バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.25)

                    父なる神の「しつけ」



                                   我が子よ、主の諭しを拒むな。
                                   主の懲らしめを避けるな。
                                   かわいい息子を懲らしめる父のように、
                                   主は愛する者を懲らしめられる。
                                                                                                【箴言3章11~12節】


霊的な「注意深さ」
 父なる神は、ご自身が与える様々な「教え(掟)」が、私たちが守り行うには、とても為し難いものであることを、当然「子」を見守る「親」の如くに熟知しています。それ故父なる神は、無理に押し付けるようなものとして、一つ一つの「教え」を与えている訳ではなく、実は私たちの「霊」の中に、霊的な「注意深さ」を育むため、今回の御言葉を通して教え導いています。


 ところで、各業界の労働安全衛生法・遵守運動の中に、「ヒヤリハット対策」という、ユニークな取り組みがあります。作業員が自分の仕事の中で、「ヒヤリ!」或いは「ハッ!」と思った(体験した)ことを、事例集として資料にまとめ、「安全作業」の効率化を図る上で、全員にその内容を周知させる活動です。具体的には、「ヒヤリ!」と思ったことを改善し、次の作業の中で安全に進めていく際に、「あなたは今後、このヒヤリ!をなくすべく、どのような対策をして作業をしますか?」と、グループの中で話し合いながら、「危険」を予防する知恵を、互いに見出そうと試みるものです。この運動は一般的に、「KY(K:危険,Y:予知)活動」とも言います。


 つまり私たち人間は、「不注意(無防備)」な面が多々あることによって、様々な事故(失敗)を起こし易い、生き物であることが分ります。実は父なる神は、まるで「父親」の如くに、前もって私たち(子)のために、「~しては駄目ですよ。さもないと・・・・なりますから。」などと注意深さを知らしめる、これが今回の御言葉の奥義です。父なる神にとって、「ヒヤリ(ハット)」という概念は必要ありませんが、時折私たちの「霊」の中に忍び込んでくる、「私は大丈夫だ!」などの霊的な「過信(驕り)」、そして「うぬぼれ(傲慢)」などの思いに傾きますと、様々な霊的「危険(失敗)」が付きまとって来るのです。


 子どもは、必ず成長期の節目に当たり、「親」の言うことに対して、ことごとく反発して従わなくなります。例えば「私は、もう大人になったんだから、いちいち母さんが言わなくても分ってるわよ!」などと口答えするのですが、大抵そのような場合に「子ども」は、自分勝手に先走りして壁にぶち当たる、これが「子」の持つ「不注意さ」なのです。


霊的な「懲らしめ」
 「懲らしめる」という、聖書に数多く記されている御言葉に関して、私たちは単純にその言葉のイメージを、「親」からの罰(厳しいしつけ)として捉えますが、実は新共同訳英語聖書版では、「correct」という動詞に当たり、①正しい方向に導く(羊飼いの持つ杖の役割)、②悪しき道に歩まないように、あえて懲らしめる(羊飼いの持つ鞭の役割)、この二種類の意味になります。


 ①の意味を示す有名な御言葉としては、「あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力つける」(詩篇23:4)に当たり、この場合の「鞭」と「杖」が、羊に罰を与えるものとしてではなく、絶望と恐怖の暗き谷間にあっても、少年ダビデを慰め支え続ける、即ち「暗闇」の中で正しい方向に導く、大いなる神の「導き(取扱い)」そのものである、これが父なる神の「懲らしめ」です!ダビデは幼少の頃から、「羊飼い」として知っていました。いつも「安全な場(牧場)」がある訳ではなく、ある時には危険な道がある。しかし父なる神は、真の「羊飼い(イエス・キリスト)」として、ある時には霊的な「懲らしめ(鞭と杖)」をもって、自分を必ず正しい「安全な方向(道)」に導いて下さることを。


・・・・子どもたちに対するようにあなた方に話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛練を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。何故なら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」あなた方は、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなた方を子として取扱っておられます。一体、父から鍛えられない子があるでしょうか。もし誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなた方は庶子であって、実の子ではありません。・・・・肉の父は暫くの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私たちの益となるように、ご自分の神聖にあずからせる目的で私たちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
                                                                                                      【ヘブル書12章3~11節】


 「親」でさえ我が子が、誤った方向に歩むことが無きよう、本人にとっては痛々しいことですが、「子」に懲らしめを与えることによって、正しい方向に導くのであれば、父なる神はどれ程の「御思い」をもって、つまり「肉親」以上の深い愛をもって、私たちを正しい方向に導くため、鍛錬されるのではないでしょうか!父なる神が、私たちに対して「correct」する理由を、ヘブル書の著者は第一に①愛する「実子」として受け入れているからと説明しています。つまり、父なる神は「注意深い愛」、「忍耐深い愛」、「気の遠くなる程の愛」をもって、私たちのことを取扱って下さる方です。


 「かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめられる。」(12節)の御言葉の中にある、「かわいい息子」という部分を直訳しますと、「愛する子であるから・・・・」となります。本来「親」は、単純に「子」を愛する存在です。親の「愛」というものは、ただ我が子が可愛いから愛するというものではなく、物凄い注意深さをもって、ある時には厳しくしつけることで、正しい方向に取扱い導くなどの、実際的な「苦痛」が多く伴います。しかしそれは、愛しているから出来ることです。


 生まれたばかりの「赤子」を見つめる「母親」の愛の眼差し、それは非常に慈愛に満ち、とても麗しいものです。しかし、それと同時に母親は「あー、この子は大丈夫だろうか?」などと、ハラハラしながら「子」の歩み(成長)を見つめる、注意深い眼差しにもなっているのです。聖霊様も同様に私たちのことを、霊的に叱咤激励します。「注意深く進みなさい!今は(先の信号機が)赤点滅になりましたよ。」などと。


 第二の理由は、親にとって我が子は②たとえ出来が良いように見えなくても、自分の命を取り替えても構わない程の、自慢の息子(娘)であるからです。その子が何か取柄があったり、秀でる部分が多くあるから自慢なのではなく、その子の「存在」そのものが、「親」にとっての慰め、生きる希望(勇気)、安心感を与えてくれるのです。肉親でさえ、我が子のことを誇りに思うのであれば、父なる神は尚更私たちのことを、物凄く愛しい存在として、誇りに思って下さいます。私たちは父の「懲らしめ」を受ける時、「何故?」といぶかりますが、父なる神は私たちのことを、「キリストの家族」として迎え入れて下さっている以上、決して「庶子」として扱うのではなく、何度も何度も「注意深さ」を、厳しく教え示しながら、見守り続け取扱って下さる、つまり「実子」として愛して下さる方です!


 私たちが、「子」であることを忘れる時に、現実的にサタンが私たちに働きかけて来ます。「もうあなたは、大丈夫だよ!親の言うことは聞かなくても、独りで生きて行けるよ。」と。しかし覚えて下さい!私たちはイエス・キリストを長子とする、神の「子」なのです。「子」である以上、父なる神の愛に十分甘えて、父の指し示す「鞭」と「杖」に従い続けながら、父の「子(実子)」として導かれ歩んで行く時に、私たちは「主の教えは最高である!」ことを知り、それはまるで「頭に戴く優雅な冠、そして婦人の首にきらめく首飾り」の如くに、私たちは美しい器として仕立てられて行くのです。


 あなたは決して「孤児」でも「庶子」でもありません。父なる神の、永遠に変わることの無い、注意深い「愛」に包まれるその時まで、聖霊様があなたのことを、責任をもって導いて下さいます。それ故あなたは、聖霊様の絶えざる取扱いの中で、霊的に訓練を受けていることを、明確に信仰をもって受け留めることが出来るよう、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する