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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.30)

       あなたは犬ではなく、私の家族である!




イエスは・・・・、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビテの子よ、私を憐れんで下さい。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。・・・・イエスは、「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助け下さい」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。」その時、娘の病気は癒された。
                                                                                             【マタイ福音書15章21~28節】


「犬」と呼ばれていたカナン人
 当時のユダヤ人たちは、自分たちこそ神の選民である!という自意識から、他民族に対して「異邦人」として扱い、特にカナン人に対しては、「犬(畜生)」と呼ぶなど、差別的態度を取っていました。


 今日では「狂犬」でない限り、「犬」や「猫」はペットとして可愛がられていますが、当時のユダヤ社会において「犬」は、ゴミや死肉をあさるジャッカル同様に、汚れた動物と見なされていました。その「犬」と同様に汚れたカナン人が、とりわけサマリヤ人以上に嫌われていた理由は、単純な理屈によるものでした。当時のカナン人は、ローマ帝国の属州の民として生活し、ギリシャの市民権も有するという、ユダヤ人以上の特権にあずかっていたからです。それ故にユダヤ人は、「ローマの犬に成り下がった奴ら!犬とは付き合うな。犬には神の恵み(選び)はない!」などのレッテルを、カナン人に対して貼っていたのではないでしょうか。


 今日でも「犬」というレッテルは、最大の差別用語の一つです。そのようなカナン人のある「家族」の元に、イエス・キリストが隠密裏に訪問されたことを、マルコが記述(マルコ福音書7章24節)していますが、このことはイエス・キリストが、聖霊の啓示(導き)を通して、前もって父なる神の「ご計画」通りに、救いの御業を実行していることの証しです。イエス・キリストは、イスラエル「全家」ばかりでなく、異邦の民「全て」に渡って、父なる神の「憐み」と「救い」の恵みを、余すことなく流す(現す)務めがあることを、私たちに示しておられます。


 マルコの記述によれば、このカナン人の婦人には、幼い娘があったのですが、この幼子は「ひどい悪霊に取り付かれている!」と噂されるなど、度々ひきつけ(けいれん)を起こす重病にありました。つまり最悪の事態に、このカナン人家族は陥っていたのです。ユダヤ人からは「犬」呼ばわりにされ、同族からは悪霊つきの「呪われた家族」と見なされ、言わば村八分状態の最中にあった訳です。


 自分の行動を押し止めようとする、イエス・キリストの弟子たちを振り払って、必死に懇願し続ける彼女に対して、イエス・キリストは聖霊によって「心」を動かされ、彼女に相対し「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(24節)という、重要な言葉を投げかけました(実際は彼女に直接言ったものではなく、彼女に聞こえるように弟子に向かって発した)。


しかし女は、なおも来て・・・・
 今回のストーリーに見られる、イエス・キリストの発言内容は、何となく「冷たい言い回し」のように感じられます。しかしイエス・キリストは、世的な評論家が語るような、「皮肉」を語る方では決してありません。実はイエス・キリストの、24節及び26節の二つの御言葉には、二つの重要な奥義が語られています。


 先ず第一に今回の出来事は、イエス・キリストが、ユダヤ人の家族ばかりでなく、全ての民の家族に至るまで、父なる神の「救い」の恵みの御業を、余すことなく現すべく訪れるという、預言的出来事だったということです。そして第二に、このことはカナンの婦人の「信仰」を、イエス・キリストが改めて知るべく、イエス・キリストの発言の結果、逆にイエス・キリストの言葉によって、聖霊様が彼女の「霊」を突き動かしていることが分かります。


 イエス・キリストの24節の言葉は、彼女に対する「挑発」ではありません。この言葉には、実は伏線があります。人間が関わる「全て」の物事には、「言葉」のやり取りが必ず存在します。私たちが例えば、ある人に対して「助け」を求めたりした場合、その人が自分の「助け」を表す際に、人に対してストレートに現れ出るもの、それが「言葉」です。それ故このストーリーにおいても、このカナン人の女性が最初に発言した、ある一つの「言葉」に立ち返る必要があります。それは、「主よ、ダビテの子よ、私を憐れんで下さい。」(22節)という激しい表明です。


 ローマ帝国(支配者)を、自分たちの主(あるじ)とするカナン人にとって、ユダヤ人のイエス・キリストは、たとえユダヤの「王族(ダビテ家)」の子孫と言っても、赤の他人になります。しかし彼女の「霊」は、以前より真の王「メシヤ(救い主)」を待望していたのです。ですから彼女は、この時イエス・キリストに対して、「イスラエルの預言者でもあり、ダビデ王の血筋なる方、私の真の主なる方よ!どうぞ、私たちを憐れんで下さい。私の家族(犬)にも、あなたのおこぼれ(恵み)を与えて下さい!」と、へり下った姿勢で懇願しているのです。


 それに対してイエス・キリストは、彼女の「信仰」を更に確認すべく、「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」(26節)と発言されました。すると彼女は、イエス・キリストの御言葉の「真意」を、聖霊を通して汲み取りながら、「主よ、ごもっともです(おっしゃることは正しい)。」と即答しました。彼女は、これらの「言葉」のやり取りをもって、最終的にイエス・キリストが、真の「救い主」であることを、「信仰」をもって表明したのです。


 彼女は続いて、「しかし主よ、子供たちが食べる時、失敗してポロリ!と、食べ落としたもの(ゴミとは言わないもの)でも、子犬は知らず知らず食べるでしょう。そのことに対して良識ある人は、いちいち蹴散らしますでしょうか!」と、イエス・キリストの問答(やり取り)に対して、同じ「言い回し」をもって信仰告白しました。つまり彼女は、「父なる神がイエス・キリストを通して、失われた子供たち(イスラエル人)に、救い主を与えて下さることを、私たち(カナン人)も知っております。それと同時に父なる神は、子供たち(イスラエル人)が落とした恵みを、私たちが食べたからと言って、私たちの行動を叱ったり、恵みから遠ざけたりする方ではありません。あなたは私たちのことを、恵みをもって満ちたらせる方、即ち真の救い主であることを、私は信仰によって知っています!」という内容の信仰表明を、イエス・キリストに訴えているのです。


あなたの隣人にも神の「救い」が・・・・
 彼女は、自分の英知の限りを尽くして、主を知ることを切に追い求め、イエス・キリストの「訪れの時」を、既に察知(待望)していたのではないでしょうか!ユダヤ人からは、「犬」としか扱われないカナン人であっても、私たちの民族(家族)の元にも、父なる神は必ず「救い主」を遣わして下さる!と、ひたすら信じて待ち望んでいた彼女の元に、イエス・キリストとの麗しい「出会いの時」が、聖霊を通して備えられていたのです。


 私たちが救われたことは、自分が一生懸命に努力したり、何かを選択した結果ではありません!あくまで父なる神の、一方的な「救い」という「恵み(恩寵)」の結果です。そうです!父なる神が、失われた(迷子になった)私たちを捜し出し、わざわざ訪れ救い出して下さったことにより、私たちはイエス・キリストを通して贖われたのです。そして、「天上」からもたらされる「命のパン」は、無償で与えられるもの、つまり「蛇」や「サソリ」としてではなく、求める者に「麗しいもの」として供給されるものです。この「無償」とは、無代価的なイメージ(ただで与えられるもの)を意味するのではなく、私たちがどのような者であっても、無条件(一方的)に与えられることを意味します。


 あなたの「隣人」とは、誰を指すのでしょうか?それは私たちが、当時のユダヤ人と同様に、無意識の内に遠ざけ避けている(差別している)人々も含まれています。父なる神の「救い」は、全ての「隣人」に無償で与えられるものです!失われた(そのように思っている)「家(家族)」は、まさにあなたの目の前にあり、私たちはそれをあえて、遠くに捜し求める必要はありません。


 彼女の家族と、真の「救い主」イエス・キリストとの、麗しい「救い」の出会いが、あなたにも同様の、麗しい形(現れ)となって訪れることを、是非信じて下さい!自ら動く必要はありません。聖霊様があなたの中に、あなたの「隣人」を用意し、イエス・キリストの「救い」のご計画が、あなたの「隣人」に拡大し前進していくことを、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン!


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