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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

復活の福音(No.6)

                     妥協が全く無い神の愛




神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物として捧げなさい。」
                                                                                                                 【創世記22章2節】


 今回アブラハムに対して、直々命じられた神の「御言葉」は、王(皇帝)から発布される、「勅令」の如きものです。つまり、この「命令」に従わなかった場合には、その人が今就いている、重要な「任(職)」を解かれたり、場合によっては極刑、即ち「死罪」を言い渡される程の内容のものです。


 アブラハムはこの時、拒絶しても良かった訳ですが、アブラハムはいつも通りに、神の「ご命令」を素直に受諾しました。父なる神は、アブラハムの「全て」をご存知でした。つまり、アブラハムの霊的状態が、如何なるレベルにまで聖められているのかを、彼に与えた数々の「試み」の中で、ご存知であった訳です。


 アブラハムに対する、今回の最後の「テスト(試み)」の際にも、彼がいよいよ最終段階に入る、つまり自分の「命」を捧げ尽くしても構わない程に、独り息子(イサク)を愛し、このイサクを通して父なる神の、偉大なる「祝福(子孫の繁栄)」が、拡大し成就されることを、「上」よりの信仰をもって、信じ尽くしていることを、父なる神はご存知でした。


「死」を滅ぼす
 この僅か一節の御言葉の中には、私たちの中にあるものと何ら変わらぬ、アブラハムの「弱さ」が描写されています。そして父なる神は、アブラハムの霊的「弱さ」をも聖めるべく、この最後の「試み」を通して、今回の「勅令」を下したのです。


 父なる神のアブラハムに対する、最後の霊的「処置」とは、アブラハムの中にある、如何なるものに対してでしょうか?それは自分の子に対する、親としての「愛(情)」です。本来「愛」とは、父なる神がアダム(エバ)を創造される際に、惜しみなく豊かに与えたものです。つまり父なる神の「命の息」を、本来の人(アダム)の「霊」の中に吹き込んだ瞬間、それは「人」に与えた、神の「タラント(賜物)」として、霊的に位置付けられたものです。


 ところがご存知のように、アダム(エバ)の犯した「罪」により、それまでは父なる神の、「全き愛(上からのもの)」に覆われていた状態から、彼らは逸脱し(離れ去り)、今度はサタンの吹き込む「情的な愛(下からのもの)」に、彼らの「霊」が左右(支配)されることになります。例えばエバが、アダムを誘う際に次のような言葉で、彼の「愛」を試したことでしょう。「あなた、私のことを本当に愛しているんだったら、私の言うことに耳を傾けてくれるわよね?」などと。


 これは「情的な愛」から生じる、取引(駆引き)的なものです。つまりこの時点で、彼らの中に本来備わっていた、父なる神の「全き愛」が、罪によって追い払われ、人間的な「情(愛)」によって、伴侶を条件的に愛するという、不完全な愛の関係に陥りました。この「不完全な愛」が、様々な要因(例えば浮気)によって、破壊されて(失って)しまいますと、途端に「愛」が「憎しみ」に変わり、更に「嫉妬心」から「復讐心」へと変貌するのです。


 ところが父なる神の「全き(完全な)愛」は、彼らがご自分の「愛」から離れた(失った)時、大いなる「悲しみ」を覚えられ、どうしたら再び彼らを、悪しきサタンから取り戻せるだろうか?という方向に、つまり「贖い(復活)」の御業を、開始することに力を注ぐものです。普通でしたら、陶器師は自分の「最高作品」が、何らかの理由で壊れてしまったら、それをわざわざ修復しようとはせず、粉々に壊れたものを処分し(棄て)て、真新しい別のものを創作しようとします。


 しかし父なる神の場合は、ご自分が一度始められたことを、決して違えることをしません。つまり「妥協」が全く無いのです。ご自分が、「最高作品」として創造されたアダムを、悪しき勢力から取り戻し、「贖い」の御業を始められたのです。ところが、アダム同様に私たちの場合は、「罪」の種が「霊」に蒔かれた結果、神からの賜物である「愛」が汚染され、様々な条件の下で、「この世」と妥協してしまうのです。


 その結果、自分の中にある「愛」が、最高のものと錯覚するため、他者からの「愛」をも、条件如何によっては、受け入れたり拒絶する、またある時は支配しようとします。要するに、このような人間的な愛は、うまく行っている間は良いのですが、途中で破綻した場合に、大いなる「罪」を更に産み出し、必ず「この世」と妥協します。そして妥協した結果、人を霊的な「死」に貶(おとし)め、最終的には自己破壊(自殺、一家心中)などに至ります。


 しかし父なる神の、妥協が全く無い「完全な愛」は、弱き一人の器(アブラハム)の持つ、「人間的な愛」をも贖うべく、彼に対して「試みの時」を与え、最終的には「死」ではなく「復活」の御業を、彼の人生の中に完成するという、この重要な奥義を、私たちは正しく知るべきです。


復活の福音
 父なる神は、アブラハムの「弱さ」を承知の上で、「アブラハムよ、あなたが愛して止まない、たった一人の大切な息子である、あなたのイサクを焼き尽くす献げ物として捧げなさい!」という、実に彼のその時の「心情」を、全部見通すかの如き、「言い回し」で命じられました。この瞬間にアブラハムは、「ドキッ!」と思ったことでしょう。アブラハムの「弱さ」の根本、それは「私の(my)~」という思考です。もし仮に、「私」が一番大事にしているもの、「私」が一番に愛しているものなどを、「全て」破棄しなさい!と、父なる神が自分に命じられたとしたら、私たちは「え!だってこれも、神が与えて下さったものでしょう?」などと、うろたえることでしょう。


 当然、彼は主なる神の「ご命令」が、最終的にイサクをどうするのか?つまり「事の結末」を知っていました。イサクを「焼き尽くす献げ物」として、祭壇上に捧げること、これは自分の独り息子である、イサクの「死」を意味します。彼の「思い」の中では、「イサクの死」によって「私の血筋」、「私の願い(計画)」、「私の子孫の繁栄」等が、次々と消えていくイメージ(My story is end!)が浮かびます。


 この時にサタンも、「お前の人生は終わったー!」と嘲笑します。ところが聖霊様は、彼の「霊」に強く働きかけます。「あなたの今の体を見なさい!妻の体も見なさい。父なる神の一方的な奇跡と憐れみが無ければ、あなた方の中から、イサクが産まれる訳が無い。イサクをこの世に産み出して下さった、父なる神のご計画が、約束の子イサクを通して、今も尚始まっているのです。それ故、全てを父なる神の御業に委ねなさい!神が完成して下さいますから・・・・」と。


 人間的な「計画」や「愛」など、私たちの内側(下)から出て来るものの「全て」は、この世と妥協し易いものです。しかし聖霊なる方は、そんな私たちに促し「助け」を与えます。私たちの「弱さ」の全てを、ご存知の方である聖霊様は、私たちの内側から生じる「私の~」という、肉の働きを一気に片付け、聖別しても良さそうですが、それを為さりません。私たちの肉の「思い」を少しずつ聖めるべく、「上」よりの思いを注ぎます。イエス・キリストがゲッセマネの園にて、最後の祈りへと導かれた際にも、聖霊様が強く働きかけました。つまり「私の杯(思い、願い)ではなく、あなたの杯(父の御心)を受け取ります!」と。


 これは、私たちの祈りにも適用できます。「私の中から出て来る愛情(思い)ではなく、あなたの揺るぎ(妥協)無き、完全な愛で満たして下さい!」と。この祈りは、決して私たちの「内側(肉)」から出て来るものではありません。聖霊なる方が、私たちの「罪」に汚染された霊のフィールドを耕しながら、私たちの「霊」の中から、「命の水」を溢れ出して下さる時に、「上」よりの思いが与えられるのです。そうです!私たちもアブラハムの如くに、「私の思いの全てを捧げます!」と告白する時に、「霊」の奥深くから「命の水」を沸き上がらせ、私の「計画」や「思い」の全てが、おじゃんになり消え去ったとしても、主なる神の「御思い」が必ず、「上」より注がれるのです。その結果、私たちは神の「御心」に、素直に聞き従うことの出来る程の、麗しい(聖い)思いで満たされるのです。


「不滅の命」を現す
 しかしその為には、「贖い」の生贄が必要となります。愛して止まない独り息子、イサクを捧げ尽くしたアブラハムの「信仰」は、父なる神が独り子イエス・キリストを、本気で十字架上で屠ったという、「贖い」の御業と同様の、霊的雛形でもあります。アブラハムの「信仰」を受け留められた父なる神は、「イサク」の身代わりとして、一匹の羊を備えて下さいました。即ち父なる神の側に、最終的な権限(責任)があるのです。


 私たちは確かに、聖霊様の「助け」により、ある程度の「献げ物」を用意し、祭壇上に置くことは出来ます。ところが最後の局面になりますと、二の足を踏むなどの霊的「弱さ」があります。しかし主なる神が、「あなたは弱い。だから私は、あなたの身代わりとして、御子イエス・キリストを十字架上で屠り、贖いの生贄としたのだ!」と言われた瞬間に、私たちは「負けました!その通りです。私が出来ないことを、イェス様が為して下さったんですね。ありがとうございます。と言うことは、この私は何もしなくて良いのですね?ただ十字架の御元に行き、十字架から流れ落ちる、イェス様の血潮を仰ぐだけで、あなたは上よりの聖なる御思いで、私を満たして下さるんですね。」という、聖なる導きを受け取るのです。


 そうです!アブラハムにとって私の息子イサクは、上よりの新しいイサク(神のもの)として、再び彼の家族に託されました。本来でしたら、イサクの死で終わるところが、イエス・キリストの「贖い」により、新しい復活の命として完成されたのです。


第二のものを立てる為に、最初のものを廃止されるのです。この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、私たちは聖なる者とされたのです。全ての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を取り除くことの出来ない同じ生贄を、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪の為に唯一の生贄を献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。何故なら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。・・・・罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための備え物は、もはや必要ではありません。
                                                                                                      【ヘブル書10章9~18節】


 イエス・キリストが、私たちの「罪」を贖う、唯一の生贄として捧げられた以上、私たちには「贖い」の子羊、イエス・キリストを通して、不滅の命が現されているのです。そして私たちの中にある、「この世」と妥協し易い、人間的な「愛」を完全に贖い、決して揺るぐことの無い、神の「完全な(妥協無き)愛」により、私たちは聖なる者(神のもの)とされているのです。


 それ故に私たちは、もはや「他のもの」を捧げる必要がありません。私たちが捧げるべきもの、それは「イエス・キリスト」を通して、既に成就されているからです。私たちがイエス・キリストの「復活」により、日々新たにされる理由が、ここにあるのです。滅亡の道のりではなく、不滅の「命」と「再生(復活)」を、必ず現して下さるイエス・キリストに、私たちは霊と真をもって、永遠に感謝し続けようではありませんか!妥協が全く無き、主なる神の大いなる「愛」の中で、あなたが信仰をもって前進出来ますよう、主イエス・キリストの御名で祝福しお祈りします。アーメン!


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