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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.32)

          信じなさい!そうすれば救われます!



会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足元にひれ伏して、しきりに願った。「私の幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやって下さい。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。・・・・・・・・イエスがまだ話しておられる時に、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。・・・・
                                                                                          【マルコ書5章21~24,35~40節】


ヤイロの「信心」
 ご存知のように世間的に権威ある人々、例えば医者や裁判官などの、国家資格を持つ人々から、権威ある言葉を聞きますと、私たちはその言葉の内容(情報)に、たちどころに信じる傾向があります。私たちの「霊」は、父なる神の「命の言葉」によって創造されたことから、恐らく権威ある人の語る「言葉」にも、信じようとする性質があるのかも知れません。特に権威ある人々の「言葉」に、何らかの力(重み)と説得性がある場合、たとえ現状がどうであれ、私たちはその人の言葉に信頼し、信じぬく方向に傾いて行くのではないでしょうか!


 イエス・キリストの緊急出動を、心待ちにしていた会堂管理者ヤイロも、最初はイエス・キリストの言葉を信じて、すぐさまイエス・キリストの「訪れ」を期待しました。ところが途中、イエス・キリストは別の女性に対して、「ミニストリー(奇跡の応答)」を為したことにより、ヤイロの期待していた「予定の時刻」が、相当に遅れることになりました。


 その後、ヤイロの家の使用人が家から駆けつけて、恐れていた事態(悪しき知らせ)を告げました。「ご主人様、お嬢様は残念ながら、先刻お亡くなりになりました。お悔やみ申し上げます。」と。ヤイロはその瞬間、「暗黒の谷間」に突き落とされた気持ちから、「イエス様さえ、間に合っていてくれたら・・・・」などと、不信仰の領域よりも更に悪い、「もう終わった!」という、「信仰の死」の状態に陥りました。


イエス・キリストの「一言」
 すると、そばで聞いておられたイエス・キリストは、非常に「霊」が動かされて、父親ヤイロに対して「恐れることはない。ただ信じなさい」(36節)と、一言だけ語られました。仮にイエス・キリストのこの言葉が、癌などの「不治の病い」にある患者を、幾度となく施術し、手術成功に実績のある名医から言われたのであれば、ヤイロ(私たちも含めて)は安心して、イエス・キリストの次の御業に備えながら、信じ続けることが出来たかも知れません。


 しかし、イエス・キリストが実際言われた言葉は、短い「言い回し」に過ぎませんでした。決して「大丈夫だ!」とも言われていません。「恐れるな!」、「信じ続けよ!」という、二つの「命令」だけです。イエス・キリストの「一言」に対して、恐らくヤイロは右の耳に入っても、左の耳から出て行くという状況、つまり彼の「耳」のエリアには、使用人がもたらした言葉、即ち「娘は死んだ!」という最悪の知らせだけが残り、暗闇が彼の「霊」を支配しつつあったのではないでしょうか。


 イエス・キリストは、「救い」の御名を持つ方ですから、当然「救い」の御業を現す際には、御国の権威を行使されます。その時、仮に私たちがヤイロの如くに、「絶望」という名の、霊的な「暗闇」の深き谷間にあっても、イエス・キリストは「真の主治医」として、権威ある「命の言葉」を用意されることを、私たちは是非信じようではありませんか!私たちはイエス・キリストの言葉を、例えば「~すれば、・・・・なる」、言い換えれば「この薬を飲めば、必ず健康を取り戻し、完治するんですよね!」などと、事細かく権威者からの「言葉」に、期待する傾向にありますが、皆さんは如何でしょうか?


 恐らく、皆さんも経験あることでしょうが、私たちが「暗闇の谷間」にあり、物凄く打ちひしがれる程の、霊的病いに苦しんでいる時に、聖霊様を通して語られる「お言葉」は、殆どが「恐れるな!」、「信じなさい!」、「待ち望みなさい!」、「前進し、祈り続けなさい!」などの、短い「言い回し」ではないでしょうか!私たちは確かに、聖霊様からの語りかけが、「権威ある言葉」と知っています。ところが私たちは、この時のヤイロの如くに、その言葉は「頭の隅っこ」にあるばかりで、「暗闇」の中で右往左往に少しだけ進み、もがき苦しむだけです。


「Only」の信仰行動
 イエス・キリストは、この一連の出来事の中で、私たちに対して、ある重要な指針(ガイダンス)を与えています。つまり私たちが、霊的な「暗闇の領域」に飲み込まれ、「霊的な死」に陥らないように、ヤイロに対してその後取り扱われたのと、同様の処方(導き)をもって、二つのガイダンスを与えています。


 先ず第一のガイダンスは、イエス・キリストがヤイロに対して、単純な言葉のみを、語っているという事実です。つまり、イエス・キリストの権威から発する「命の言葉」は、この時のヤイロの三次元的な、思いの領域を支配する「人の事実(三次元的なもの)」とは、別の次元(四次元の霊的領域)に存在し、神の「救い」の現れは、未だ「完成の時」に至っていない!という「神の事実」が、イエス・キリストの「一言」にあるのです。しかしヤイロの「事実」は、彼の恐れていた「現実(三次元的事実)」通りに、彼の目に現されることになります。それは、「葬式」の最中という事実でした。


 するとイエス・キリストは、泣き叫ぶ女性たちの「演出(仕事)」を見て、「霊」が激しく憤りつつ、葬式に参列する人々に対して、次の「命の言葉」を発しました。「何故、あなた方は泣き騒いで、葬式という愚かな行事をしているのか?子供は死んでいるのではなく、ただ眠っているだけだ!」と。第二のガイダンスは、39節の御言葉の中に記されています。それは「ただ眠っているだけだ!」という表現です。これは、36節にもある「ただ~なさい!」と同じ言葉で、英語では「only」という副詞です。


 イエス・キリストの語られる「言葉」には、必ず霊的な「奥義」が物語られています。私たちが「暗闇」という、「絶望」と「死」の領域に陥らない為にも、イエス・キリストが「何」を、私たちに提供されているのか?この点を常に聖霊様を通して、見定める必要があります。「信じなさい!」と命じられても、私たちは多分「何を信じればよいのですか?」などと、屁理屈を言うことでしょう。しかしイエス・キリストが、私たちに命じられていることは、「何か」を信じることではなく、「only~」という、単純な「行動(信仰の歩み)」です。


 それ故にイエス・キリストが、第一の「only(信仰行動)」に応える形で、第二の「onlyの領域」に踏み入るよう、ヤイロに対して(私たちに対しても)、再びガイダンスを示しているのです。しかし葬式に参列していた人々と、イエス・キリストの弟子たち全員は、ついに師(イエス・キリスト)が「気がふれたのでは・・・・?」という反応を示しました。


タリタ、クム!
 イエス・キリストは、本当に眠っている少女に接するが如くに、ヤイロの娘にそっと近寄り、優しく娘の手を握りながら、両親と同様の表現をもって、一つの言葉を発せられました。「タリタ、クム!」と。それは決して、死者に語りかける類の言葉ではなく、生きている娘に対して早朝に使う、「娘よ、起きなさい!」という、単純な「命令」でした。権威ある人の語る「言葉」を、私たちが聞き留める時、私たちは「もっと、より具体的に説明して下さい!」などと、更なる言葉の説明を求めて、複雑化する傾向にあります。しかし、イエス・キリストが語られる「言葉」というものは、「ただ信じなさい(only believe)!」など、神の「事実」を確認する方向に、私たちを正しくガイドするものです。


 父なる神が、「暗闇」に対して「光あれ!」と、一言(単純な言い回し)命じられた瞬間に、今まで何も存在しなかった、「暗闇」のフィールドに「真の光」が出現し、「暗闇」は退却しました。それ故に、ルカの表現(記述)を借りるのであれば、32節の言葉は更に「ただ信じなさい。そうすれば娘は救われる(必ずよくなります)。」(ルカ書8章50節)という、深い奥義を持つ言葉になります。医者でもあるルカは、イエス・キリストの「言葉」に、非常に興味を持ったこともあり、真の医者なるイエス・キリストの、権威ある「お言葉(処方)」の結果(事実)を、「すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。」(同書8章55節)と書き記しました。つまりルカは、彼なりの「カルテ(問診表)」として、このように診断記録を残したものと思われます。


 イエス・キリストにとって、娘の「霊」は生きている、それ故に皆が「死」と判定した、彼女の体に「霊」が戻るよう、娘の「霊」に直接命じること、これが父なる神の計画された、「救い」の最終段階(完成の時)でした。そうです!私たち「キリストの家族」の、「真の主治医」が来られる限り、「途中で何が起ころうとも、イエス様!あなたがおられる限り、私の問題はただ眠っているに過ぎません。必ず、完成(解決、完治)する時が来ます。目の前に起きる現象は、まるで絶望と死の状況に見えるかも知れません。しかし、あなたのご計画は進行中です。必ず霧が晴れるが如くに、あなたの救いの現れが、真の光として産み出されるでしょう。ですから、私の願いに応えて下さい!」と告白しましょう。


 私たちが、イエス・キリストが命じられた通りに、「カラシ種」程度の信仰を働かせるという行動は、①恐れないで信じ続けること、②不可能と思える、死んだように見える状況にあっても、それは神のご計画の中にあっては、生き続け働いてること、③イエス・キリストの御名によって、自分の霊に対して「我が霊よ、天よりの力により、起き上がりなさい!」と命じること、この三点に尽きます。父なる神の「救い」のご計画が、真の主治医なる、イエス・キリストの豊かな霊的取扱いと、日々助け主として働かれる、聖霊様の明確な霊的ガイダンスを通して、あなたの信仰生活に現されますよう、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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