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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

復活の福音(No.12)

                               枯れた骨



私は主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨で一杯であった。主は私に、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。その時、主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることが出来るか。・・・・これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、私はお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。私は、お前たちの上に筋を置き、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちは私が主であることを知るようになる。」
                                                                                                 【エゼキエル書37章1~6節】


「枯れた骨」が散らばる谷間
 今回のストーリーに描かれる、エゼキエルが実際に見た霊的啓示は、ホラー映画に出てくるような、「幽霊」や「ゾンビ」の如きものではありません。そして象の「墓場」のような、「死体」と「骨」が群がるフィールドでもありません。それは、ごく普通の谷間であり、「上」を見上げれば、太陽光が差してくる所です。


 ところで、私たちが描く「谷」のイメージは、鹿や小動物が谷川の「水」を求めて降りて来るなど、「命」が溢れ出る清いフィールドではないでしょうか!ところが、エゼキエルが聖霊を通して導かれた「谷間」には、「命」の漲(みなぎ)りが何一つ見られない場所であり、死んだ(枯れた)骨々が横たわる(散らばる)、荒れ果てたフィールドでした。


 多分彼はそれを見て、次のように自問自答したことでしょう。「主よ、あなたは何故このような所に、私を連れ出して来たのですか?私には、この骨の意味することが、全く分りません!」と。すると主なる神は、逆に彼に質問しました。「あなたが疑問に思っている、この枯れた骨々は、果たして元の状態に生き返ることが出来るか?」と。それに対してエゼキエルは、非常に困惑しながら「主よ、あなたのみが(その答えを)ご存知です!」と応じますが、明確な返答は出来ませんでした。心の中では「(人が)こんな状態になったら、もう終わりに決まっている!」と思いながら・・・・。


 エゼキエルの生きた当時のイスラエルは、人々の間で偶像崇拝の「霊」がはびこり、祭司と言えども不正にまみれ、民族的危機が蔓延している、そんな汚れた時代でした。そんな中にあって彼は、必死に神の「御言葉」を告げるのですが、誰一人として耳を傾ける者が無かった訳です。それ故、次第に彼の信仰にも陰りが出て来て、主なる神に対する「霊」の渇きが、今にも枯渇し始めるという、危機的状況にまで追い込まれます。「その時」に主なる神が、彼を枯れた骨々が群がる谷間へと導いたのです。


 続いて主なる神は、第二の「命の言葉」を彼に告げました。「あなたが死んだと思っている骨々に向かって、次のように命じよ!枯れた骨々よ、主の御言葉を聞きなさい!」と。するとエゼキエルは、「えー!枯れた骨々が聞く訳が無いでしょう?」などと、更に訳が分らない状況に陥りました。


「枯れた骨」の意味すること
 ところで、今に生きる私たちにとって「枯れた骨」とは、霊的に何を意味しているのでしょうか?ご存知のように「今の時」は、霊的に「終末の時」に向かっています。そして政治や経済ばかりでなく、各界に至るまで、実は霊的危機が進行しています。まさしく「全てが枯れ果てつつある!」という状況です。科学文明が発展すればする程、本来ならば人類全体が「平和」と、「幸福」の中で繁栄するはずですが、実態はそれとは逆の世界が拡大しつつあります。


 例えば日本の子供たちの間には、本来は純真無垢な「良心(幼心)」が、良き方向で育まれるべき所(教育現場)において、霊的に品性が枯れ果てた結果、他者に対して平気で「死ね!」、「消えろ!」、「うざい!」、「きもい!」などの汚れた言葉を吐くという、精神的虐待(差別)を大人同様に行う、そんな醜い世界が、低学年レベルにまで拡大しているのです。まさしく今日の世界は、「救い主(イエス・キリスト)」の存在の有無に関わらず、大いなる霊的暗闇が蔓延している中で、「霊」そのものも枯渇し始めています。


 では、私たちキリスト者の場合は、どのような状況にあるのでしょうか?確かに、かつて(1990年代から今日まで)の、リバイバル・ムーブメント(トロント、ペンサコーラ、レークランド等)において、私たち聖霊派のキリスト者は霊的興奮を覚え、様々な面で覚醒された部分もあります。しかし当時語られた、日本のリバイバルに関する「預言」が、未だ結実の領域に至っていない今日においては、「あれは一体、何だったのだろうか?」、「いや、未だ先に延ばされているから、仕方ないかも・・・・」などと、賢い乙女から愚かな乙女へと、霊的に様変わりするキリスト者、つまり「霊」が干からびるつつある信者も、かなり増えて来ているのではないでしょうか。


 このような霊的危機の時代の中にあって、日々聖霊に満たされながら、強く生きることが望まれる訳ですが、私たちは「今の時代」を、聖霊様の助けを戴きながら、この時のエゼキエルの如くに、霊的に正しく(正確に)啓示されることで、私たち自身が先ず、主なる神の「命の言葉」に対して、幼子の如くに耳を傾けるという、霊的にへり下った姿勢が求められます。


 ここで啓示される「骨」とは、霊的に解釈するならば、「男性」から抜き取られた骨のことで、具体的には男性のあばら骨の、パーツ(一部)をもって創造されたもの、即ち「女性」の体を指しています。更に新約の奥義としては、キリスト(花婿)の花嫁の「体」、即ち私たちキリスト者(エクレシアも含む)を意味します。それ故「骨が枯れた状態」とは、霊的枯渇に至らせる悪しき存在によって、私たちキリスト者の中に蔓延しつつある、霊的な死病を指しています。その病気の症状は、「信仰の飢え渇きは、これ位でいい!」、「私たちは、これさえしておけばいい!」などと、信仰の歩みが完全に停止することから始まります。


 例えば愚かな乙女の如くに、「主人が帰って来ることを待ちわびる」ことにも、余り関心(飢え渇き)を持たなくなること、これが「枯れている!」状態に陥っている姿です。これは、私たちの「霊」の中にある罪そのものが、私たちの霊的飢え渇きを、ストップさせる要因となっているからです。それ故に4節に記述されている、主なる神の「命の言葉」をもって、私たちはエゼキエル同様に、自分の「霊」に対して、「復活の信仰」をもって命じるべきです。「枯れた骨よ、主なる神の御言葉に対して、謙虚に耳を傾けよ!」と。


 そうです!私たちは確かに、枯れた骨々の散らばる谷間に、霊的に導かれているのかも知れません。しかし、それと同時に私たちは「枯れた谷にあっても尚、私の魂は、命の水を慕い求める鹿の如くに、主なる神を激しく求める!」こと、これが父なる神の私たちに対する、霊的「復活(真のリバイバル)」に至る取扱いなのです!霊的な「谷間」こそ、命の水に溢れるフィールド、そして「上」を見上げれば、輝かしい主の「栄光」が降り注がれるフィールドです!


「命の息」なる聖霊様
 「不滅の命」を現す方、それは「命の息」を吹きかける聖霊様です!それ故、私たち(霊的なエバ)は再び、「命の息」を吹きかけられることによって、霊的に復活から復活へと至り、新しく生き返ることが出来るのです。確かに最初の人(アダム)は、「罪」を犯したことで、死に行く体になりました。しかし、最後のアダムであるイエス・キリストが、私たちのことを「死」と「滅び」にではなく、永遠に沸き続ける「命の水」の源へと導いて下さるのです。そうです!たとえ私たちが、霊的に干からびて、枯れ果てるような状況に陥ったとしても、自分の「霊」に命じるだけでよいのです。「主なる神の命の言葉を待ち望め!私は枯れた谷にあっても尚、主なる神を激しく慕い求めようではないか!」と。


 いよいよ主なる神が、霊的怠眠に陥っている、私たちキリスト者の元にも、こっそりと訪問して下さる「その時」が、間近に迫っています。自分の「霊」の今の状態が、「枯れた骨である!」と、聖霊様を通して見せられた者は、必ず「自分が枯れた骨であっても、聖霊様が命の息を吹きかける時に、主なる神の命の言葉を、純粋に慕い求める聖い乙女として、新しく造り変えて下さる!」ことを信じて、再び激しくイエス・キリストを、霊的に飢え渇き求め始めるのです。


 あなたが、聖霊様との「親しき交わり」にあずかり、主なる神に対して純粋に、霊的飢え渇きを起して下さる、御子イエス・キリストの復活の「恵み」を戴き、父なる神の霊的取扱いの中で、日々「新しい体」へと建て上げられることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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