶望の中で「何」も為し得なくなった、彼女に対するイエス・キリストの「訪問」の意味付け、それは如何なるプロセスをもって現されるのか?この点に私たちも注目すべきです。


「もう泣かなくともよい」とは?
 彼女は毎日、ただ泣き続けるばかりでした。いつ頃から、泣き続ける状況にあったのか?聖書には何も記述されていませんが、恐らく長期に渡る「息子」への、看病生活があったのかも知れません。「もう泣かなくともよい」(13節)の言葉の中にある、「もう」という表現は、短期の時間経過を意味する副詞ではなく、ずっと以前から「息子」の病い(完治の兆しが見られないもの)のことで、悲しみに打ちひしがれてきた状態に対して、神の介入による停止宣言を明言するために、あえて付け加えた重要な副詞ではないでしょうか!


 ご存知のように医者でもあったルカは、様々な「病い」に関することを、町医者の立場から知っていました。15節においてルカは、イエス・キリストの「ご命令」により、この「息子」が完全に癒された時のことを、「ものを言い始めた」と、症状が完治したものとして、具体的に記述しています。この記述から推測できることは、明らかに「息子」の病いの症状の中に、言語障害があったという点です。「息子」が死の状態から回復し、床より起き上がることも、医者の診断(見立て)からは、素晴らしい結果ですが、それよりも更に医者の常識を覆す「癒し」が、息子の「唇」からほとばしり出ていた、つまり明らかに流暢な「言葉」をもって、息子は語り始めたのです。あくまで私(著者)の推測ですが、「息子」は幼少の頃から寝たきりの状態、つまり植物人間に近い症状、或いは「脳性麻痺」による言語障害ではないかと思います。


 イエス・キリストが母親に言われた、「もう泣かなくともよい」という、父なる神の「命の言葉」に、私たちは注目する必要があります。この時代の、ユダヤの一般庶民の生活に関して言えば、彼らはローマ帝国の圧制の下、様々な税を搾り取られる、そんな奴隷的苦境に近い状態でした。彼女(母)も、そんな苦しい生活を強いられる中、一人息子(将来の大黒柱)の、健やかなる成長を頼みとし、必死に耐えながら働いて、家計を支えていたことでしょう。


 ところが突然、その一人息子がある時不治の病いに倒れ、寝たきりで「もの(言葉)」も言わなくなるという、それは「母」にとって、到底立ち尽くす(気丈に生きる)ことの出来ない、悲惨な状況に陥りました。彼女は「その時」から「るつぼ」の中に、「悲しみ」と「絶望」の涙を、常に溜め込むことになったのです。


「死」と「生」の意味付け
 今日の日本の若者に、少しずつ蔓延している「死の霊」について、皆様はご存知でしょうか?生きる「希望」や、生きる「目標」など、日本の若者には、生きる「意味付け」が余り感じられません。何故ならば、彼らの殆どが最初から、恵まれた状態の中に生きているからです。このストーリーの時代のように、とにかく生きるために、必死に貧困の中から脱出しようと試みるなど、生き抜く努力(意思)が、今日の若者たちの「霊」の中に、教えられていないのかも知れません。「死」と「生」の意味付けが、明確にされていない若者の間には、インターネット(自殺のサイト)を通じて、「死」を渇望させる悪しき情報が、多岐に渡って流布されています!


 しかし私たちキリスト者は、たとえ如何なる状況にあっても、「死」ではなく「救い」をもたらす、「真の羊飼い」に導かれている以上、贖われ続けるのです!父なる神が御子イエス・キリストを、私たちに遣わして下さった理由は、各々の「家族」に対して、一番必要な「命の法則」を提供し、この「やもめ」であるならば、もう生きる「気力」も失せ、「死」の崖っぷちに立ち、後は身投げせざるを得ない程の、「死の霊」に導かれつつある一女性(母)の元に、イエス・キリストはある目的をもって来られたのです。


 その唯一の「目的」とは、「もう泣かなくともよい」という、父なる神の「命の言葉」に中にあります。つまりイエス・キリストが、彼女の元を訪れた「その時」から、彼女の「人生」は泣き続ける人生ではなく、神の新しい「救い」に入る人生が、永遠の約束として保証されるという、素晴らしい御業を用意することでした。そしてイエス・キリストは、死者(一人息子)が眠る「棺」に、手を触れながら一言、父なる神の「命の言葉」を発した(命じた)のです。「若者よ、あなたに言う。起きなさい!」と。


 その後に起きた、神の偉大なる「奇跡」の様子を、ルカは「死人は起き上がってものを言い始めた。」(15節)と、ものも言えぬ植物人間の状態から、正常に言語を発する健常者への状態へと、突然に快復したことを記述しています。そして、母の「悲しみ」と「絶望(死)」の涙は、「その時」ストップしたのです。この時を境にして、次は「喜び」と「希望」と「感謝」の涙が、どっと溢れ出したのではないでしょうか!


 そうです!私たちの主イエス・キリストは、彼女の「家族」に訪れて下さったのと同様に、日々「新しい命」と「新しい人生」、そして生きていく上での「新しい意味付け」を与えるべく、あなたの元を訪れて下さっています!あなたが更に、新しい「命の法則」にあずかり、この蘇った「息子」の如くに、「主よ、私は救い主であるあなたと、出会うことが出来たから、今このように生きられるのです!私もあなたと共に生きます。あなたに全てを託すこの私を、麗しい救いの領域へと導いて下さい!」と祈り求める時に、あなたは必ず「死」ではなく、尽きることの無い「喜び」と「希望」をもたらす、主イエス・キリストの「救い」を、聖霊様の助けによって常に体験していくことを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する