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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

復活の福音(No.11)

                         復活に至る階段




その後、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、遂に息を引き取った。彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたは私にどんな関わりがあるのでしょうか。あなたは私に罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」エリヤは、「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女の懐から息子を受け取り、自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせた。・・・・彼は子供の上に三度身を重ねてから、・・・・主に向かって祈った。「主よ、我が神よ、この子の命を元に返して下さい。」主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。エリヤは、その子を連れて家の階上の部屋から降りて来て、母親に渡し、「見なさい。あなたの息子は生きている」と言った。女はエリヤに言った。「今私は分りました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」
                                                                                                    【Ⅰ列王記17章17~24節】


信仰の「アップ」と「ダウン」
 今回は、エリヤにもたらされた「復活」の恵みが、いよいよ完成の時を迎える、その霊的プロセスに関する奥義について、聖霊様から教え示して戴きましょう。ご存知のように、主イエス・キリストの「復活」の御業は、たった一度限りの奇跡ではなく、今の時も尚有効(起こり得ること)です!


 今回のストーリーに関する重要なキーワード、それは「アップ(上へ)」と「ダウン(下へ)」という対義語です。ちなみに、私たちの信仰のプロセスについて言うならば、「アップ」と「ダウン」が交互に繰り返す、そんな弱き歩みではないでしょうか。このように信仰の「歩み(ステップ)」は、ある面で「山頂」を目指して進む、登山プロセスに似通っています。ある時は神の「大路」を跳躍(ジャンプアップ)する程、信仰が飛躍的に成長する場合もあるのですが、ある時は霊的な死を招く程の、急斜面の細い道を恐る恐る一歩を辿る、そのような危険な場合もあります。


 今回のストーリーに描かれる一人のやもめ、彼女はエリヤを宿泊させたことで、自分と一人息子が「餓死」から免れるという、素晴らしいプロセスを前半辿ります。ところが暫くすると、この一人息子が突然難病に陥り、最終的には急死するという、予想もしない不幸に遭遇することになります。その瞬間彼女の信仰は、死んだに等しい状態に陥りました。「もう私の希望(望み)はついえた!」と。


 しかし主なる神は、私たちが如何なる状況下にあっても、つまり「私の望みは、もう終わった」と思えるような時にも、助け主なる聖霊様が、私たちの信仰の「歩み(ステップ)」の一歩一歩を、既にご存知の上で、最終的には「救いの手」を差し伸べ、必ず贖い出して下さるのです!


 彼女はこの時、エリヤ対して「もう私とあなたとの間に、何の関わりもありません!確かに今まで、私たちは生き永らえることが出来ました。でも息子は死んでしまいました。私が生きる望み(意味)は、もうありません。あなたの神は最初に幸せを与え、そして最後は災いをもたらす神ですか?」と言い放ちました。ところが、エリヤは暫く神に祈った後で、彼女に神の「ご命令」を伝えました。「あなたが、もう死んで終わりだ!と思っている、その息子を私によこしなさい!」と。


 彼女は絶望の余り、恐らくエリヤが(自分に代わって)、葬式の準備でもするのだろう!と、そんな程度の捉え方(考え)で、「死体(息子の亡骸)」をエリヤに手渡しました。するとエリヤは、彼女の予想とは違った行動に移ります。何と彼は、その「死体」を、まるで生きているかのように抱きかかえて、二階の奥座敷へと運んで行ったのです。


息子のリバイブ
 エリヤは、その「死体」を床の上に横たえ、全能の神に祈りを捧げました。「主なる神よ、あなたは真の神であられ、この私を今も生かし、一人のやもめの家族の元へと導き、この家族の命を飢饉から贖い出して下さいました。あなたは今も、この息子の命を今後どうするのか、その全権を握るお方です。我が神、主よ。この息子をあなたに委ねます。あなたのご計画は、このまま終わりません!この子の命を今、元にお返し下さい!」と。実はエリヤの、この祈りの告白の中に、エリヤ同様に私たちが受け留めるべき、「復活」の信仰があるのです!


神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
                                                                                                       【ヨハネ福音書3章16節】


 私たちはこの有名な、イエス・キリストの御言葉に関して、「永遠の命」とは死後に与えられるもの、このように思っています。しかしこの御言葉を、更に父なる神の「御思い」に馳せながら解釈しますと、実はもっと奥深い神の「御心」が、霊的に浮かび上がります。つまり、父なる神が御子イエス・キリストを、「この世」に遣わされた目的を、父なる神の「御意思」という視点で、更に奥深く把握するならば、私たちが生存していく上で、完全に枯れてしまうことが無いことをも含んでいます。


 と言うことは、「死体」の如き状態ではなく、常に「命」から「命」へと、しかもそれは「新しい命」、つまり永遠に続く命を、イエス・キリストの麗しい、「贖い」の御業を通して与えるべく、御子を信じる私たちの「全て」、それは「霊」ばかりか、この「肉体」をも復活させること、これが「ヨハネ福音書3章16節」の奥義です。


 父なる神の「愛」は、「死」と「滅び」に至ることではなく、一人一人が再び生き始め、人生に対して大いなる転機を、与えるために注がれているのです!まさしく、エリヤに命じられた「命の言葉」は、信じる私たちにも同様に託されているのです。「若者よ、あなたに言う。父なる神のご命令である。命の息よ、再びこの者の霊に帰りなさい!」と。


 22節の御言葉を詳訳しますと、「主なる神は、エリヤの祈りに応えられた。すると子供は、息(呼吸)を再び始めて、リバイブ(revive)した。」となります。「revive」とは、命の再生(復活)のことで、彼(子供)が寝たきりの病いになる以前の、若々しい命に溢れた健康状態に、瞬時に回復することです。つまり彼は、生まれたばかりの赤子の如くに、呼吸を始めた瞬間に、彼の全身全霊が聖められ、健やかになったのです。


 エリヤの数時間に渡る祈りを、一階で悲しみに沈みながら聞いていた母親は、エリヤが突然叫ぶのを聞いて、遂に気が触れたのでは?と思い始めました。しかし、それから数分もしない内に、二階から降りて来る「(二人分の)足音」を聞いた瞬間、「ま!まさか?」と思い、思わず階段下に駆け寄り、「上」を見上げます。すると、死んだと思っていた息子が、元気に(静かに)降りて来る様を見て、一瞬ためらいました。エリヤはすかさず、彼女に断言しました。「見なさい、あなたの息子は生きています!今、確かめなさい!」と。


「上」を見上げよ!
 私たちが、信仰的にアップダウンを繰り返す時、それは私たちの「霊」が、三次元的な事象に囚われているからです。最初は霊の次元の中で、信仰が順調に成長します。ところが様々なトラブルが、次々と襲い掛かって来た時、それまで歩いてきた自分の歩むへき道が、あたかも死の崖の側(そば)を、歩いているかのように錯覚します。実は「霊の眼」で見るならば、聖霊なる神が私たちの一歩(ステップ)一歩を、支えながら助け導いていることに気付かされます。


 ところが私たちは、三次元という名の階段を、身勝手な判断から降りているのです。そのような、不信仰だらけの私たちであっても、幸いなるかな聖霊様は私たちのことを、元のポジション(霊の次元への階段)へと常に導いて下さり、次のようにアドバイスして下さいます。「上を見上げよ!さらば救われん。」と。ならば私たちもエリヤの如くに、自分の「霊」に対して、信仰をもって命じましょう!「我が魂よ、何故うなだれているのか?主なる神を見上げよ!今私に降りかかる様々な問題は、主イエス・キリストの御名により、元あったところに戻れ!主イエス・キリストの贖いの御業により、私の魂は必ず復活する!たちどころにリバイブされよ!」と。


 すると聖霊なる助け主は、あなたの信仰の宣言に、「命の息」を吹き込んで下さり、あなたにまとわり付く不信仰の覆いを、直ちに吹き飛ばして下さり、「死」から「命」をもたらす、イエス・キリストの麗しい御業、「永遠の命」に至る大いなる「復活」の御業を、あなたの信仰告白を通して、着実に推し進めて下さいます!あなたが復活の主、イエス・キリストを見上げる時に、またイエス・キリストが語られる、「命の言葉」を信じ告白する時に、あなたの「霊」が如何なる状態にあっても、復活の「新しい体」として、必ずリバイブされるのです。


 あなたが主イエス・キリストの、麗しい「復活」の御業と、霊的再生のプロセスを、聖霊様の導きの中で、常に見る(確認する)ことの出来る者でありますように、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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