バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

復活の福音(No.16)

                           自分を捨てる




私に付いて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。
                                                                                                   【ルカ福音書9章23~25節】


「捨てる」とは?
 今回の箇所は、マタイ福音書16章においても、同様の記事が記されていますが、その記事の中で弟子のペテロが、イエス・キリストの十字架刑という、神の「ご計画」に対して明らかに反対し、イエス・キリストの行動を止めようとしている、彼の言葉(表明)が記述されています。


 普段のイエス・キリストでしたら、師としてペテロのことを大事に扱って、親しい間柄の言葉をかける存在でしたが、この時のイエス・キリストは、全く今までにない言葉を彼に命じました。「だまれ、サタン!あなたは神のことを思わず、人のことばかりを思っている。そうしている限りは、神の御国はあなたの中に成就しない!」と。


 私たちは、今回のイエス・キリストの御言葉(ルカ福音書9章23~25節)を読む時、殆どのキリスト者が「あー、イエス様を信じて従って生きるということは、自分の持てるものを全て捨てて、イエス・キリストの御元に馳せ参じなければならない。と言うことは、例えば家庭を持つ者であれば、夫(妻)や子供もいつの日か、捨てなければならないのだろうか?」などと、霊的な疑問を抱くことでしょう。


 しかし、今回の御言葉の「捨てる」とは、原語的には「不要なものを廃棄する」などのイメージを、意味する言葉では決してありません。それは、良い意味でも悪い意味でも「自分のことを失う(忘れる)程に、何かのことに没頭する(思いを囚われる)」ことです。実は、アダム(エバ)が罪を犯して以来、全ての人々に共通する、霊的な「死」をもたらすもの、それは「神のこと」を思わず、「人(自分)のことを優先的に欲する思い」のことで、各々の「霊」の中に存在しているのです。


 それ故にペテロ(私たちも含む)は、自分中心のイエス・キリスト像を、心の中に描いていたのです。つまり、ペテロの肉的な「思い(計画)」の中に、「イエス・キリスト」を、どう位置付けていくのか?を、彼は常に優先的に欲しながら、肉的に生きていたのではないでしょうか。


 「自分を捨てる」とは、別の言葉で言い換えるなら、「自分中心に欲していることを忘れる」ことです。そしてこの場合の「忘れる」とは、記憶していることを忘れる(失う)イメージの言葉ではなく、何か大切なものを置き忘れる時の、意味合いに近い言葉です。私たちは中々、この「自分」を捨てる(忘れる)ことが出来ません。しかしイエス・キリストは、「罪」に支配され易い私たちのために、ここにおいても「復活の福音」を、同時に語られている(記されている)のです!


 例えば「自分のこと」を忘れる程に、何か別のもの(事柄)に心を囚われているとすれば、その時が「自分のことを捨てる」状態になっていると言えます。しかし私たちの「霊」の中に、「罪」がはびこり始めますと、「神のこと」を忘れてしまい、逆に「自分のこと」が思い起こされ、徐々に拡大していくことになります。これがサタンによる「罪の支配」の法則です。


 聖霊様の場合は、サタンの働きとは逆に、「自分のこと」を忘れ去り、「神のこと」を最優先に欲するよう、常に働きかけて下さいます。父なる神は、私たちの「弱さ」をご存知であり、私たちの「弱さ」の全てを慮(おもんばか)りながら、霊的に様々な「配慮」をされていることがあることを、私たちは改めて知る必要があります。


アガペーの愛に立ち返る
 では私たちが、「神のこと」を最優先に思い起こすためには、どうしたらよいのでしょうか?この時のペテロは、いつしか熱心党員の弟子たちや、イスカリオテのユダ同様に、人間的な「肉(肉の努力)の業」によって、「神の国」の建設を完成する!という思いに凝り固まっていました。この時イエス・キリストは、ペテロの「霊」の中に巣食う、サタンに対して「黙れ、サタン!」と叱ったにも関わらず、彼は自分が突き放されたかのように錯覚し、イエス・キリストが逮捕された直後には、師のことを三度も「知らない!」と偽ることで、「命(自分のこと)」の保身に奔走しましたが、結局その後、師を裏切った「自分」に失望し、元の猟師に仕方なく戻るべく、ガリラヤに身を潜めました。


 そんな裏切者(敗残兵の如き)ペテロの元に、復活されたイエス・キリストが、わざわざ訪問して下さり、先ず一回目に「この人(弟子)たち以上に、(アガペーの愛で)私を愛しているか」(ヨハネ福音書21章15節)と問い質したのです。これは「私に付いて来なさい!人間を獲る猟師にしよう。」と同様の意味を持つ言葉です。続いて二回目に、再度「私を愛しているか」(16節)と命じられ、最後(三回目)にも「(人の愛でもよいから)私を愛しているか」(17節)と尋ねられた瞬間、ペテロは「ハ!」と気付いたのです。


 この時、彼は即座に悔い改めました。「自分」中心のことを考えたばかりに、自分が三度(三回)も、イエス・キリストとの「関わり合い(親しい交わり)」を否定し、イエス・キリスト(師)の元から、そそくさと逃亡することになった・・・・。そして、「自分」中心の生活に戻ってしまった、愚かで惨めな今の状態にも関わらず、イエス・キリストは再び、迷い子になったペテロを、サタンの元より買い戻され、イエス・キリストの「十字架」の死という、父なる神の「アガペーの愛」に、彼はようやく立ち返る(復活する)ことが出来たのです。


 私たちが「自分のこと」を、優先的に考えながら行動している限り、「神のこと」を最優先に考えながら生きるという、キリスト者本来の生き方は成立しませんが、イエス・キリストが再び私たちを、本来のポジションへと立ち返らせて下さる時には、実は「十字架」という霊的ステップ(課題)が、必ず私たちの信仰生活に差し迫って来るのです。ちなみに次回のテーマは、「あなたの十字架とは何であるのか?」という霊的問いをもって、聖霊様に教えて戴きます。


 私たちの前に置かれた信仰の歩みには、サタンによる様々な働き(攻略)が仕掛けられます。それはサタンが、吠えたける獅子の如くに、ペテロの信仰の歩みを攻略し陥落させたのと同様に、私たちの信仰の歩みにおいても、常にサタンは立ちはだかり、私たちの「霊」に対して、「神のこと」を思うのではなく、「人のこと」を思うように仕向けるなど、これがサタンの霊的かく乱という攻撃です。


 しかしイエス・キリストは、ペテロ以上に霊的弱き私たちであっても、イエス・キリストご自身を十字架上で屠った、父なる神の「十字架」の恵みを通して、私たちに「アガペーの愛」を示されることで、私たちも「ハ!」と立ち返ることが出来るのです!何故なら私たちは、イエス・キリストの「十字架」を見せられることで、「十字架」の中にあっては「自分」という存在が、何も誇る所の無い無の者(無力な器)であることに、霊的に気付かされるからです。即ち、「自分」を捨て去る(忘れる)ことの出来る場(フィールド)が、イエス・キリストの居ます「十字架」なのです!


 そうです!私たちの日々の生活の中において、常にイエス・キリストの「十字架」が見せられ、贖いの子羊イエス・キリストが、「十字架」上から私たちのために、常にとりなしの祈りを捧げられていることを、父なる神に感謝しようではありませんか!「主の日」は常に、私たちの前に用意されています。そしてイエス・キリストの「十字架」も、日々私たちの前に置かれています。私たちが、イエス・キリストの「十字架」を、霊的に受け取る時に初めて、「自分のこと」ではなく、父なる神の「御思い(視点)」から、自分を見るという「恵み」に、あずかることが出来るのです!


「罪」に死に、「神」に対して生きる


キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなた方も自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。従って、あなた方の死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
                                                                                                      【ローマ書6章10~12節】


 私たちが「自分」という、人間的な思いで生きますと、それは霊的には死んだ者となります。しかし、イエス・キリストに結ばれている限り、私たちは「罪」に死んだ者であっても、イエス・キリストの「十字架」により、霊的に生かされている(復活されている)者になります。このように考えるのであれば、「私(自分)が・・・・」、「私(自分)の~」などの思いではなく、「あなたが、私の全てです。」、「あなたあっての私です。」、「あなたの花嫁です。」、「あなたのご計画により、・・・・」など、イエス・キリストの「思い(信仰)」に、私たちが立ち返った時に、私たちは失っていたものを、見出すことが出来るようになります。


 霊的次元に入る「門」を開く鍵は、実は目の前に存在しています。そうです!イエス・キリストの「思い」によって、日々満たされながら生きる神の「祝福」が、あなたの日々の信仰生活の上に、聖霊を通して豊かに注がれることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する