バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.27)

                        神の家の三大建材



家は知恵によって築かれ、英知によって固く立つ。知識は部屋を満たし、貴く喜ばしい財産となる。
                                                                                                               【箴言24章3~4節】


ソロモンの最大ミス
 ソロモン王は、決して人生の「成功者」でも、私たちの信仰上の「モデル」でもありません。彼は確かに、父なる神から「知恵」という、素晴らしい賜物を戴きましたが、最終的に彼はその「知恵」を、人間的な「判断」や「知識」などと混じり合わせることで、世的な知恵を基礎(拠り所)として、目に見える「神殿(人の手による建造物)」を築き上げることになります。勿論、父(ダビデ王)の「志し」を受け継ぎ、「神の宮」を建て上げることは、彼の純粋な信仰上の動機(使命感)から生み出されたものです。


 彼は「神殿」を建て上げるため、世界中から麗しい建材を買い集めました。「神殿(神の宮)」を建築することは、決して誤まりではありませんでした。しかし彼は、最終的に「神の宮」に何を奉納したのか?ここが彼の信仰における最大ミスにつながります。当然、彼はモーセの「掟」通りに、傷のない子羊を捧げました。ところが彼の周りには、次第に異教の偶像に仕える「側室」が増えることで、彼は何と「至聖所」の中に、つまりいと高き所に、偶像に供える奉納物をも同時に捧げるという、最大のミスを犯すことになったのです。


 実は、このソロモンの信仰上の「愚行」は、私たちの信仰生活の中に起こり得る!ことを、あなたはご存知でしょうか?そればかりでなく、私たちは次のような誤った行いを、「神の宮」を建て上げる際に為しているのです。つまり当初は、私たちも信仰の「土台」をしっかりとする、つまりイエス・キリストを信じる信仰に立っている訳です。ところが「土台」の上に、如何なる建材を用いていくのか?これが非常に重要になってくること、この点を正しく聖霊を通して教えられなければ、私たちもソロモン同様に、世的な知恵を自分の信仰の中に、霊的に混じり合わせることになるのです!


三つの建材
 ソロモンは先ず、「家は知恵によって築かれ」(3節)ると記述しています。この箴言を書き記す上でソロモンは、「家」が築かれていく際に、最初に「知恵」によって築くことを述べていますが、これは非常に重要な奥義を、私たちに教え示しています。つまり彼は、聖霊を通して「家(神の宮)」が建て上げられていく上での、必要となるステップ(順番、手順)を、私たちに注意深く教え示しているのです。ご存知のように、「家屋」を新しく建て上げていく手順は、ツー・バイ・フォー工法でない限り、一般的には「土台」の上に、先ず(最初のステップとして)「柱材(梁材も含む)」を据えることから始まります。


 ある面で「知恵」というのは、私たちの霊的な「家(神の宮)」を、築き上げていく(成長していく)上での、非常に重要となる「柱(支柱)」の如き働きを為します。勿論、ソロモンが述べる「知恵」とは、世的な知恵のことではありません。パウロも「この世の知恵ほど虚しいものはない。上から与えられる、神の知恵を追い求めなさい!」と、強く私たちの「霊」に訴えかけています。しかし「知恵」という概念は、私たちにとって非常に理解し難きものです。パウロが言及する「知恵」とは、「真理」のことであり、常に「真の正しい道」を示す「教え(或いは教師)」、つまりイエス・キリストご自身のことです。


 ですから「知恵」を追い求めることは、私たちが「イエス・キリスト」を、激しく飢え渇いて求めることと同義語です。「求める」とは、追いかけて付いて行くイメージ、また「真理」を教える方(イエス・キリスト)と、親しく交わることを欲するイメージなど、様々に起こってくる霊的な欲求を意味する言葉です。例えば、私たちはイエス・キリストを信じる以前、自分の中にある「罪」が、霊的に如何なるものであるかを、全く知りませんでした。しかし、イエス・キリストの歩んだ苦難の「人生」を、最高の贖いの御業である「十字架の死」、それに続く三日目の「復活」という、父なる神の「救い」を信じた(霊の眼をもって見た)時から、私たちは自分が「罪人」であると、明確に知るようになったこと、これが「知恵」なのです!自分の中に、何か分かり易い「真理」が指し示された時に、今までは「おぼろ」であったものが、「はっきり」と知ることが出来たこと、これが神の与えて下さる「知恵」です。


 続いてソロモンは、第二の(二番目の手順として必要になる)建材を、「英知(理解、判断)」と紹介しています。実際の「家」の建材としては、「筋交い材」に当ります。「柱」と「梁」だけでは、「家」の骨組みとして安定感に欠けます。そこで「柱」と「梁」だけの骨組みの中に、更に強度を上げるため、「筋交い」を入れる訳です。


 第三の手順として、ソロモンは「知識」を骨組み(第一と第二の手順)の、最終的な仕上げとして紹介しています。つまり、三番目の建材である「壁材(屋根材も含む)」が、これに当ります。ですから、①知恵→②英知→③知識の三大建材が、ソロモンが述べる如くに、「神の宮」を建て上げていく上での、正しい「手順(順番)」になります。


「正しい手順」を教えて下さる方
 仮に「知識(壁材)」を、最初に「神の宮」に据えたとしても、それは私たちの「体験」が、知識的なものをベースとしている為、「知識」のみを人々に伝えるだけに終わります。「知恵」を何よりも最初に求め、その「知恵」によって築かれていく人は、「知恵」というものが、自分の「土台(イエス・キリスト)」にとって、無くてはならない重要な「建材」であることを知っている為、イエス・キリストを「知識」として知ることよりも、霊的に深く「親しい交わり」を為すことで得られる(知る)、「恵み」の方が優っていることを知るのです。その人は、自分のおぼろげな人生に関して、へり下って「知恵」を求めなければ、「真理」が見えてこない、つまり「はっきりと」したものにならないことを、霊的に知っているのです。


 私たちの信仰の「歩み」には、自己の中から生じる人間的な「世の知(知識)」と、神が上より授けて下さる「真の知」との、対立(霊的格闘)が必ず存在します。サタンは、アダム(エバ)に誘惑したのと同じ方法をもって、私たちの「霊」にささやきかけます。「己の声を大切にしなさい!あなたの中にある知識をもって対処しなさい!先ずあなたが考え(判断し)、そしてその声を信じて行動しなさい!」などと、善悪の木の「実」を食するように仕向けてきます。しかし覚えて下さい!「知恵」を追い求める、即ち今あなたに起きている事柄や、取扱われている状況などが、一体どういうことであるのか?それを正しいガイダンス(真理)をもって導かれる方は、聖霊様だけです!その「助け主」に対して、「どうぞ教えて下さい!私はイエス・キリストの御心を求めます。今起きていることに対して、私の知識や判断ではなく、あなたの正しい手順を示して下さい!私の手順では間違っていますから。」などと祈ること、これが何よりも大事です。


 実際の建築手順においても、「土台」上に先ず「柱」と「梁」を据え、続いて「筋交い」を組み込み、そして「壁材」で補強するのであれば、私たちの「信仰」の歩みにおいても、「己の知(魂の声)」に頼るのではなく、「上」から与えられる「知恵(イエス・キリストの声)」を先ず追い求め、「己の理解(判断)」にではなく、聖霊様から示して戴く「真の手順」に聞き従うこと、そして最終的に聖霊様の「手順」を読み終えて初めて、自分の置かれている「今の状況(事柄)」が、神の「御心」を通して、常に「正しい道」へと至っていること、つまり自分が「神の宮」として、強固に建て上げられていることを、霊的に理解することが出来るのです。


イエスを知ることの素晴らしさ


私の主キリスト・イエスを知ることの余りの素晴らしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私は全てを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。
                                                                                                                【ピリピ書3章8節】


 パウロは、ソロモン同様に「知恵」に秀でた、いわゆるエリート(実力者)でした。以前は迫害者サウロとして、己の中にある「罪」にも気付かない者でしたが、神に打たれた結果、かつての味方(権力階級に就く祭司集団)から、逆に唾を吐きかけられ、「命」を狙われる立場になり、世的な「栄光」の全てを失いました。ところが、彼はこの出来事を「何にも優る栄誉だ!私にとって最高の宝は、イエス・キリストだけだ!私の霊を満たす(潤す)ものはイエス・キリストを知ること、これに尽きる!」と、ピリピ書の中で述べています。
 
 私たちの主イエス・キリストは、この世の全ての「君主(王、リーダー)」よりも、素晴らしい「威光」と「尊厳」と「栄誉」を身にまとわれ、栄光に輝く「玉座」から、私たちのことを見下ろされる方ではなく、私たちがイエス・キリストの御元に馳せ参じた時は、「おー、よくぞ私の元に帰って来たね。我が愛する花嫁よ!」と駆け寄り、暖かい御腕をもって抱擁しながら、何とイエス・キリストは、わざわざ私たちを「玉座」に導きながら、「愛しの花嫁よ、あなたもこの場に座す資格があるのだ!だから共に座そうではないか!」と迎え入れて下さるのです。
 
 イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも永遠に変わることが無く、あなたの人生の歩み全てに渡って働いておられます。それ故聖霊様を通して、あなたの信仰の歩みに、今指し示しておられます。「知恵を追い求めなさい!そうすれば、あなたの生涯は災いではなく、天からの幸(祝福)が多く降り注がれます!」と、あなたの人生が確実に「真理」という、真の知恵(イエス・キリスト)によって築き上げられることを、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する