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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.19)

             主を畏れることを学習しなさい!




あなたは、毎年、畑に種を蒔いて得る収穫物の中から、必ず十分の一を取り分けねばならない。あなたの神、主の御前で、即ち主がその名を置くために選ばれる場所で、あなたは、穀物、新しいぶどう酒、オリープ油の十分の一と、牛、羊の初子を食べ、常にあなたの神、主を畏れることを学ばねばならない。
                                                                                                      【申命記14章22~23節】


 父なる神がイスラエルの全家、即ち私たち「キリストの家族」に対して、霊的に授けている第四の「掟」、それは「什一の献げ物」に関するものです。第一から第三の「掟」が、私たち「キリストの家族」を、神の大いなる「祝福」へと導く、その方向性を指し示す「道しるべ」であるのに対し、第四の「掟」は具体的に、神の「祝福」を得ていくため、私たちが喜んで為していく、霊的な事例(行動指針)を教えています。これは私たちが、実際に行動(アクション)に至らなければ、神が私たちに用意される霊的祝福の領域に、決して入ることが出来ない次元のものです。そこで先ず、「何故私たちに、十分の一の規定(ルール)が与えられているのか?」この点について、聖書から詳しく学んで参りましょう。


「交わり」という生活スタイル


十分の一の献げ物を全て倉に運び、私の家に食物があるようにせよ。これによって、私を試してみよと、万軍の主は言われる。必ず、私はあなたたちのために、天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。
                                                                                                              【マラキ書3章10節】


 イスラエルの全家において、今日においても継続的に為されている、「交わり」という習慣を、私たちは常に覚えておく必要があります。イスラエル人は、民族的に「一つ」にまとまろうとする傾向が、数千年に渡る流浪生活の歴史から形成されました。彼らは貧富の差に関わり無く、「皆が、有るものから出し合って(供出して)、その出し合ったものを、全ての人々に分配する(分かち合う)」という、神の「知恵」が行き届いたシステム(交わり)を、継続的に行っているのです。


 ご存知のように彼らは、民族的に12の部族に分かれ、各部族毎に「役割」が課されていますので、民族的な「交わり」の儀式(祭り)の時にも、各部族毎に「供出品」が細分化されている訳です。それ故私たち日本人からは、とても理解し難いシステムですが、彼らの中には「イスラエルの全家が、神の祝福にあずかることが出来るよう、持たざる者は持てる者から戴く、つまり共に食事の恵みにあずかる」というライフ・スタイルが、各部族という大きい単位ばかりでなく、小さい単位(家族)の中においても、このような不思議な「交わり」文化(習慣)として、自然に為されているのです。


 「共に食す」というライフ・スタイルは、今日の私たち日本人が大事に抱える思想、「金があれば何とかなる!」などのライフ・スタイルとは、全く別の次元にあります。彼らは「お金」を貯めることよりも、イスラエルの全家に属する、一人の「人(命)」を大事に考えるため、「共に食べて生きることで、全ての者が生き永らえる」という「交わり」をベースにした、共済(共に助け合う)システムを造り上げています。


「什一の規定」その本来の目的
 ところで、私たち「キリストの家族」のイメージの中で、一番に意識しなければならないイメージ、それは「私たちの家長は、一体誰ですか?」という問いから生じるものです。「家族」の中において、一番重要な役割(責務)を負っている者とは、ご存知のように「家長(父)」です。つまり「家長」は、自分の「家族」全員を、常に養い導かねばならない存在です。それ故ある時は、本当は自分も腹一杯食したいところを、我慢して「子」に与えるなど、「親」の愛を十分に注ぎ出します。


 同様に、「キリストの家族」の家長である父なる神は、私たちのために祝福を授けようと、今も尚一生懸命に働いて下さり、貴い「責務」を全うして下さっています。それ故、父なる神の祝福を享受する時、私たちは父なる神の「恵み」に対して、「感謝」「敬う(畏れる)」という、直ぐな表明を怠ってはなりません。もし「家族」の中で、この「家長(父)」の存在が軽んじられるのであれば、核家族化が蔓延している、今日の日本社会において非常に問題視されている、父親の不在という現象が生じるのです。それと同時に、「家族」に対して全責任を負って下さる、父の「偉大さ」や「素晴らしさ」を畏れ敬うべきことをも、私たちは正しく「知る(学ぶ)」必要があります。


 このように、父なる神が何故、イスラエルの全家に対して、「十分の一」の掟を授けられるのか?その原点(本来の目的)を私たちが知らなければ、私たちは「什一のルール」を、三次元的な「繁栄の神学」に適用するなどの、霊的危険性に陥る可能性があります。父なる神にとって、「十分の・・・・」という数学論理が大事なのではありません。覚えて戴きたいことは、父なる神は「十分の一を献げなさい!」とは命じていません。ただ「必ず十分の一を取り分けねばならない(聖別される必要がある)」(22節)と命じている点です。


 何故ならば、父なる神がイスラエル民族に限って、教え示した「知恵」の中に、「家族の全ての者は、家長の貴い責任の下にあって、必ず祝福にあずかる!」という考え方が、この「什一の規定」の行動指針の中にも、色濃く反映されているからです。ところが、私たちキリスト者の中にも「什一献金」を、「神に返すべきもの(負債金の如きイメージ)」と、霊的に錯覚している部分があります。果たして「家長」の中で、「我が子」に対して、今までかかった養育費の「10%」を要求する、そんな父親がいるでしょうか!



 イスラエルの全家は、一年間に渡って得た「恵み」の一割分を、神の倉に先ず奉納しました。神が定められた第四の「掟」を、更に詳しく学んで行きますと、全家から奉納された大量の「献げ物」を、12部族毎に分配し、神の定めたフィールドにおいて、これらの奉納物(穀物、ぶどう酒、家畜の初子など)を、共に食したことが分かります。神が定めた、彼ら民族の不思議な特徴は、「全てが共に会食すること」、この一点に絞られるでしょう。だからと言って、一年に一回の大イベントにおいて、つまり「お祭り」騒ぎで飲み食いに耽るなどの、愚かな行為に至っている訳ではありません。また彼らは「共に会食すること」で、部族の自慢話しや、収穫量の誇り合い(比較話し)などを、この時とばかりに披露した訳でもありません。


 彼らは神の「掟」通りに、一年を通じて与えられた神の「祝福」を、互いに食すことによって、「常にあなたの神、主を畏れること」を学習したのです。つまり「什一の掟」は、「主なる神」に霊と真をもって、ひたすら畏れ敬うことを学ぶ、この正しい目的(方向性)を、私たちは見失ってはなりません。ですから私たちは、父なる神が私たちの「什一」そのものを、決して要求しているのではなく、一人一人が霊的に一年間培ってきた、「主」を畏れ敬う信仰、また一年間守り導かれた「感謝」の念(思い)、そして様々な試みの中で取扱われながらも、神の大いなる「恵み」の中で祝福されてきたのか、それらの直ぐな「思い」の全てを、「キリストの家族」の中で証言(表明)し合うことで、主を畏れることを霊的に再確認する、これが「什一の掟」が指し示す、正しい方向性です。


 ところでマラキ書3章は、「レビ人」を潤すための、神の「掟(律法)」を具体的に指示した、いわゆるマニュアルではありません。また、イスラエルの人々が「繁栄」していく上で、神に「収穫の一割」を必ず投資するなどの、証券的な方法論を述べているものでもありません。マラキが生きていた時代も、当然「什一の掟」は守り行われていました。ただ私たちが知らなければならない、この時代の背景に、「飢饉」による不作で庶民が苦しんでいたという、歴史的事実があります。


 そこで、マラキは神に祈り求める中で、「飢饉」が起きた根本原因を、「あなた方は盗んでいる!」という、聖霊様からの啓示を通して知らされました。つまりイスラエルの全家が、代々に渡って為していた、神の「恵み」を分かち合うという、「共に食すこと」を怠り、むしろあらゆる階層において「不正」がはびこり、特に祭司階級の人々が「献げ物」を、民に多く要求するばかりで、末端の庶民が「苦しみ」にあえいでいることを、彼らは無視していた訳です。イスラエルの民と共に、神の「恵み」を食し合い、主を知ることを切に追い求めることを、忘れるという彼らの霊的傲慢の「罪」故に、国中に「飢饉」が訪れることを、聖霊がマラキに知らせたのです。それと同時に父なる神は、彼らが原点に再び立ち返り、神の「恵み」にへり下ることを告げ知らせたのです。


「主を畏れること」を常に学ぶ
 「私を試してみよ」とは、ある「法則」が確かなものであるかを、実験(実証)するような低レベルの言葉ではありません。とにかく彼らが、父なる神の御心に立ち返り、代々に渡って守り行ってきた、「什一の掟」を忠実に果す、民族的「使命」への回帰を促す、神の「愛のメッセージ」です。ですからこの「試す」とは、「繁栄の神学」が語るような、信仰上の「方法論」では決してありません。


 「テスト(試験)」の好きな人間は殆どいません。何故なら、テストには必ず「結果(点数)」が伴ってくるからです。例えば「如何に、自分が勉強してこなかったか!」などと後悔するから・・・・。しかし「テスト」を課す立場にある人にとっては、「テスト」を与えることの中に、必ずその「意味付け(目的)」がある訳です。そして、何よりも「テスト」を受けることで、当然「結果」が分かる訳ですから、その人は必ず次の「テスト」を受ける前に、もっとより深く「理解する(学習する)」ことの必要性を、改めて「知る(学習する)」のです。


 ですから、私たちがこの第四の「掟」に関して、一番知るべき重要な奥義は、「主を畏れること」を学ぶために、「什一の掟」が与えられている、つまり霊的テストが課せられている!ことです。「什一の献げ物」の恵み(報い)は、勿論経済的な祝福も伴ってくる訳ですが、それ以上に父なる神(家長)が、私たち「キリストの家族」を、全責任をもって担って下さり、御子イエス・キリスト(長子)を通して、今も尚一人一人のために、祝福の道を用意して下さり、私たちが霊的に「家長」の恵みを、共に食し合うことが出来るよう、常に守り導いて下さっていること、このことを何よりも「知る」ことにあるのです!


 私たちには、「学ぶ」ことが多くあります。私たちが、「主を畏れること」を学べは学ぶ程、主なる神の「慈しみ」と「素晴らしさ」、そして私たちに対する、測り知れない「ご計画」の片鱗を、「霊の眼」をもって見ることが出来るようになり、私たちは迷うことなく、主の「ふところ」に飛び込み、温かく力強い御腕に抱かれる、その「有難さ(愛の心)」に触れ、思わず「何と主なる神は、この私に畏れ多い程の恵みを、いつも用意して下さっていることか!」とへり下る、そのような霊的次元に「あなた」が入ることを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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