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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

復活の福音(No.3)

            キリストは永遠の命の糧である!




主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
                                                                                         【創世記3章22節】


「死」を滅ぼす
 ご存知のように、アダム(エバ)は「罪」を犯しました。それも父なる神との、簡単な約束を破ったことから始まりました。「罪」を犯す以前の彼らは、「エデンの園」において、「先(明日)の糧」を全く心配する必要が無い程の、神の豊かさに囲まれ生活していました。私たちが心配するような、「朝食」や「昼食」、そして「夕食」という、三つの食生活時間サイクルの中に、彼らは全く無かったからです。彼らは常に、豊かな「園の産物」を食し、いつでも満腹感(満足感)を味わっていたのではないでしょうか!ところが私たちの場合、「明日は、どのように生きていったら・・・・?」などの「不安(心配)」が、常に付きまといながら生活しています。つまり「明日の糧」を得るべく、様々な「労苦」を経ていくのです。


 「罪」とは、語源的には「~から離れる」ことです。即ち彼らは、本来自分の「霊」があるべき、正しい位置(ポジション)から離れた結果、「霊」そのものが正常に機能しなくなったのです。完全な死ではないのですが、本来「霊」が「体」を支配する(治める)べきところを、罪の結果「霊」が「体」から分離し、逆に「肉体」が「霊」を支配するという、悪しき状態に陥りました。それ故私たちも、アダム(最初の人)の子孫ですから、肉体的には必ず「死」に至ります。しかしイエス・キリスト(最後のアダム)という、「贖いの生贄」を通して、肉体は死んでも「霊」は贖われ、永遠の御国に辿り着くことが出来るという、神の「恩寵」にあずかることが可能になったのです。


復活の福音


信じる者は永遠の命を得ている。私は命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。私は、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである。・・・・人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。・・・・私の肉を食べ、私の血を飲む者は、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる。生きておられる父が私をお遣わしになり、また私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる。・・・・
                                                          【ヨハネ福音書6章47~58節】


 イエス・キリストは、何故「パン」の喩えをもって、ご自分の霊的属性(神のご性質)を紹介されたのでしょうか?この御言葉の中に、重要な奥義が示されています。それが「パン」ではなく、「肉」や「野菜」でも良かったのですが、あえて「パン」をもって説明された理由、それはご自分の「体」と「血潮」を、霊的に食する上で、非常に分かり易い「糧」であることを、イエス・キリストが十分に知っていたからです。


 ご存知のように「パン」は、小麦粉を十分に練り上げて、オーブン(かまど)で焼き上げて作ります。しかし練り上げた小麦粉の塊を焼いただけでは、それは単なる「菓子」に過ぎません。しかし小麦粉と一緒に、「パン種」つまりイースト菌を混ぜ合わせることで、あのふっくらした食パンが完成するのです。イスラエルの民は、日々の糧であるパンを食することで、生きる力を得ていました。しかし「パン種」の入っていない菓子は、とても主食にはなりません。


 実は「罪」を犯す以前のアダム(エバ)は、「園の産物」を毎日食することで、十分に生きる力を得ていたのですが、「罪」を犯した結果、今度は「肉の力」で生きる活力の「源」を、耕作(狩猟)しなければならなくなったのです。このような、「肉の力」を頼みとする生き方の結果、「人」は明日の糧を、常に心配しなければならなくなり、そして「いつか」は、終わりが来るだろう!という、希望なき寿命概念の中で生きざるを得ない・・・・、それ故に「苦労」を多く抱えたり、「貪欲」が増し加わるようになりました。


 しかし私たちが、真の「命の源」なるイエス・キリストを、私たちの「霊」の中に宿しているのであれば、この世の「パン種」ではない、真の「パン種(聖霊)」を通して味わう、「命のパン(イエス・キリスト)」を食すことによって、私たちは信仰的に益々、神の似姿に造り変えられていくのです!ところが如何せん、私たちはこの世の「パン種(肉の次元に生きること)」を、つい選択して食すために、硬い「肉片(自我)」を口に含みながら、「あーどうしよう?」と意気消沈を繰り返す始末。


 しかし、イエス・キリストは強く言われます。「あなたが、どんな状態にあっても、私自身が身代わりとなって、生きた生贄として十字架上で裂かれた。それ故に、私こそが命のパンであり、日々あなたが命のパンを食べ、私の流した貴い血潮を飲むことで、あなたはもはや、肉の次元において死んだ者となっているから、何も恐れる必要はない!」と。そうです!私たちは、イエス・キリストの十字架の「贖い」故に、イエス・キリストと共に、「この世」に死んでいるのです!


「不滅の命」を現す
 私たちはイエス・キリストを通して、「不滅の命」を現すために、次のことを何よりも大事な福音として覚えるべきです。「不滅の命」とは、私たちが肉の次元において死んだ者ではありますが、聖霊様という永遠に朽ちることの無い「パン種」が、私たちの「霊」に混ぜ合わされ、一体となっている限り、私たちは真の「命のパン」なる、イエス・キリストを霊的に益々食し、またイエス・キリストの「血潮」を仰ぎ飲み続けることで、私たちは霊の次元に生きる者とならしめて下さるという、大いなる天の祝福にあずかっていることです。


 そうです!私たちは真の「命の糧」であるイエス・キリストを、霊的に食し続けることで、「永遠の命」に至る神の「大路(正しい道)」を歩んでいるのです。この唯一の真理に至る道は、ある時にはとても長い道のりのように、感じられるかも知れませんが、必ず永遠に生きる祝福が約束されています。


 「明日」の心配は、「明日」自らが為す!と言及されたイエス・キリストは、私たちが肉の次元において弱い器であることを、「全て」ご存知です。「信仰」は上より与えられ(着せられ)、そしてイエス・キリストを通して完成されるのです。あなたが更に、永遠の「命の糧」であるイエス・キリストを食し、「復活の命」の祝福にあずかり、父なる神の大いなる祝福を届けるべく、永遠に膨らみ続け、天の恵み(祝福)を与え続ける真の「パン種」なる方、即ち聖霊様の「助け」を通して、永遠の糧なる「命のパン」を、「この世」という肉の次元に生きる人々に対して配膳できることを、主イエス・キリストの御名で祝福しお祈りします。アーメン!


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