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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

復活の福音(No.5)

                         命がけで逃れよ!




彼ら(二人の客)がロトたちを町外れへ連れ出した時、主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにも留まるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」ロトは言った。「主よ、できません。あなたは下僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとして下さいます。しかし、私は山まで逃げ延びることはできません。・・・・ご覧下さい、あの町を。・・・・あれは小さな町です。あそこへ逃げさせて下さい。あれはほんの小さな町です。どうか、そこで私の命を救って下さい。」主は言われた。「よろしい。そのこともあなたの願いを聞き届け、あなたの言うその町は滅ぼさないことにしよう。急いで逃げなさい。あなたがあの町に着くまでは、私は何も行わないから。」そこで、その町はツォアル(小さい)と名付けられた。
                                                                                                        【創世記19章17~22節】


「死」を滅ぼす
 ソドムとゴモラの崩壊は、私たちには想像出来ない程の、巨大地震による破壊規模ではないかと推測します。或いはもしかしたら、それは小規模の核爆発に匹敵する程の、父なる神の「火の裁き」ではないでしょうか!父なる神の、この「火の裁き」から逃れることの出来た者は、ロトと娘たちという「小単位(スモール・グループ)」家族であったこと、この「事実」の中に、神の偉大なる「救い」のご計画、つまり「復活の福音」の奥義が示されています。


 ご存知のように、今回のストーリーに登場する、二つの商業都市の繁栄時代ばかりでなく、「ノアの大洪水」の時代、そして「バベルの塔」建設の時など、父なる神は「地」に悪意が満ちた時、それら「全て」を破壊しました。しかし幸いにも、父なる神は「贖いの時」を、神を信じる正しき者たちに、逃れの時(機会)として用意されました。


 ところで神の「御目」から見て、悪意に満ちた人々の「何」が、巨大なものとして映ったのでしょうか?今回のストーリーのキーワードは、「大きい」と「小さい」という、相反する概念です。父なる神の「御目」には、人々の「霊」の中に、「悪しきもの」が膨らみつつあることが、明らかなものとして映りました。


 ご存知のように、「悪しきもの」とは「罪」のことで、父なる神の「御心」から離れて、自分勝手に生きることです。そのような「罪」が巨大化した、ソドムとゴモラの町を滅ぼすこと、これが父なる神の「裁き」ではありましたが、その目的は完全に滅ぼし尽くして、「死」を与えることではありませんでした。たとえ「裁き」が下されても、そこから再生の道のりを設け、「新しい命」を産み出すべく、必ず「とりなし手(正しき者の群れ)」を残されているのです!


復活の福音
 実は「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにも留まるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」(17節)という神の「御言葉(ご命令)」は、私たちの信仰生活の歩みにおいても、霊的に適用できるものです。私たちキリスト者は、神の子羊イエス・キリストの、貴い「贖い」の御業によって、「この世」から救い出された(脱出できた)民です。しかし世にある(生きている)限り、未だ完全に贖われているとは言えず、そして「罪」の種に汚染された、「この世」のフィールドに暮らしていることも事実です。


 ですから、私たちはキリスト者と言えども、自分の「霊」の中に、この「罪」の種を受け入れますと、「罪」が成長し膨らみ、巨大化する可能性もはらんでいるのです。そうならないためにも、私たちはロトの家族にもたらされた、父なる神の「贖い」のご計画を、霊的に正しく学ぶ必要があるのです!


 神がロトに命じた第一の命令は、「直ちに逃げ、命がけで、この場から立ち去りなさい!」であり、続いて下された第二の命令は、「逃げ出したら、絶対に後ろを振り向いてはならない!」、そして最後の命令が「ソドムとゴモラだけではなく、他の如何なる低地にも留まってはならない!とにかく私が示す山に向かって、一生懸命に逃げて行きなさい!」という、イメージ的には簡単な(理解し易い)、三つの内容を持つ具体的な「指示」でした。


 しかし実行するには、中々従い(動き)にくいもの、つまり長距離マラソンの如き、肉体的にハードなものでした。ですからロトは、すかさず屁理屈(自分の判断)を神に述べました。「主よ、仰せの内容は分かりました。しかし山は、ここから遠いですね!恐らく途中でへたばり、破壊の炎が私たちを焼き尽くすかも知れません。とてもじゃありませんが、間に合いません。」と。


 この時ロトは、父なる神の「御心」を見ようとはせず、逆にある事を忘れ去っています。それは、父なる神が命じた通りに実行(従順)すれば、「必ず助かる(贖われる)!」という、「神の事実」のことです。ところが私たちも、自分の肉の判断から、自分の理屈(言い訳)を述べることが、多々あるのではないでしょうか!それこそが、「罪」の種であることも知らずに・・・・。すると主なる神は、ロトの要求に対して「分かった。確かにあなたの言う通りだ。とにかく途中にある小さな町まで、急いで逃げて行きなさい!」と譲歩して下さいました。


 ところでロトは、アブラハムとの「経済的(商売上の)競争」には、確かに低地にて勝利(先に繁栄)し、大きな成功を手に掴みました。しかしこの時点においては、その「大きなもの」を、彼は持ち運ぶことが出来なかったのです。例えば私たちの信仰生活の中には、「私たちの~は、大きく前進している(勝利している)!これこそが神の御心である。」などと、高らかに自分(自分たちの歩み)を誇る部分があります。父なる神が様々に取扱われているにも関わらず、中国に負けじとアジアの盟主たらんとしながら、巨大な経済的繁栄を誇る「日本」は、未だもって霊的な高ぶり(大きな罪)が存在します。そうです!この「日本」の現実は、霊的には大きな危機の最中にあると言えます。


 それと同時にある面では、父なる神がいよいよ、頑(かたく)なな者を更に頑なにし、砕かれる者は更に砕いて行くという、聖霊様の大いなる取扱いの時機に入っていることも、霊の眼で見る者(小さき者)を召し出していることを信じます。そのような「聖徒の群れ」は、たとえ現状がどうであっても、父なる神が必ず正しき者を逃れの町、即ち神の聖なる山に連れ登らして下さることを信じて、霊と真による礼拝を為し続け前進します。


 しかし残念ながら、「宗教の霊」に支配されるキリスト者或いは団体(教会も含む)が、着々と増加していることも事実です。ところがアメリカにおいては、確かにメガ・チャーチと呼ばれる、大きな教会も数多くある訳ですが、三次元的な「大小」の規定概念に捉われない小さな群れ、即ち聖霊によって自由に働くことの出来る、スモール・グループ(小さなエクレシア)も、かなりのペースで出現しています。


 かつてのロトでしたら、主なる神の譲歩に対して「あんな小さな町なんかには・・・・」などと軽蔑したところですが、今回は「あのような小さい町に辿り着くまで、あなたの守りをお願いします!」とへり下っているのです。その結果、ロトの信仰は更に回復し、「小さな町」に逃れることが出来ました。「ツォアル」とは霊的に、イエス・キリストの十字架の「死」による、「贖い」を現す雛形です。前述した如くに、私たちにまとわり付く「罪」を、私たちは完全にかなぐり捨てることが出来ない、霊的な弱さがあります。しかしか私たちが、主なる神が用意して下さる、聖なる逃れのフイールド(十字架の御元)に行く時、最も小さき子羊、即ちイエス・キリストを通して、私たちに「救い」の機会を与えることで、父なる神の「裁き」をストップして下さるのです。


 イエス・キリストは私たちキリスト者にとって、最も偉大なる方「救い主」として、褒め称えられるべき神の御子であると同時に、最も小さき者、最も砕かれた卑しき者として、十字架上で屠られた子羊でもあります!そうです!私たちが、この子羊イエス・キリストが居ます、「十字架」の御元に行く時に、膨らみ続ける「罪」から完全に逃れることが出来ることを、私たちは是非信じましょう!


「不滅の命」を現す


預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら-読者は悟れ-、その時、ユダヤに居る人々は山に逃げなさい。屋上に居る者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。畑に居る者は、上着を取りに帰ってはならない。・・・・その時には、世界の初めから今までなく、今後も決してない程の大きな苦難が来るからである。神がその期間を縮めて下さらなければ、誰一人救われない。しかし、神が選ばれた人たちのために、その期間を縮めて下さるであろう。
                                                                                             【マタイ福音書24章15~22節】


 イエス・キリストは、「救いに至る道は小さいが、滅びに至る道は大きい!」と語られました。しかし「イエス・キリスト」に至る、救いの門は今も大きく開かれ、小さきキリスト者の「とりなしの祈り」により、「滅びの時」が止め(縮め)られているのです。それ故、私たちは「逃れの町」なる、イエス・キリストの「十字架」の御元に、いつも逃げて行きましょう!そうすれば、主なる神が「あなた」を特別に、「不滅の命」を現すという、神の大きな務め(働き)を担う者として、聖霊様が日々臨んで取扱って下さることを、主イエス・キリストの御名で祝福しお祈りします。アーメン!


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