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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.20)

            神の愛、その偉大なる「力」を知る




あなたは七週を数えねばならない。穀物に鎌を入れる時から始めて七週を数える。そして、あなたの神、主のために七週祭を行い、あなたの神、主より受けた祝福に応じて、十分に、あなたが捧げ得るだけの収穫の献げ物をしなさい。こうしてあなたは、あなたの神、主の御前で、即ちあなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、息子、娘、男女の奴隷、町にいるレビ人、また、あなたのもとにいる寄留者、孤児、寡婦などと共に喜び祝いなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを思い起こし、これらの掟を忠実に守りなさい。
                                                                                                        【申命記16章9~12節】


父なる神の「熱情の愛」により・・・・
 父なる神の私たちに対する、熱情の愛の「力」を知ること無くして、私たちははっきり申し上げて「無力」な存在です。しかし私たちは、すぐに自分の中にある「肉の力」を頼みとして、何らかの「献げ物」を捧げようと努力します。覚えて戴きたいことは、本来私たちの側からは、産み出すものが何一つ無いことです。聖書は明確に、「十分に、あなたが捧げ得るだけの収穫の献げ物をしなさい。」(10節)と記述しています。「十分に・・・・捧げ得るだけの」とは、強制的な「命令」を意味する言葉ではなく、神が私たちの「弱さ」を思い測って、配慮して下さっている言葉です。


 私たちは、自分が本来「弱い存在である!」ことに、中々気付こうとしまません。私たちが、一番忘れてならない聖霊の「恵み」とは、私たちが取るに足らない、弱い欠陥だらけの器であり、神の御前で十分に立つことの出来ない、罪に染まり切った者であるにも関わらず、聖霊様は父なる神の「愛」を、十分に指し示していることです。つまり、私たちの中にある自己の「無力さ」と、実は今も尚私たちが、十字架に磔にされたイエス・キリストを、真下からののしったり、脇腹を突き刺したローマ兵の如くに、イエス・キリストを霊的に突き刺している、「あなたの姿」を教え示しているのです。ところが「え!聖霊のバプテスマを受けたこの私が、イエス様を傷つけているですって?とんでもない!」と、殆どのキリスト者は否定するでしょう。何故なら、私たちは「己(自分)が、一体何者(どういう姿)であるか?」を、霊的に正しく認識していない(知らない)からです。


 聖霊様は私たちに対して、父なる神の正しいイメージを、今も尚示して下さっています。それは「主なる神の御慈愛、そしてあなたに対する様々な取扱いの根源は、熱情の愛から来るものです。本来あなたは、それを受けるべき者ではないにも関わらず、一方的に天からの恵みを注いで下さり、あなたのことを全責任をもって、養い導いて下さるのです。そしてその貴い愛をもって、あなたのことを力強く抱き寄せて下さる、つまりあなたの全てを覆って(カバーして)下さる方、それは只お一人、イエス・キリストだけです!」と。この時に、私たちは霊的に思い違いしながら、神の対して様々な「供え物」を捧げている訳ですが、イエス・キリストは、そのような私たちの「供え物」を、ご自身(子羊)の「はん祭(贖いの犠牲)」を通して、カバーして下さっているからこそ、私たちは父なる神の御前に、大胆に進み行くことが出来るのです。


 「自分の体を神に喜ばれる聖なる生贄として捧げなさい」(ローマ書12章1節)の御言葉にあるように、私たちの捧げる「供え物」が、「聖なる生贄」として捧げられるためには、私たち自身が「全焼の生贄」として、霊的に焼き尽くされる必要があります。それと同時に、実は「私たち」が、如何に「罪」に染まり切った愚かな者であっても、贖いの子羊イエス・キリストは、私たちを覆い尽くすことで、「聖なる生贄」として造り変えて下さっていること、これを常に覚えて下さい!


私の「本当の姿」とは?
 私たちは「主よ、私はあなたを愛します。それ故に、これ程のものをもって、御前に供え物を持って来ました。」と告白しながら歩んでいます。ところがいつの間にか、私たちの「思い」の中に、例えば「私は、このように選び召されたから、当然主の恵みが注がれているのだ!」などと、霊的に高ぶった「思い」をもって進んでいるために、聖霊様は様々に私たちの、このような「未熟さ」と「愚かさ」を示しながら、私たちを霊的に打ち砕いて下さるのです。にも関わらず私たちは、聖霊様の働きに気付かないまま、「主よ、何故ですか?私は子羊として、十分に神の御前に、生きた供え物(私)を捧げているではありませんか!」などと、簡単に告白(主張)します。すると聖霊様は、「否!あなたは十分ではない。何故なら、父なる神が御子イエス・キリストを、あなたの霊的な未熟さと愚かさという、あなたの罪の身代わり(贖いの生贄)として、既に十字架上で屠った、その恵みがあって初めて、あなたは生かされているに過ぎません!」と、私たちを霊的に軌道修正して下さいます。


 この時私たちの殆どが、「え!この私は、神の御前にあって、どのような姿なのでしょうか?私に間違っている部分があるのでしょうか?」と尋ねながら、霊的に抵抗することでしょう。しかし私は2007年5月末の頃、聖霊様を通して明確に、自分の「本当の姿」を示されました。私はそれまで、自分が神の御前に出ながら、祭壇上に自分を捧げる場合のイメージを、次のように考えて(描いて)いました。「私は子羊のように、大人しく身を横たえている!」と。ところが聖霊様は、このイメージを描き直しながら、次のように示されました。「あなたは、自分が子羊と思っているかも知れないが、私の目には、あなたの頭に角が生えているのが、はっきり見えるよ!」と。


 私たちは確かに、イエス・キリストの「救い」の恵みを、無条件で受ける特権にあずかりました。しかし私たちは、いつ何時この弱き器が、柔和な子羊から角の生えた羊、つまり「山羊」になる可能性があるか!このことを知る必要があります。私は自分の「霊」の中に、「角」となる部分があることを示された時、愕然としました。聖霊様は更にイメージを示されました。「あなたのその角が、十字架上のイエス・キリストの御体を、今でも突き刺し、その裂かれた御体から、流れ出る大量の血潮が、子羊と思っているあなたの上に、十分注がれ覆い尽くされているからこそ、父なる神はあなたを、生きた聖なる献げ物として見て下さり、受け取って下さるのです。」


 父なる神の「熱情の愛」というものは、私たちが「羊」であるから、受け入れて下さるものではなく、すぐにも「山羊」と化すような、愚かで罪深い私たちであっても、イエス・キリストの「購い」の御業をもって洗い聖め、「聖なるもの」として受け入れて下さる、ここに素晴らしい「奥義」があるのです。私は、自分の「本当の姿」を明確に示された時、「主よ、私は間違っていました。御子イエス・キリストの購いの御業があって初めて、私は受け入れられる器に過ぎません!どうか、私を正しい道(十字架の死)へと、再び召し寄せて下さい!」と、涙ながらに祈らざるを得ませんでした。


 私たちが如何なる者であっても、父なる神はイエス・キリストの「はん祭」、即ち「過越しの犠牲」を通して、私たち(山羊)のことを、暖かい御腕をもって抱いて下さるのです。その時に、私たちの「角」をカバーして下さる方は、イエス・キリストです。私たち(山羊)は、イエス・キリストの「はん祭」が無ければ、恐らく父なる神の「御体」を、私たちの「角」で傷つけるだけです。主なる神が、このような私たち(山羊)のことを、一方的に「この世」から選び召し出し、取るに足らない私たちのことを、愛して下そったからこそ、私たちは御前に出られるのです。その父なる神の「愛」の完成作品が、御子イエス・キリストという、「過越しの犠牲」です。


聖霊が臨まれる時に・・・・
 「過越しの祭り」から約七週間後に、あの軟弱で臆病だった、百二十人の弟子たち全員に、再び父なる神の「熱情の愛」は、聖なる炎として降臨し、その時から彼らは、まさしく「生きた聖なる供え物」として造り変えられたのです。私たちは、霊的に「死んだ状態」に造り変えられなければ、父なる神の「偉大なる愛」を知ることは出来ません。彼らは「主よ、私にはもう何もありません!希望も無くなり、駄目になりました。私はもはや、死んだに等しい者です。主よ、あなたの聖霊の息吹を通して、私を新しく創造し、完全に主の愛に囚われた、あなたのものとして、御前に全てを捧げ尽くします!私の業は終わりました。あなたの御業を完成して下さい!」と次々に告白した時に、聖霊が彼らの「角」を焼き尽くし、完全に覆い尽くしたのです。


 父なる神の、その「偉大なる愛」を知ること無くして、私たちに聖霊様の「御力」が、豊かに働くことはありません。主なる神はあなたに対して、聖霊様の「恵み」を豊かに注ぎ、如何なる時にも、ある方向性を指し示して下さいます。その方向性とは、「己自身を知る!」ということです。つまり自分が、一体「何者」であったのか?イスラエルの民同様に、かつては「エジプトで奴隷であったこと」を、霊的に知ることです。


 私たちが、百二十人の弟子たちと同様に、聖霊様の「恵み」の中で取扱われて行く時、私たちは聖霊様を通して、「己自身」の中にある、私たちの「供え物」が、主なる神の要求されるものとは、全く懸け離れた次元の中にあることを、日々知らされるのです。そして父なる神の「愛」、その偉大さ・深さを知る時に、「主よ、この私は、あの弟子たちよりも劣っている愚か者です。未々足らない者です。もっともっと、聖霊様の油注ぎを与えて下さり、私の霊の中に生ける命の水を、尽きること無く豊かに流して下さり、私の霊の内側を全て聖めて下さい!そしてもっと、主なる神を知る思いへと、私の霊が軌道修正されますように。」と祈り始めます。


 聖霊なる神は必ず、主を知ることの喜びを見出す(捜し求める)者へと、あなたを造り変えて下さいます。主を「知る」ことの喜び、その「根源」はイエス・キリストの、偉大なる「過越しの御業」です。私たちが更に、イエス・キリストを深く「知る」ことによって、私たちが「イエス・キリスト」を長子とする、キリストの「弟妹」に位置付けられる(似せられる)ことを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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