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キリストの家族(No.26)

                              二種類の家



                                              神に逆らう者の家は断絶する。
                                              正しい人の天幕は繁栄する。
                                                                                              【箴言14章11節】


 ヨシュアの有名な家訓である、「我と我が家は、主のみに仕える!」の言葉の中にある「我が家」とは、何を意味しているでしょうか?私たちはこの言葉を、単純に「My house」、つまり「家屋(住居)」とイメージします。しかし聖書が示す「家」とは、霊的に何を意味しているのか、また私たちがどのような「家」を、霊的な住まいとすべきであるか?この点について、ソロモンの箴言から学んで参りましょう。


私たちが描く「家」
 今回の御言葉の中には、二種類の「家」が記述されています。先ず①神に逆らう者が住まう「家」、それに対して②神の御心のみに、忠実に従って歩んでいく者が住まうフィールドとして描かれています。そして、この二番目の「家」は、具体的に①と同じ言葉の、「家」が使用されている訳ではありませんが、ソロモンは第二の「家」を、神に忠実に従う者の選ぶフィールドとして、「天幕」という言葉で表現しています。


 この「天幕」とは、モーセの「幕屋」に始まり、ダビデの「幕屋」を経て、そして私たちの霊的な「至聖所」の雛形、つまり「イエス・キリスト」の中に留まる(住まう)ことを意味し、神に逆らう者が結果として住む「滅びの家」ではなく、逆に大いに繁栄していき、最終的には「神の家」に至る、その原型を指し示しています。


 この世の人でさえ、「家」を建て上げる際は、非常に慎重になります。ここ昨今、日本の住宅建築の施工方法を見る限り、それは安価で短期間の工法により、完成へと至るプロセスが主流です。施主にとって非常に経済的で、より早く新築の住居に住むことが出来るからです。しかし長いスパンで、「家」のあり方を見直しますと、賢い施主は手間賃に関して、例えば大工さんを雇う人件費や、強度を保つ高価な建材費等が高価になったり、また建築期間が延びたとしても、よりしっかりとした「家」を建て上げることに努力します。何故ならば、一世代(30年という短いスパン)で老朽化するような家ではなく、二世代~三世代に渡るもの、つまり最低50~100年経っても、子孫がまだ住み続けることが出来る「家」、それが繁栄の基礎と知っているからです。


二種類の「家」の結末
 ソロモンの描く二種類の「家」とは、前述した経済的側面から、建て上げるような「家」のことではなく、私たちが父なる神に対して、どのように相対し向かい合っているのか?という私たちの霊的な姿勢を、「家」をたとえにして描いています。先ず、第一の種類の「家」に住まう者とは、言語的には「悪人(犯罪者)」と同義語です。しかし、聖書が示す「悪しき者(神に逆らう者)」とは、神の「御心」や「教え(掟)」などに故意に反逆したり、途中から背を向けて歩む者のことです。


 余談になりますが、先日私は健康診断を受けるべく、とある町の「医院」に行きました。その「医院」の待合室に標語が貼ってあり、私はその標語を見て、「なる程!」と思える言葉が書いてありました。「誠実とは、言を成らしめる、心の有様である。即ち有言実行のことである!」ご存知のように「誠」という文字は、確かに「言」と「成」から合成されています。つまり、「言(自分の意思)」を成らしめる(明確なものとして実現させる)、心の姿勢(有様)こそが、「誠実さ」を意味しています。私たちが「心」を何処に向けて、その向けた「対象」に対して、どのように相対しながら素直に生きているのか?これが私たちの信仰姿勢にも、問われてくるのではないでしょうか。


 ソロモンは恐らく、二種類の「家(家系)」を思い浮かべながら、この箴言を記述したものと思われます。それは「サウロ家(先々代の王)」と、「ダビデ家(自分の家系)」のことです。ご存知のようにサウロ王は、イスラエル初代の王でした。彼は王になる以前、預言者サムエルを通して、豊かに油注がれた「神の器」でした。彼は当初(若かりし頃)、「誠実さ」に満ち溢れ、神に対して「全て」を明け渡す信仰者でした。ところが彼は、途中から自分の「意思」や「計画」、そして自分の「考え」や「判断」を、頼みとして生きるようになりました。以前の彼でしたら、必ずサムエルを通して語られる、神の「信託(ご命令)」に対して、忠実に守り行う者でしたが、途中から自分の「主観的知恵」や、その時々の「感情」に左右され、神の「命の言葉」を曲げて解釈するなど、「悪しき道」へと傾倒します。その結果彼の人生は、息子三人をペリシテ人との「戦い」の中で失いました。この時点で、彼の「家」は滅びた訳です。


 それに対して「ダビデ家」の場合、ソロモンの父ダビデは、サウル王と比較してみても、外見的に余り優れた部分がない、見るからに貧弱な青年でした。イスラエルの二代目の王になったダビデは、実はサウル王よりも、律法に関して言えば、「死刑」を宣告される程の姦淫の罪を犯します。そのような「犯罪者」の家が、何故滅ぼされなかったのか?実に不思議です。私たちの「罪」や霊的な「弱さ」を、父なる神は全てご存知です。しかし私たちが最終的に、霊的な助言者である聖霊様からの、「注意(勧告)」や「促し」に聞き従うか否か、これが第二の種類の「家」、即ち繁栄に至る「天幕」に住む上での、霊的分岐点となります。


 ダビデ王は確かに、数多くの「失敗」を犯しています。しかし父なる神は、この失敗だらけの罪に染まった「ダビデ」を、イエス・キリストという、真の「救い主(メシヤ)」を産み出す、「霊的土壌(母体)」として選ばれたのです。その理由はダビデの場合、彼は数々の失敗を犯した後、神によって「懲らしめ」を受け、助言者(ナタン)の勧告を通して霊的に砕かれた後、自分の「霊」を深く深く掘り下げることで、自分の中にある「罪」や「弱さ」などを、主の御前に差し出すことで、霊的に修正される(正しい方向に導かれる)、つまり再び神の「御心」にのみ聞き従うという、霊的プロセスがあったからです。


私たちが住むべき「家」
 実は私たちの信仰生活の中にも、ある時は「サウル家」に連なったり、またある時には反省して「ダビデ家」に連なるなど、本当にうつろい易い存在です。私たちが、愚かな「悪しき者(サウル家)」に習わず、たとえ罪深き(弱い)者であっても、ダビデの如くに助言者(聖霊様)の「諫言」に、素直に聞き従うことの出来る者へと、霊的に造り変えられるには、私たちはどのような「家」に住むべきでしょうか?


私を「主よ、主よ」と呼びながら、何故私の言うことを行わないのか。私の元に来て、私の言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているのかを示そう。それは地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことが出来なかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。
                                                                                                   【ルカ福音書6章46~49節】


 私たちは「主よ、主よ!」と助けを求めて、神に呼ばわることは簡単です。しかし神が応答して下さる、「命の言葉」に聞き入り(聞くことまでは誰でも出来ます)、そして最終的に聞いた事柄(内容)に、従う(守り行う)ことが中々出来ません。つまり神に相対した場合、私たちは神からの「言(命の言葉)」に、誠実(忠実)であるか否か?が問われるのです。不忠実な(神に逆らう姿勢の)者の「家」と、誠実な(神の言葉に聞き従う)者の「家」、この二種類の「家」をイエス・キリストは、分りやすい建築工法で教え示しています。


 最初の「家」は前述した如くに、より安価で短期間に建て上げることの出来る、インスタント工法みたいなものでしょう。それに対して第二の「家」は、人件費も多くかかり、「完成」までに至るには、より長き日数の要る難工事工法でしょう。「地面を深く掘り下げ」(48節)と記述されているように、この「たとえ」で描かれるイメージは、大きな岩盤が最初からあった訳ではなく、現状(地面)が土壌フィールドであっても、「家」を安定的に支える岩盤にまで、土台を据えるための基礎を、深く深く掘り下げていることが分ります。


 ダビデは、自分が数多くの「罪(失敗)」を犯した時、助言者の勧告に聞き従い、自分の「霊」を深く深く掘り下げることで、自分が如何に砂の上に立つ愚か者であり、ぐらつき易い存在であるかを示され、霊的に砕かれました。同様に私たちも、聖霊様を通して自分の「愚かさ」、そして「罪」と「弱さ」を示される時、「主よ、そうでした!もっと更に私を、打ち砕いて下さい!イエス・キリストの上に信仰の基礎を据え、しっかりと立つ(stand)ことの出来る程にまで、私の全てを造り変えて下さい!」と、私たちの「全て」を明け渡すことが可能になります。「その時」に初めて私たちは、イエス・キリスト(堅固な岩)につながり (掘り下げて)、ようやく安定した(しっかりとした)土台の上に立つ、「天幕(神の家)」に住むよう導かれるのです。


 しかし砂の上に「家」を建てる者は、聖霊様を通して導かれる、堅固な岩の上に「stand」する信仰ではなく、いきなり「build(建て上げる)」の動きを始めます。根気の要る「基礎工事(深く掘り下げる)」を省略して、インスタントにプラモデルの如き「家」を、クレーン作業で組み立てるようなものです。同様に、私たちの信仰の愚かな側面にも、基礎を深く掘り下げることよりも、「私のビジョンを建て上げたい!私も、(あの有名な先生のように)造り変えられたい。このようにして下さい!」などと自分で先走りする思い、或いは自分で「完成(有様)」を描こうとする、霊的に愚かな性質があることを忘れてはなりません。


 イエス・キリストは、「私の元に来て、私の言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているのかを示そう。それは地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。」(47節)と、私たちにも聖霊様を通して語られています。私たちが「聞き従う」には、不従順な「罪」に染まった者であるため、中々為し得ぬ者ですが、私たちには「助言者(聖霊様)」が同伴して下さっています。ダビデの如くに、あなたは「失敗」しても構いません。その後に自分の「過ち」を認め、聖霊様を通して自らの中にある、「罪」を深く掘り下げて、父なる神に自分の「全て」を差し出す時に、堅固なる岩(イエス・キリスト)に、密接につながる神の「家(宮)」に、あなたがとこしえに住まうことが出来るよう、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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