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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.21)

                                銀の代価



あなたの神、主があなたを祝福されても、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所が遠く離れ、その道のりが長いため、収穫物を携えて行くことができないならば、それを銀に換えて、しっかりと持ち、あなたの神、主が選ばれる場所に携え、銀で望みのもの、即ち、牛、羊、ぶどう酒、・・・・必要なもの買い、あなたの神、主の御前で家族と共に食べ、喜び祝いなさい。
                                                                                                        【申命記14章24~26節】


神の「買い戻し」により
 主イエス・キリストは私たちが、如何に「罪」深き者であっても、聖霊様の働きを通して、ご自分(花婿)にふさわしい、聖なる「花嫁」へと整えるべく、私たちのことを忍耐の限りをもって、愛し続けて下さいます。本来私たちは、アダム(エバ)が罪を犯さなければ、この地上にある「金」や「銀」などの、高価な宝石に優った、麗しい貴い「器(命)」として、父なる神は完全な愛で満たして下さるのです。


 ところが、アダム(エバ)の犯した「罪」の結果、まるで「この世」にある金・銀(価値のあるもの)にも劣ったもの、つまり「欠けた(無価値な)器」のような者へと、私たちは霊的に成り下がりました。しかし父なる神は、御子イエス・キリストという、「贖いの子羊」を通して、私たちを「この世」から買い戻しました。その結果、私たちは父なる神の御前で、「聖なる生きた器」へと創り変えられたのです。


「道のり(距離)」が長い場合
 「什一の掟」は、イエス・キリストを信じる、私たち「キリストの家族」にとって、それは真の神(父なる神)を霊と真をもって礼拝する、「霊的姿勢(態度)」を示しています。つまり父なる神は、私たちの捧げる「献金」や「奉仕」などの、「度合い(額面、数量)」を見られるのではなく、私たちの神に対する、「直ぐなる心」や「態度」を見ることによって、私たちを更に祝福するという、信仰上の歩みにおける、霊的「試金石」として課しています。


 今回の第一のキーワードである「道のりが長い」(24節)とは、「献げ物」を携え行く場所が、余りにも遠く離れている場合に、別の方法を提示しています。「主がその名を置くために選ばれる場所」(24節)とは、父なる神ご自身が私たちのために、「ご臨在」を現して下さる場、つまり「至聖所」のことです。ですから、霊と真による「礼拝(交わり)の場」が、自分が被る様々な「問題」によって、余りにも遠く離れて、自分の「直ぐなる心」の全てを、携え行くことが不可能な場合に、私たちは今回の御言葉の「規定」が必要になります。


 前述したように、私たちと神との「関係(霊的な交わり)」は、アダム(エバ)の犯した「罪」により、余りにも遠く懸け離れた、言い換えれば「別居状態」に近いほど、その関係が「断絶」していた訳ですが、父なる神の「愛」により、御子(イエス・キリスト)という「贖いの代価」により、私たちは買い戻された、つまり元の「密接な関係(親しい交わり)」にあずかることが出来ました。


「パリサイ人」と「取税人」の違い


二人の人が祈るために神殿に上った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人だった。パリサイ人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、私は・・・・この取税人のような者でないことを感謝します。私は・・・・全収入の十分の一を献げています。」ところが、取税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人の私を憐れんで下さい。」
                                                                                                   【ルカ福音書18章9~14節】


 このストーリーに登場する「取税人」は、自分の中にある「罪」の姿が、余りにも汚れていることを知っているので、「主よ、私はあなたの御前に、素直に出て行くことが出来ません。私は何と、あなたから遠く離れた存在なのでしょう!あなたの前に立つことの出来ない、この愚かな私のために、あなたの憐れみを与えて下さい。あなたに近づくことの出来る、あなたの恵みを注いで下さい!」と、声にならない声で必死に祈り求めました。


 それに対して「パリサイ人」は、「主よ、私は(誰よりも)立派な行いをもって、あなたに私の信仰を表明しています。そして、何よりも誇るべきことは、(彼のような罪人のようにではなく)立派な礼拝を捧げることが出来ることを、何よりも感謝します。私こそ、あなたに近い者であることを感謝します。」と心の中で、声高らかに宣言しました。


 再度繰り返しますが、アダムの子孫である私たちは、神に対して「遠く離れた存在」であること、このことを常に覚えて下さい!しかし、父なる神は不思議な方法をもって、神に近づくことの出来る「憐れみ」を、いつも用意して下さいます。この神の「憐れみ」を申命記の筆者は、「銀の代価」と記述しました。これが第二のキーワードです。父なる神は、何故イスラエルの民に対して、「銀」という高価な単位ではなく、「銅」などの割安な単位をもって、交換するように命じなかったのでしょうか?「主よ、私のような罪人にとっては、とてもじゃありませんが、銀に交換することは不可能です!」と、殆どのキリスト者は躊躇することでしょう。ところが私たちには、次の御言葉も与えられています。「知らないのですか。あなた方の体は、神から戴いた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなた方はもはや自分自身のものではないのです。あなた方は、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント書6章19~20節)


 パウロは、かつてサウロ(古い自分)の時代に、「自分こそが神に一番近い者である!」と自負していたのですが、実際はその逆、つまり「ほど遠い者である」ことに気付かされました。そして彼は、「もはや、私のものと言えるものは何一つない!私の体も命も、そして一回一回の呼吸に至るまで、それらの全てが、聖霊様が住まわれる神の住まい(神殿)である!」と断言したのです。私たちは「主が住まわれる場所」よりも、自分が好む「私の場」を優先します。


 イエス・キリストの十字架による「贖いの代価」は、「銀」よりも貴い価値あるものです。それ故、聖霊様は常に私たちに対して、励ましの言葉をもって語られます。「あなたを創り変えるのは、この私である!あなたの中に豊かに、主イエス・キリストの栄光を輝かすことも、全て私の務めである。主イエス・キリストの十字架の血潮が、あなたに十分注がれている以上、あなたはこの世から買い取られているのです。それ故に、私は今あなたを銀のような、高価な(貴い)器へと練り聖め、最終的には神の栄光のみを現す、純金として創り変えるべく働いている。」と。


神の「恵み」を食し合うため
 「銀で望みのもの、即ち、牛、羊、ぶどう酒、・・・・必要なもの買い、あなたの神、主の御前で家族と共に食べ、喜び祝いなさい。」(26節)この御言葉の中にある第三の重要な規定、それは高価な「銀」をもって、買い取った数々の「食糧」を、神殿に奉納するように命じているのではなく、各「家族」の中において分かち合い、神に感謝しながら共に食することです。つまり神ご自身を喜び祝うこと、これが「銀」を使用する目的です。


 「主の御前で」とは、直訳するならば「あなた方の主、真の神が臨在される場所において」となります。つまり各「家族」の中において、主なる神が必ず臨在される場、即ち「至聖所」が用意されているのです。本来、私たちは「至聖所」に近づくことも、入ることも出来ない「罪」深き者ですが、父なる神は「銀」の恵みをもって、私たちを「貴い器」として創り変え、私たちの中に現される神の「救い」を、各「家族」の中において分かち合う時、それこそがまさに霊的な「至聖所」、つまり主なる神が臨在される、「キリストの家族」になるのです。


 「什一の規定」は、ある面で私たちキリスト者が、各自の「家族」の中にあって、如何なる役割を果たして、私たちの「血肉」の努力によってではなく、神の一方的な「恵み(憐れみ)」により、父なる神の「救い(贖いの御業)」が、イエス・キリストを信じる信仰によって保証されていることを、共に証言する(分かち合う)時に、主なる神が各「家族」の中において、直接その臨在を現して下さる!という、正しい信仰の「道しるべ」とも言えます。


 それ故私たちは家族の中で、「何」を霊的に食すべきでしょうか?それはご存知のように、私たちの「命の糧(パン)」なる方、主イエス・キリストです!主イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも変わることなく、私たちのことをねんごろに愛し守り、私たちのために必要な全ての糧を、豊かに用意して下さる方です。主イエス・キリストは今も尚、私たちのために「贖いの代価」を、配分して下さっていることを信じて下さい!その「代価(救いの御業)」を携え行き、あなたがそれを分かち合う時に、あなたの「家族」ばかりでなく隣人に至るまで、神の「救い」が現れ出ることを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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